第7話『軋むメビウス』(2)
ぐるぐる、ぐるぐると。
私を縛り付けた三つの地獄が、見えない巨大な鉄の歯車に噛み砕かれながら、恐ろしい速度で反転と回転を繰り返している。
毒々しいオレンジ色の西日が網膜を焼いたかと思えば、次の瞬間には病室の灰色の天井が視界を押し潰し、息を吐き出す間もなく絶望の森の漆黒の枯れ木が眼球に突き刺さる。
人工的な柑橘の香料、むせ返るような消毒用アルコール、そして鉄錆のように生臭い血と泥の腐臭。
全く異なる三つの空間の情景と匂いが、数秒、いや、数分の一秒という刹那の単位で暴力的に切り替わり、私の脳髄を休むことなく激しく打ち据えていた。
もはや、どこが空間の『外側』で、どこが空間の『内側』なのか。現実という名の強固な土台がどこに存在しているのか。その絶対的であるはずの主従関係の基盤が、音を立てて粉々に崩落していく。
私は、極限の回転と混濁の最中で、自らの存在の根源を揺るがす、あるおぞましい『錯覚』――あるいは、それこそが絶対的な真実なのかもしれないという底なしの恐怖に、完全に絡め取られていた。
私が『現実』だと信じて疑わなかった、あの灰色の病室。
首から下の神経を絶たれ、微動だにしない死肉のような右腕をシーツの上に投げ出したまま、感情を持たない心電図の音に命を削られている哀れな私。
しかし。その冷たくて硬い木綿のシーツの感触は、この激しい変転の中で、次第に異様な質感へと変貌を遂げようとしていた。
硬く糊付けされた布の繊維が、私の背中の下で、じわりじわりと『手漉きの画用紙のざらつき』へとその物理的な手触りを変えていくのだ。
病室の壁を這う点滴の透明な管は、誰かが硬い鉛筆で乱暴に引いた黒鉛の線にしか見えなくなり、視界を覆い尽くしている灰色の天井は、巨大なスケッチブックがパタンと閉じられた時の、分厚い表紙の裏側の暗闇に思えてくる。
私の肉体には、三次元の厚みなど最初から存在しなかったのではないか。
仰向けに寝たまま動けないのは、首の神経が切断されたからではない。私が、この図書室の机の上に広げられたスケッチブックの紙面に、赤黒いインクと濁った絵の具で塗り込められた、ただの平面の『挿絵』に過ぎないからではないのか。
今、こうして涙を流し、絶望に打ちひしがれている病室の私の姿は。
図書室に座る何者かが、自らの陰惨な嗜虐心を満たすためだけに描き出した、哀れでグロテスクな一枚の絵に過ぎないのだとしたら。
私は人間ではない。厚みを持たない紙の上の染みだ。
誰かの気まぐれな指先が、この灰色の天井という名の表紙をめくり、次のページへと移行してしまえば。病室に横たわる私という存在は、その瞬間に紙と紙の間に挟まれて完全に圧死し、永遠の暗黒の底へと塗り潰されてしまうのだ。
その想像を絶する虚無感が、私の心臓を氷の万力で締め上げる。私は、頭上から巨大な指が降りてきて、この空間ごとページをめくり上げてしまうのではないかという恐怖に震え、紙の繊維という名のベッドの上で声にならない悲鳴を上げ続けた。
だが、その恐怖すらも、次の瞬間に訪れる別の絶望によってあっけなく塗り潰される。
視界が反転し、病室の灰色の暗闇が、毒々しいオレンジ色の光へと乱暴にすり替わる。
私は、図書室の硬い木製の椅子に座り、真鍮の万年筆を握りしめている。目の前には、顔の皮膚がドロドロに崩れ落ちた親友の幻影が、非対称の笑顔を浮かべて座っている。
私が、言葉を紡いでいるのだ。私が、物語の支配者であり、創造主なのだ。
しかし、その万年筆の冷たい金属の感触を指先に感じながらも、私の足元からは、ひどく生温かくて生臭い『血の泥』の感触が、じわじわと膝下を這い上がってくるのを感じていた。
このオレンジ色の図書室は、本当に私が現実から逃避して創り上げた空間なのだろうか。
違う。違うかもしれない。
もしかすると、図書室の椅子に座る私こそが、最も儚くて脆い『一瞬の幻覚』なのではないか。
本当の私――唯一の真実の肉体を持つ私は、あの鬱蒼とした絶望の森の底で、両腕を根本から切断され、吹き出す自らの血の温かさに命を散らしながら這いずり回っている、あの孤独な少女の方なのではないか。
両腕をもがれ、泥の中で死に絶えようとしている少女の脳髄が、最期の瞬間に見た、あまりにも甘くて悲しい妄想。
