第7話『軋むメビウス』(4)
視界の空間そのものをズタズタに引き裂いていた無数の黒い亀裂が。
限界まで張り詰められた太い鋼の弦が弾け飛ぶような、耳の奥で火花が散るほどの甲高い破裂音とともに、唐突に消失した。
「あ、あぁ……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
全身を圧殺しようとしていた巨大な質量と、三つの世界が混ざり合う色彩の濁流が、まるで栓を抜かれた浴槽の水のように、一瞬にしてどこかへと吸い込まれて消え去った。
残されたのは、圧倒的で、鼓膜が痛くなるほどの無機質な静寂だった。
私の喉からは、陸に打ち上げられて干からびかけた魚のように、ヒュウ、ヒュウという惨めな過呼吸の音だけが連続して漏れ出している。
大きく見開かれた眼球をひくひくと痙攣させながら、私は、自らの意識が『どこ』に固定されたのかを、ゆっくりと、そして恐る恐る確認し始めた。
オレンジ色の光はない。血の泥の感触もない。
背中を覆っているのは、薬品で徹底的に漂白され、不快なほど硬く糊付けされた、冷徹な木綿のシーツの感触だった。
鼻腔を満たしているのは、人工的な柑橘の匂いでも、鉄錆のような血の匂いでもない。生命の有機的な息吹を一切許さない、冷え切った消毒用アルコールの悪臭。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
空間の隅から、私の心臓の鼓動を無機質な線として描き出す、あの感情の欠片もない心電図の機械音が、静まり返った空間に一定のリズムで響き渡っている。
視界を覆い尽くしているのは、無数のシミが星座のようにこびりついた、灰色の天井だ。
少しだけ視線を下げれば、そこには、シーツの上にだらりと投げ出されたまま、指先の一ミリたりとも動かすことのできない、死肉のような自らの青白い右腕があった。
私は、帰ってきたのだ。
いや、幻覚から覚め、強引に『現実』へと引き戻されたと言うべきか。
ここは、首から下の神経を絶たれた私が永遠に囚われ続ける絶望の棺桶。月城詩織という一人の人間が、親友を殺した罪を背負いながら生き地獄を味わうための、正真正銘の『現実の病室』だった。
激しい幻覚の嵐が過ぎ去ったあとの現実世界は、信じられないほど静かで、そして残酷なまでに揺るぎない現実の理に縛り付けられていた。
天井から泥は降ってこない。空中に赤い血文字も浮かんでいない。
ただ、動かない肉体と、取り返しのつかない罪の記憶だけが、冷たい質量を持って私をベッドの上に縫い付けている。
私は、自分が完全に狂ってしまったわけではなく、まだこの現実世界に肉体が繋ぎ止められているという事実に、絶望しながらも、心のほんの片隅で微かな安堵を抱いてしまっていた。
どれほど辛く苦しい場所であろうと、ここが『現実』という絶対的な基盤であるならば。あの、内側も外側もわからないメビウスの輪の底で、自分の存在そのものがドロドロに溶けていく狂気の感覚よりは、まだ耐え忍ぶことができる。
私は、荒れ狂う呼吸を必死に落ち着かせようと、天井のシミを見つめながら、冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
――その時だった。
ガチャン、と。
私のベッドの足元の方角から、重たくて冷たい金属の音が響いた。
それは、私の病室を外の世界から完全に隔絶している、あの分厚い扉のノブが回された音だった。
続いて、ガラガラガラ……という、建付けの悪いレールの上を重い車輪が転がるような、ひどく事務的で無機質な音が病室に響き渡る。
誰かが、扉を開けて入ってきたのだ。
私は、自分の右手の親指に固定されているナースコールを、一切押していない。そもそも、首から下が動かない私には、自らの意思でそのボタンを押し込むことなど不可能なのだ。面会謝絶の札が掛けられたこの部屋に、外部の人間が足を踏み入れる理由など、今はどこにもないはずだった。
首を動かすことのできない私は、眼球だけを限界まで下へと向け、視界の端に映り込むその『侵入者』の姿を捉えようとした。
キュッ、キュッ。
リノリウムの床を、白いゴム底の靴が擦る音が近づいてくる。
視界の端に現れたのは、糊の効いた真っ白な白衣。
現実の病室を管理する、あの無表情な『看護師』だった。
彼女は、金属製の小さなトレイを片手に持ち、私に向かって一切の足音を立てることなく、まるで滑るようにベッドの脇へと近づいてきた。
私の視界いっぱいに、その無機質な看護師の顔が覆い被さってくる。
白いサージカルマスクで顔の下半分を完全に隠し、前髪の隙間から覗くその目は、ガラス玉のように冷たく、そこに患者への同情や人間的な感情の揺らぎは微塵も存在していなかった。
先ほどの図書室の幻覚の中で、親友の腐り落ちた顔と融合して私に注射器を突き立ててきた、あの異形の偶像と寸分違わぬ、氷のような冷徹な瞳。
しかし、今の目の前にいる彼女の顔の左半分は、白骨など覗かせてはいない。腐敗した肉も張り付いていない。
これは幻覚ではない。体温を持った、現実の人間だ。
看護師は、トレイの上から、細長いプラスチックの体温計を静かに手に取った。
そして、過呼吸の名残で浅い息を繰り返し、恐怖で大きく見開かれた私の両目を、まるで実験室のモルモットの生態を観察するような、無感動で事務的な視線で見下ろした。
その直後。
静まり返った病室の空気を切り裂くように、看護師の白いマスクの奥から、低く、冷たく、そして一切の抑揚を持たない声が発せられた。
「熱を測りますよ、――『《《ステラ》》』さん」
…………え?
