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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第7話『軋むメビウス』(3)

 私が『私』という人間の輪郭を完全に喪失し、上も下もない底なしの虚無へと意識の核を投げ出されたその直後だった。

 三つの世界をそれぞれ強固に隔てていたはずの、硝子よりも薄く、氷よりも脆かった最後の境界線が、ついに耐えきれず、物理的な崩壊の『極点』を迎えたのだ。

 世界そのものが、巨大な見えない万力で力任せにねじ切られるような、耳をつんざくほどの激しい軋み声を上げた。


 狂気の侵食は、まず私の足元——重力の底から始まった。

 私が腰を下ろしている図書室の、長年の歩行によってニスが剥げかけ、ささくれ立っていた古い木目調の床板。その木の繊維の隙間から、突如として、ぶくぶくと醜い気泡を立てて異質な『匂い』と『感触』が沸騰し始めたのだ。

 それは、この密室空間を辛うじて満たしていたあの人工的な柑橘の香料を、圧倒的で暴力的な質量をもって完膚なきまでに駆逐し、足元から這い上がってくる冷徹な悪臭。

 現実の病室の床一面にべったりとこびりついていた、あの生命の息吹を徹底的に殺菌し、有機的な温もりをすべて根絶やしにする無機質な『消毒用アルコール』の匂いだった。


 見えないはずのその匂いが、まるで重たく湿った白いヘドロのような物理的な体積を持って床からどろどろと湧き上がり、裸足のままの私の足首にべったりとまとわりついてくる。図書室の温かい木の床が、瞬く間に、靴の裏がキュッと鳴るような病院特有の冷たいリノリウムの感触へと変質し、足の裏から骨の髄に向かって、氷のような死の冷気を這い上がらせていく。

 ここは図書室の特等席のはずなのに、私の下半身は完全に、あの絶望的な病室の冷気の中へと沈み込もうとしていた。


 ヒッ、と喉の奥で引き攣った音を鳴らし、私は恐怖に駆られて頭上を仰ぎ見た。

 すると今度は、毒々しいオレンジ色に染まっていたはずの図書室の天井が——いや、そこはすでに、いつの間にか無数の不気味なシミが張り付いた病室の灰色の天井へと完全に姿を変えていた——その灰色の天井の表面が、まるで高熱に炙られて腐敗した肉のように、どろり、どろりと重力に逆らえずに垂れ下がり、溶け落ちてきたのだ。


 ポタ……、ドチャリ……。


 私の顔面に。そして、目の前の机の上に広げられた真っ白なスケッチブックとノートの紙面に。

 灰色の天井の染みから、おぞましい音を立てて滴り落ちてきたのは、雨水でもなければ、空調の結露でもない。

 それは、あの鬱蒼とした絶望の森の底を果てしなく満たしていた、鉄錆のような血の味と、何百年も放置された死体の腐臭を放つ『赤黒い血の泥濘』そのものだった。

 生温かくて、ひどくざらついた砂利と腐葉土の感触を持った泥の塊が、中空のあちこちから無慈悲に降り注いでくる。


 ドチャリ。


 巨大な泥の塊が、私の額に直撃した。生臭い血の匂いが鼻腔を直接塞ぎ、ぬらぬらとした赤黒い液体が目頭から頬を伝って、顎の先へと滴り落ちる。


 ドチャッ、ベチャッ。


 私たちが紡ぎ出そうとしていた美しい絵本の現物である、机の上の真っ白な紙面にも、その残酷な泥が次々と降り注ぐ。手漉きの美しい紙の繊維が、泥の水分を吸って無惨にふやけ、一瞬にして取り返しのつかない赤黒い汚れへと蹂躙されていく。


 下からは、現実の病室の冷酷な消毒液が沸き立つ。

 上からは、私が紡ぎ出した絶望の物語の血の泥が降り注ぐ。

 そして私がいるこの中間地点は、オレンジ色の光が差し込む虚構の図書室。

 三つの全く異なる世界が、ひとつの空間の中でドロドロに溶け合い、決して混ざり合うはずのない異質な物質同士が互いを激しく浸食し合いながら、この宇宙のどこにも存在しない、吐き気を催すほどの地獄の坩堝るつぼを形成していく。


