第6話『嘘つきなキャンバス』(5)
どれほどの時間が、この毒々しいオレンジ色に満ちた密室の空間を流れ去っていったのだろうか。
一分かもしれないし、あるいは永遠にも等しい数百年という気が遠くなるような時間だったのかもしれない。
私の異常なまでの自己嫌悪と罪悪感という名の猛毒を、ブルーブラックのインクに乗せて吐き出し続けたノートの傍らで。焦点の合わないガラス玉のような瞳に引き攣った笑顔を貼り付けたままの『彼女』は、ひたすらにスケッチブックの紙面を赤黒い泥と腐敗した深緑の顔料で汚染し続けていた。
ザリッ、ザザザッ、ゴリッ。
硬い黒鉛と色鉛筆の芯が画用紙の表面を容赦なく削り取り、紙の繊維をズタズタに引き裂きながら、そこに凄惨な地獄の光景を定着させていくそのおぞましい摩擦音だけが、図書室の空気を重く、低く震わせ続けていた。
やがて。
彼女が握りしめていた赤茶色の色鉛筆の動きが、唐突に、ピタリと止まった。
彼女は、短く削り込まれ、芯の先が丸く鈍くすり減ってしまったその色鉛筆を、コトン、と乾いた音を立てて木製の画材箱の縁へと静かに置いた。
そして、毒々しい西日を背にして私の方へとゆっくりと首を巡らせ、非対称に歪んだあの不気味な微笑みをさらに深く刻み込みながら、完成したスケッチブックを両手でそっと持ち上げ、私の目の前へと差し出してきた。
「できたよ、詩織。……見て。詩織の言葉が、こんなに綺麗な景色になったよ」
彼女の口から零れ落ちたその言葉は、純粋な歓喜と達成感に満ちていた。
私は、呼吸をすることすら忘れ、限界まで見開かれた眼球をひくひくと痙攣させながら、目の前に突きつけられたそのスケッチブックの紙面へと、恐る恐る視線を落とした。
そこには、完全なる絶望が、圧倒的で暴虐的なまでの緻密さをもって描き出されていた。
光を一切通さない、墨汁をぶちまけたような漆黒の木々が、檻のように四方を囲む鬱蒼とした森。足元には、鉄錆のように赤黒く変色した血の泥が果てしなく広がり、底なしの沼となって不気味な気泡を浮かべている。
その泥濘のど真ん中に、一人の少女が倒れ伏していた。
両肩の先から腕を根本から失い、純白だったはずのワンピースを赤黒い血と泥でべったりと汚した孤独な少女。彼女の足首には、まるで生き物のように泥がまとわりつき、その傷口からは絶え間なく鮮血が滴り落ちて、足元の血の海をさらに深く、広く侵食し続けている。
希望など、欠片もない。光も、救済も、癒やしもない。
私自身の罪悪感が紡ぎ出した残酷な言葉の連なりが、彼女の天才的な筆致によって、見事に、そして完璧な地獄の光景として顕現していた。
私は、あまりのおぞましさと、それを彼女に描かせてしまった自らの罪の重さに、胃の腑から込み上げてくる凄まじい吐き気を堪えながら、その細密画のように描き込まれた森の風景の、陰惨な細部へと視線を這わせていった。
黒く枯れ果てた木々の表面の、ひび割れた樹皮のひどく生々しい質感。
泥の中に半分沈み込み、腐敗のガスを放ちながら黒く変色していく落ち葉の葉脈。
血の泥濘が光を鈍く反射する、ぬらぬらとした吐き気を催す光沢。
どれもこれも、彼女の異常なまでの描写力が遺憾なく発揮されており、絵から直接、生臭い血と泥の腐臭が漂ってきそうなほどの生々しさを放っている。
しかし。
私の異常なまでの観察眼——空間のわずかな違和感や、物理法則の綻びを絶対に見逃さない私の脳の網膜は。
その緻密に描き込まれた暗い森の風景の、画面の右下。鬱蒼とした木々の根元に、腐敗した枯れ葉が何層にも積み重なっている、薄暗い地面の片隅に。
ファンタジーの森の風景画の中には『絶対に存在してはならないもの』が、ぽつんと、しかし恐ろしいほどの存在感を放って描き込まれているのを、完璧に捉えてしまっていた。
私の心臓の鼓動が、一瞬、完全に停止した。
視界が、急速にその一点に向かって肉薄していく。
泥と血と枯れ葉が支配する、中世の地獄絵図のようなキャンバス。
その最も暗い影の底に、ひっそりと、しかし異様なまでの写実的な筆致で描き込まれていたもの。
それは、周囲の有機的で腐敗した自然物とは決定的に異なる、無機質で、工業的で、あまりにも現代的な『物理の質感』を持った異物だった。
光を鋭く、そして冷たく反射する、銀色の薄い金属膜。
その銀色の膜の上に張り合わされた、透明で硬質な、ごく薄いプラスチックのシート。
プラスチックのシートには、親指の腹ほどの大きさの丸い窪みが規則正しく並んでおり、その窪みのうちの一つは、裏側の銀色の金属膜をギザギザに破りながら、中身を押し出されたように無惨に凹んでいる。
銀色のアルミ箔の表面には、極小の文字で印字された、英数字とバーコードの配列すらもが、恐ろしいほどの緻密さで、立体的に、狂気的なほどの正確さで描き出されていた。
私は、自分が今、何を見ているのかを瞬時に理解し、全身の血が逆流するような凄まじい悪寒に襲われた。