私の心臓が。
いや、私の肉体の時間を刻んでいたすべての歯車が、その一言によって、完全に、そして永遠に停止した。
ステラ。
今、この現実の看護師は、私のことを何と呼んだ?
ツキシロ、シオリではない。
月城詩織という、私がこの現実世界に生まれ落ちた日から、十七年間ずっと身に纏い続けてきた私の本当の名前を、彼女は呼ばなかった。
『ステラ』。
その名前の響きが、私の脳髄の最も深い部分を、鋭利な氷の刃でズタズタに切り裂いていく。
知っている。私が、その名前を知らないはずがない。
それは、あのはちみつ色の光が差し込む放課後の図書室で。
私と彼女が、机を寄せ合い、顔を見合わせながら、二人だけの秘密のようにして名付けた、タイトルすら決まっていない未完の絵本の、主人公の名前。
両腕を根本から失い、決して拾い上げることのできない星の欠片を見下ろして、暗く冷たい絶望の森の底を這いずり回っている、あの孤独で哀れな少女の『架空の洗礼名』。
ステラ。星を意味するその美しい名前を、私たちは、あの真っ白な手漉きのノートの紙面の中にだけ、そっと閉じ込めたはずだったのだ。
なぜだ。
なぜ、現実世界の、あの図書室の存在すら知らないはずの看護師の口から、その『架空の少女の名前』が、私を呼ぶ固有名詞として極めて自然に、何の違和感もなく発せられたのだ。
私の呼吸が、完全に止まった。
眼球が破裂しそうなほどに見開かれ、全身の毛穴から、氷の粒のような冷や汗が一気に噴き出す。
圧倒的な、そして決定的な『異物の発生』。
病室の床に落ちていた鎮痛剤の空き殻が、絵本の森の風景に描き込まれていた時以上の、取り返しのつかない絶対的な世界の崩壊が、今度は「現実の病室」という最後の砦の中で起きたのだ。
「あ……が……ちが……」
声にならない空気が、痙攣する私の喉の奥から漏れ出す。
看護師は、私が恐怖に白目を剥きそうになっていることなど一切気にする素振りも見せず、ただ冷々と、私の脇の下へと冷たい体温計を差し込もうと手を伸ばしてくる。
彼女の目には、私が『月城詩織』ではなく、最初から『ステラ』という名の存在として映っているのだ。それが、この世界の当たり前の真理であるかのように。
底なしの恐怖が、私の精神の器を黒い泥で満たしていく。
もしも、私がステラなのだとしたら。
私が今まで『現実』だと信じて疑わなかった、この灰色の病室は、いったい何なのだ?
首から下の神経を絶たれ、動けなくなった私のこの凄惨な人生は、月城詩織の現実などではなく。
両腕を失い、絶望の森を這いずり回る少女『ステラ』の物語を描いた、あの陰惨で悪趣味な絵本の、単なる一ページに過ぎないのではないか。
あの図書室の机の上で、残酷な作者である何者かが。
『ステラは、両腕を失っただけでなく、灰色の病室のベッドに縛り付けられ、動けない肉体の中で狂っていく幻覚を見続けました』
そんな呪いのような文章を、ブルーブラックのインクで手漉きのノートに書き連ねた。
私は、そのインクの染みが創り出した『筋書き』の中で、自分を現実の人間だと信じ込まされ、ただ筋書き通りに絶望し、役割通りに涙を流しているだけの、哀れな操り人形に過ぎないのではないか。
私が現実だと思っていたこのベッドも、シーツも、心電図の音も、そして目の前の看護師すらも。
すべては、スケッチブックの上に描かれた、緻密でグロテスクな挿絵の一部でしかない。
現実が、虚構に飲み込まれたのではない。
最初から、私という存在そのものが、インクと紙で構成された『虚構』だったのだ。
私が作者なのではない。私が彼女の幻影を創り出したのではない。
私は、誰かに書き殴られただけの、無力で、無価値で、薄っぺらい文字の羅列だ。
創造主と被造物の主従関係が、完全に、そして絶対的に反転した。
メビウスの輪の裏側が表となり、外側が内側へと裏返る。
『月城詩織』という人間の輪郭は、この冷酷な看護師の一言によって、音を立てて粉々に砕け散り、永遠の虚無の底へと消滅した。
私は、物語という名の逃れられない活字の檻の中で、ただ永遠に書き手の嗜虐心を満たすためだけに生かされ、苦しみ続ける『登場人物』としての絶対的な宿命を、ここに確定させられたのだった。