 空間の物理的な狂乱は、それだけでは終わらなかった。

 泥まみれになった私の眼球を、さらなる凄惨で暴力的な幻影が容赦なく突き刺してくる。

 毒々しいオレンジ色と、無機質な灰色と、赤黒い血の泥がマーブル状に混ざり合いながら渦を巻く、図書室の机の上の何もない虚空。

 そこに突如として、まるで不可視の鋭利な刃物で空間の布地そのものを十字に切り裂いたかのように、四つの残酷な『傷口』が浮かび上がったのだ。


 ジジッ、ジジジジッ……。


 空中に開いたその四つの真っ黒な裂け目からは、まるで動脈血のように鮮やかで、そして網膜を焼き切るほどに熱を持った『赤い光』が漏れ出し始めた。

 溢れ出した赤い光は、空間のキャンバスに強引に定着し、明確な意味を持ったおぞましい文字の形へと自らを削り出していく。


『面』・『会』・『謝』・『絶』。


 私が現実の病室のベッドの上で、首から下が動かないまま延々と見つめ続けることしかできなかった、あの分厚い扉に掛けられた赤いプラスチックのプレートの文字だ。

 私という醜い罪人をこの世界から完全に孤立させ、誰の救いも届かない無菌室へと幽閉するために掲げられた、あの絶対的な拒絶の四文字。

 それが今、私自身の身長よりも巨大な血文字となって図書室の空中に浮かび上がり、私の網膜に、そして脳髄の最も柔らかい部分に、呪いの焼き印のように深く、深く刻み込まれていく。

 お前は一人だ。お前は誰からも許されない。誰からも救われない。どんなに美しい虚構に逃げ込もうとも、この血塗られた密室の檻の中で、永遠に自らの罪悪感の業火に焼かれて孤独に死んでいくのだ。

 空中に浮かび上がった巨大な赤い文字が、まるで意思を持った巨大な生き物のように私に向かってそう宣告し、ぽた、ぽた、と空虚な空間から本物の生血を滴らせながら、私の精神の防波堤を完膚なきまでに打ち砕いていく。


「あ……あぁぁ……ちがう、わたしは、わたしは……っ」


 私は、這い上がってくる冷たい消毒液の霧と、頭上からとめどなく降り注ぐ生温かい血の泥の中で、ガチガチと激しく歯の根を鳴らしながら、縋るように、祈るように前を向いた。

 目の前には、ただ一人、この狂気と混沌が渦巻く空間に私と共に存在してくれている『彼女』がいる。

 彼女は、顔の左半分の肉をどろどろに腐り落とし、白骨を覗かせながらも、自らに与えられた『絵に色を塗る』という役目を全うしようと、その白魚のような美しい右手の指先で『赤茶色の色鉛筆』を強く握りしめ、泥で汚染されていくスケッチブックの紙面に、ひたすらに絶望の森を描き続けている。


 ザリッ、ザザッ、ゴリッ。


 黒鉛が紙を削る音だけが、私の命を繋ぎ止める最後の錨だった。彼女がそこにいて、絵を描いてくれている限り、私はまだこの図書室にいることができるのだと、そう狂信的に信じ込もうとした。

 しかし。

 私が、彼女の細い指先に握られたその赤茶色の色鉛筆の先端を、涙で歪んだ瞳で見つめた、まさにその次の瞬間のことだった。


 彼女の指先にしっかと握られていたはずの木製の色鉛筆が。

 まるで、高熱の炎に直接焙られた飴細工のように、ぐにゃり、と不気味な曲線を描いて歪んだかと思うと。音もなく、その物理的な形状と材質を、全く別の『現代の無機質な異物』へと完璧にすり替えてしまったのだ。

 温かみのある木と黒鉛の感触は、瞬時にして消え失せた。

 代わりに彼女の指の間に現れたのは、蛍光灯の光を冷たく、そして鋭く反射する、無機質で透明なプラスチックの筒。

 紙の表面に色彩を乗せるための、丸みを帯びた顔料の芯は。人間の柔らかな皮膚を突き破り、血管の奥深くへと直接異物を流し込むための、鋭利で残酷な中空の鋼鉄の針へと姿を変えていた。


 彼女が力強く握りしめていたのは、もはや絵本を描くための色鉛筆などではなかった。

 それは、現実の病室で、幻肢痛と痙攣によって発狂しそうになる私の肉体を無理やりに鎮圧し、意識を刈り取るために、あの白衣の看護師が冷徹な手つきで握りしめていた『注射器』そのものだった。

