第7話『軋むメビウス』(5)
『ステラ』。
無機質な白いサージカルマスクの奥から、一切の抑揚を持たない冷徹な声音で放たれた、そのたった三文字の架空の洗礼名。
それが空気の振動となって私の鼓膜を容赦なく叩き、微細な耳小骨を震わせ、聴神経を伝わって、私の脳髄の最も柔らかく無防備な中心部へと到達したまさにその瞬間だった。
私という人間の存在を辛うじて成り立たせていた、この宇宙で最も脆く、そして最も不確かな『精神の器』は、もはや一切の抵抗すら許されることなく、凄まじい絶望の圧力に耐えきれずに粉微塵に砕け散った。
月城詩織という、確かな血肉を持った現実の人間であり、あの日あの交差点で親友をトラックの車輪の下へと突き飛ばした、浅ましく醜い殺人鬼であるという絶対的な自己認識。
ステラという、ブルーブラックのインクと真っ白な手漉きの紙だけで構成された虚構の存在であり、残酷な作者によって両腕を根本から切断され、底なしの血の泥濘を這いずり回ることを運命づけられた、哀れな被害者であるという架空の認識。
本来であれば、決して交わるはずのない、交わってはならない二つの絶対的な矛盾が。次元の壁を越えて、私の小さな頭蓋骨の内側という極小の密室で、逃げ場のない正面衝突を起こしたのだ。
人間の脳は、自分が『罪を犯した現実の人間』でありながら、同時に『本の中に書き殴られた文字の羅列』であるという、境界を越えた異形のような矛盾を、同時に飲み込み、理解することなど絶対にできない。
もしも私がステラであるならば、月城詩織の犯した殺人という大罪は、誰かがノートの上のインクで書き連ねただけの『架空の設定』に過ぎないことになり、私が今ここで味わっている凄惨な罪悪感すらもが、ただの虚構の産物ということになる。
しかし、もしも私が月城詩織であるならば、目の前の現実の看護師が、ただの妄想の産物に過ぎない『ステラ』という名前で私を呼ぶ理由が、物理的にも論理的にも完全に説明がつかなくなってしまう。
理解不能。認識不能。
砕け散った精神の器の残骸の中で、私の脳細胞は、その絶対に処理しきれない矛盾をなんとかして繋ぎ合わせ、整合性を保とうと、凄まじい速度で狂ったように明滅と摩擦を繰り返し始めた。
右脳が『現実』を主張し、左脳が『虚構』を叫ぶ。
相反する二つの強烈な概念が、私の頭蓋骨の密室の中で猛烈な勢いでこすれ合い、激しくぶつかり合う。
その結果、引き起こされたのは。
極限の精神の崩壊が肉体へと直結して引き起こした、あまりにも暴力的で、致死的な『異常発熱』だった。
熱だ。凄まじい熱が、私の頭蓋骨のど真ん中で産声を上げた。
思考のすさまじい摩擦と、自己の崩壊に伴う莫大な熱量。私のちっぽけな脳髄は、自らの許容量を遥かに超えた異常な活動によって、自らが高熱を発する巨大な火炉と化してしまったのだ。
それは、ただの風邪や病気による発熱などという生易しいものではない。
脳を浸している脳脊髄液が文字通りグツグツと沸騰し、頭蓋骨の裏側にへばりついた灰白質が、高熱に炙られた獣の脂のようにどろどろに融解していくのが、はっきりと物理的な感覚として理解できるほどの、地獄の業火のような熱波だった。
私の体温が、人間の命を維持できる限界の温度をあっさりと突破し、たんぱく質が変性して死滅していく絶対的な致死領域へと、秒単位で異常な急上昇を始めていく。
「あ……、あぁ、ァ……ぁ、ァ……ッ!」
生まれた熱は瞬く間に頭蓋骨の内部をパンパンに満たし、行き場を求めて延髄から脊髄の太い神経の束へと流れ下り、動かないはずの私の肉体全体へと、灼熱のマグマのように一気に広がっていった。
首の奥の神経の橋を絶たれ、あの日からずっと氷のように冷たく死に絶えていたはずの私の身体。感覚すら存在しなかったはずの死肉の塊が、今は内側から容赦なく、生きたまま焼き焦がされている。
五臓六腑が内側から煮えたぎり、血管の中を流れる血液が、まるで焼け石の上に落とされた水滴のように、ゴボゴボと沸騰して気泡を立てているかのような、言語を絶する狂気的な激痛。
皮膚の下で真っ赤な肉がドロドロに溶け落ち、骨の髄が真っ黒に炭化していくような圧倒的な錯覚が、私の神経という神経を容赦なく蹂躙していく。
全身の毛穴という毛穴から、熱湯のように煮えたぎった脂汗が、間欠泉のように暴力的に噴き出した。
硬く糊付けされていたはずの冷徹な病室のシーツが、私の体から噴出する凄まじい熱と滝のような汗によって一瞬にしてぐっしょりと濡れそぼち、まるで水没したように重く私の肉体に張り付く。そして、私の肉体の輪郭に沿って、ゆらゆらと白い湯気が立ち上り、病室の冷たい空気を不気味に歪ませていく。
熱い。熱い。苦しい。痛い。
喉の奥からは、もはや言葉にならない、気道の粘膜が焼け焦げるようなひどく熱い呼気が漏れ出すだけだ。呼吸をするたびに、肺の中に煮え滾る熱湯を直接注ぎ込まれているような錯覚に陥り、肺胞がひとつひとつ破裂していくような痛みが胸郭を支配する。
熱によって毛細血管が次々と千切れ、私の眼球は血走り、視界は真っ赤に染まった歪な万華鏡のように激しく回転し始めた。