『もしも、両腕が切断されていなかったら。もしも、あんな凄惨な事故が起きていなかったら。私は放課後の図書室で、大好きな彼女と一緒に、こんな風に美しい絵本を作りたかった』
そんな、叶うことのなかった願いが、死の間際の脳神経の異常な発火によって生み出した、泡沫のような白昼夢。それが、この図書室での私と彼女の光景なのだとしたら。
この万年筆を握る手も、彼女に向ける引き攣った笑顔も、すべては血の泥の中で死にゆく少女の、哀れな走馬灯の一部に過ぎない。少女の心臓が最期の鼓動を打って完全に停止した瞬間、この図書室も、オレンジ色の光も、彼女の幻影も、シャボン玉が弾けるように跡形もなく消え去ってしまうのだ。
私が彼女を創り出したのではない。
泥の中で死にかけている少女が、私を創り出しているのだ。
病室の私が、図書室の私を創ったのか。
図書室の私が、森の少女を描いたのか。
森の少女が、図書室と病室の幻夢を見ているのか。
内側と外側が、激しく反転を繰り返す。創造主と被造物の立場が、一回の呼吸の間に幾度も、幾度も入れ替わり、絡み合い、結び目を失った糸のように複雑に捻じれていく。
誰が神で、誰が操り人形なのか。
どれが現実の肉体で、どれがインクの染みなのか。
私。
私とは、いったい何なのだ。
(私……。わたし。ワタシ)
脳内で、その言葉を何度も、何度も狂ったように反芻する。
しかし、繰り返せば繰り返すほど、『私』という言葉が持つはずの輪郭が、熱湯に投げ込まれた飴玉のようにどろどろと溶け出し、その意味が完全に崩壊していくのを感じた。
私の名前。私の記憶。私の罪悪感。
それらを束ねていたはずの『私』という主語が、音を立てて解体されていく。
のぎへんに、ム。
頭の中に浮かべたその漢字の形が、まるでバラバラの黒い虫の死骸のように見え始める。それはもはや、私という人間を指し示す神聖な記号ではなく、手漉きの紙の上にブルーブラックのインクで無意味に書き殴られた、ただの醜いインクの線の交差でしかない。
言葉が、意味を失う。
私が、私ではなくなる。
私は、物語を紡ぐ『作者《神》』なのだろうか。
真鍮の万年筆を握り、自らの罪悪感という名の猛毒をインクに乗せて、絶望の血の森を創り出した傲慢な支配者。思い通りに動かない現実から目を背け、自らの都合のいいように虚構を歪曲し、親友の幻影を死体のように動かしている狂った人形遣い。
それが、私なのか。
それとも、私は、ただ絶望の光景を見せられているだけの『読者《傍観者》』なのだろうか。
動かない灰色のベッドに縛り付けられ、自分の意思とは無関係に、目の前でめくられていく凄惨な絵本のページを、ただひたすらに見つめ続けることしか許されない哀れな傍観者。私の人生そのものが、誰かが暇つぶしに書いた悪趣味な悲劇の物語であり、私はその残酷な展開に涙を流すようあらかじめ設定された、意志を持たない観客に過ぎないのか。
それが、私なのか。
あるいは、私は、誰かに書き殴られただけの『文字の羅列』なのだろうか。
両腕を根こそぎ切断され、血の泥濘を這いずり回る少女。その凄惨な苦痛は、私自身の肉体の痛みではなく、私の外側にいる何者かの『作者』が、私を痛めつけるためだけに書き連ねた呪詛の文章が引き起こしている現象に過ぎない。
私の絶望も、私の流す血の涙も、私の罪悪感すらも。すべては黒いインクの染みによって構成された、ただの紙の上の設定に過ぎない。
私は血の通った人間ではなく、このノートの罫線の中に閉じ込められた、無力で惨めな顔料の集合体でしかない。
それが、私なのか。
作者。読者。文字の羅列。
その三つの仮面が、私の顔の上でまじい勢いで回転し、張り付いては剥がれ、剥がれては張り付く。
私は、そのどれもであり、同時にそのどれでもなかった。
認識の器が、耐えきれないほどの圧力を受けてメキメキとひび割れ、ついには音を立てて完全に砕け散った。
『私』という存在を繋ぎ止めていた魂の錨が根本から引き抜かれ、私は無限に広がる上下のない虚空へと、真っ逆さまに投げ出されたのだ。
私が誰であるかなど、もはや誰にも証明できない。
病室の壁も、図書室の本棚も、森の枯れ木も、すべてが嘘で、すべてが真実だった。
私は自らの名前すら忘却し、どろどろに溶け合った三つの世界が作り出す巨大な渦の底で、ただ意味のないうなり声を上げながら、果てしない自己の喪失という名の深淵へと沈み込んでいくしかなかったのだ。