 透明なプラスチックの筒の中には、私の意識を強制的に混濁の泥の底へと沈めるための、無色透明でひどく化学的な薬品がなみなみと満たされている。

 彼女の指が、注射器の押し子を微かに押し込む。

 鋭い鋼鉄の針の先からは、ツー、と冷たい薬品の雫が滴り落ち、血の泥にまみれたスケッチブックの紙面へと、新たな毒のシミを広げていく。

 命の息吹を与えるための『色彩を塗る』という神聖な行為が、命を強制的に停止させるための『薬品を注射する』という死の行為へと、私の目の前で残酷極まりない形で完全に反転させられたのだ。


 ヒッ、と息を呑んで、私は注射器を握る彼女の顔を、弾かれたように見上げた。

 そこにあったのは、もはや肉が崩れ落ちた親友の悲しい顔ですらなかった。

 無機質な白いサージカルマスクで顔の下半分を完全に覆い隠し、感情の欠片も宿っていない氷のように冷たくて事務的な瞳で私を見下ろす、あの現実の病室の看護師の顔が、図書室のオレンジ色の空気の中に不気味に浮かび上がっていたのだ。

 いや、違う。よく見れば、それは単なる看護師の顔ではない。

 顔の右半分は、白いマスクを着けた看護師の冷徹な横顔。しかし顔の左半分は、肉が腐り落ち、白骨が剥き出しになった親友の、引き攣った非対称の笑顔だ。

 清潔な白いマスクの布地と、ドロドロに溶けた死体の赤黒い肉が、縫い目もなく不気味に融合し、継ぎ接ぎだらけの吐き気を催すような異形の偶像となって、私を上から覗き込んでいる。


 私が最も愛した親友の色鉛筆と、私が最も恐れた看護師の注射器。

 私が帰りたいと願った図書室の温もりと、私を閉じ込める病室の冷酷な死の気配。

 私を癒やす存在と、私を罰する存在。


 それらが、一つの肉体の中で完全に重なり合い、分離し、そして再びおぞましい形で融合を繰り返す。

 もはや、私の小さな脳髄は、眼球から絶え間なく送り込まれてくるこの矛盾に満ちた異常な情景と空間のねじれを、理解し、受け入れることを、完全に放棄していた。


 カリッ、カリッという、万年筆のペン先が紙を削る音。

 ピッ、ピッ、ピッという、心電図の規則正しく無機質な機械音。

 ドチャリ、ベチャリという、天井から降ってくる血の泥の音。

 キュッ、キュッという、看護師の白いゴム底の靴がリノリウムの床を擦る不快な摩擦音。

 そして、私の喉の奥から漏れ続ける、ヒュウヒュウという惨めな過呼吸の音。


 図書室と、病室と、絶望の森。

 三つの世界から発せられるそれらのすべての音が、調律を完全に失い、狂気に支配されたオーケストラのように、一つの巨大で醜悪な『不協和音』となって私の両耳の孔から暴力的に侵入し、頭蓋骨の内部で大爆発を起こした。

 音の暴力。色彩の氾濫。悪臭の渦。そして三つの世界が持つ物理的な重力と質量。

 それらすべてが、私という小さな肉体を四方八方から容赦なく、完全に圧殺しにかかる。


 ギリッ……ギリギリギリッ……!


 私の世界を辛うじて成り立たせ、私という人間の形を保っていた『認識の器』が、目に見えない巨大な万力で限界まで締め上げられた薄い硝子細工のように、ついに限界点を迎え、悲鳴を上げて粉々に砕け散った。

 視界の空間そのものに、ピキッ、ピキキキキッ、と。

 まるで分厚い鏡に巨大なヒビが入るような、黒くて鋭い亀裂が無数に走り始める。

 オレンジ色の図書室の机も、冷たい病室のベッドも、森の血の泥濘も、空中に浮かぶ赤い血文字も、注射器を握る異形の偶像も。

 私の視界に映るすべてのものが、その空間を走る黒い亀裂によってズタズタに分断され、意味を持たないただの色彩と質量の破片となって、底なしの狂気の螺旋へと崩落していく。


 私は、粉々にひび割れていく視界の中心で、自らの脳髄を巨大な鋼鉄の手で直接握り潰されるような、想像を絶する絶対的な圧力と激痛に、ついに白目を剥き、声帯を根本から引きちぎらんばかりの絶叫を、この混濁しきった空間の果てに向かって叩きつけたのだった。

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