私の視界を覆っていた病室の灰色の天井が。そして、体温計を手に持ち、冷酷に私を見下ろしていたあの看護師の姿が。凄まじい熱波によって発生した蜃気楼のように、ぐにゃり、ぐにゃりと不気味に歪み、ロウソクの蝋のようにドロドロに溶け始めた。
看護師の白いマスクが溶け、その下の皮膚が溶け落ち、彼女の顔が、図書室のあの『顔の崩れ落ちた親友の幻影』と完全に混ざり合い、一つの巨大な肉の塊となって私の顔面に迫ってくる。
ピッ、ピッ、ピッ、と一定のリズムで鳴り響いていた心電図の冷徹な機械音が、まるで油の切れた巨大な鉄の歯車のように不気味に間延びし、ズーン、ズーンという、重く、低く、濁った地響きのような不快な音へと変質していく。
図書室で万年筆が紙を削るカリッ、カリッという音も。絶望の森で血の泥が降り注ぐドチャリという音も。すべてが熱によってドロドロに融解し、私を圧殺するための巨大で単調な『うなり声』となって、頭蓋骨の内部を反響し続ける。
眼球の中の水分が沸騰し、光を捉えていた水晶体が熱に煮えて白濁していく。
網膜が、限界を超えた熱によってジリジリと音を立てて焼き切れていく、凄惨な視覚の破壊。それに伴い、私の視界は、ついにその本来の色彩や形状を完全に喪失した。
赤い。
ただひたすらに、おぞましいほどに赤い。
視界のすべてが、すべてを燃やし尽くす地獄の炎のように、あるいは両肩の断面から際限なく噴き出す鮮血のように、圧倒的で暴力的な『真紅』に染め上げられていく。
私の世界を構成していたすべての要素が、この真紅の熱の中に飲み込まれていく。
あの毒々しいオレンジ色の西日が差し込む図書室も。
無数のシミが星座のようにこびりついた灰色の病室も。
漆黒の枯れ木が立ち並び、鉄錆の匂いがする絶望の森も。
すべてが、すべてが、この致死的な高熱の中でドロドロに溶け合い、見分けのつかないひとつの巨大な『赤い泥の沼』となって、私というちっぽけな存在を頭の先から完全に飲み込もうとしていた。
私の肉体は、すでに生命維持の限界をはるかに超えていた。
命そのものが、精神の崩壊がもたらしたこの規格外の熱量に耐えきれず、これ以上の苦痛から逃れるために、自らの活動を強制的に放棄しようとしているのだ。
肋骨の内側で、私の心臓が、まるで自ら破裂することを望んでいるかのような異常な速度で、狂ったように激しく脈打っている。
ドクン、ドクン、ドクンドクンドクンッ……!
そして、ついに限界の頂点へと達した。
真紅に染まりきり、沸騰していた私の視界の縁から。今度は、紙の端が炎に焼かれて真っ黒に炭化していくように。
絶対的な死と沈黙を意味する『漆黒の闇』が、じわじわと、しかし決して逃れることのできない確実な速度で、私の赤い視界を侵食し始めたのだ。
赤が、黒に塗り潰されていく。
痛みが、熱が、感覚が、暗黒の虚無へと吸い込まれていく。
全身を焼き尽くす高熱の泥の底へと、私の意識という名の小さな光が、ゆっくりと、ゆっくりと沈み込んでいく。
その最期の、消え入りそうな暗黒の淵で。私は、かろうじて残されたわずかな思考の残骸を掻き集め、自らの魂に向けた最後の問いを投げかけようとした。
私は、誰だ。
私は、親友をその手で殺し、永遠の罪悪感に苛まれる現実の殺人鬼、月城詩織なのか。
それとも、残酷な作者のペン先から生み出され、ノートの中に書き殴られた両腕のない架空の少女、ステラなのか。
私が病室の冷たいベッドの上で、図書室と森の夢を見ているのか。
それとも、図書室の机の上のスケッチブックに描かれたインクの染みが、病室という名の幻覚を見せられているに過ぎないのか。
どちらが内側で、どちらが外側なのか。
教えてくれ。私は、いったい何者なんだ。
しかし。
その人間の根源に関わる究極の問いに対する答えすらも、もはや完全に沸騰し、炭化し、ドロドロの灰と化しつつある私の脳髄の中には存在していなかった。
自分は誰なのかという問いの輪郭そのものが、圧倒的な熱に耐えきれず、ジュッ、と微かな音を立てて蒸発し、永遠に消え去っていく。
私が誰であるか。自分が現実の人間なのか、それとも虚構のインクの染みなのか。
そんなことはもう、どうでもよかった。私という概念そのものが、月城詩織という名前の響きも、ステラという架空の洗礼名も、私が犯した罪も、私が受けた罰も、すべてひっくるめて、この圧倒的な高熱の泥の底で完全に焼き尽くされ、この世界から永遠に消滅しようとしているのだから。
赤い視界が、ついに完全に漆黒へと反転した。
私を圧殺しようとしていた三つの世界が織りなす巨大な不協和音も、心電図の無機質で重たい音も、激しく打ち鳴らされていた自らの命の心音すらも。
すべてが、底なしの泥の奥底へと吸い込まれるようにして、プツン、と完全に途絶えた。
残されたのは、絶対的な無音。
そして、光の粒子すら存在しない、完全なる暗転。
私は、自分が何者なのかという答えを持たないまま。ただ名前のない、熱く燃え盛る死肉の塊となって、意識という名の光が二度と届くことのない、底なしの暗黒の奈落へと、ひたすらに静かに墜落していった。