それは、『鎮痛剤の空き殻(プラスチックの錠剤シート)』だった。
熱を出した時や、激しい痛みを伴う時に、人間が錠剤を押し出して服用するための、あのどこにでもある使い捨ての医療用包装。
なぜ。どうして。
星の破片が降り注ぎ、両手を失った少女が血の泥を這いずり回るこの絵本のファンタジー世界の中に、こんな現代の工業製品の、しかも空になったゴミの残骸が、これほどまでに緻密に描き込まれているのか。
私の脳髄の奥底で、固く閉ざされていた記憶の扉が、凄まじい勢いで蹴り破られた。
知っている。私は、この鎮痛剤の空き殻を、見たことがある。
それも、遠い過去の記憶ではない。つい先日の、あるいは昨日のことだ。
現実世界の、あの灰色の病室で。
首から下の神経を絶たれ、動くはずのない右腕が、切断された神経の異常発火によって引き起こした、あの無惨な数ミリの痙攣。
幻肢痛と痙攣によるあまりの激痛に、私はベッドの上で過呼吸を起こし、白目を剥いて泡を吹いた。
駆けつけてきた看護師が、私の口を無理やりにこじ開け、少量の水とともに強力な鎮痛剤の錠剤を私の喉の奥へと流し込んだ。
その時。
看護師が錠剤を押し出した直後の、あの『銀色のアルミ箔が破れたプラスチックのシート』を。
彼女は、私のベッドのすぐ脇にあるプラスチックのゴミ箱に向かって、無造作に放り投げたのだ。
カラン、と。
軽いプラスチックとアルミ箔が擦れ合う、ひどく無機質で、乾いた音が病室の床に響き。そのゴミは、ゴミ箱の縁に当たって床に転がり落ちた。
私は、意識が混濁していく中、ベッドの端から床に落ちたその『鎮痛剤の空き殻』を、薄れゆく視界の端でじっと見つめていたのだ。
銀色のアルミ箔の、ギザギザに破れた縁の形。プラスチックの透明なドームが潰れた、あの歪な凹み。
今、このスケッチブックの血の森の片隅に描き込まれている『それ』は。
私が現実の病室の床で見た、あの現実の医療廃棄物の残骸と、傷の一つ、アルミ箔の破れ方一つに至るまで、寸分の狂いもなく完全に、全く同じ形状をしていた。
「ひっ……! ぁ、あ……!」
私の喉から、引き攣った鳥の鳴き声のような悲鳴が漏れた。
これは、どういうことだ。
なぜ、現実の病室の床に転がっていたはずのゴミが、私が創り上げたこの図書室の空間で、死者の幻影である彼女が描いた絵本の中に、存在している。
この圧倒的な物理的違和感が、私の脳を巨大な鉄の歯車にかけて粉砕していく。
私の異常な記憶の深淵から、彼女の幻影が『病室の床のゴミ』の光景を無意識に引きずり出し、それを単なる風景の一部として絵本の中に描き込んでしまったのか。
私の罪悪感が森の風景を汚染したように、私の現実の病室の記憶が、この絵本のキャンバスを侵食してしまったとでもいうのか。
それとも。
私の脳が、そこからさらに恐ろしい、絶対に行き着いてはならない『最悪の推論』へと跳躍した。
もしも。もしも、逆だとしたら?
現実の病室の光景が、絵本の中に侵食したのではないとしたら。
この、鎮痛剤の空き殻が落ちている光景が描かれた『絵本』の世界こそが、絶対的な真実なのだとしたら。
あの灰色の病室。動かない肉体。心電図の音。白々しい母親の愛情。
私が「現実」だと信じて疑わなかった、あの凄惨な地獄の光景そのものが。
実は、この図書室の机の上で、私と彼女が作り上げている『絵本の中の物語』に過ぎないのではないか。
私は、首から下が動かなくなった哀れな被害者などではなく。
両腕を失い、血の海を這いずり回る少女の絶望を描いた、この悪趣味で陰惨な絵本の、単なる『登場人物』として活字の檻の中に閉じ込められているだけの、架空の存在に過ぎないのではないか。
「違う……。ちが、う……。私は、私は……!」
現実とはなんだ。虚構とはなんだ。
病室のベッドの上で、空想の図書室の幻を見ているのが私なのか。
図書室の机の上で、病室のベッドに縛り付けられている自分の物語を読まされているのが私なのか。
それとも、絵本の中の少女が見ている悪夢が、病室であり、図書室なのか。
「病室(現実)」「図書室(空想)」「絵本(作中作)」。
三つの階層を隔てていたはずの強固な境界線が、この銀色のアルミ箔の描かれた一枚の挿絵によって、完全に、そして跡形もなく決壊した。
世界が、どろどろに溶け合っていく。
上下の感覚が消失し、内側と外側がメビウスの輪のように表裏一体となって反転し続ける。
私は、箱庭の外側にいるのか、内側にいるのか。
私は、現実を捻じ曲げて虚構を創り出した神なのか。それとも、何者かによって書き殴られたインクの染みに過ぎないのか。
認識の基盤が根本からへし折られ、私は底なしの狂気の螺旋へと真っ逆さまに落下していった。
「あはは……! あははははははっ!!」
もはや、恐怖すらも振り切れていた。
私の口から、狂気に完全に脳を食い破られた者の、ひび割れた爆笑が爆発した。
毒々しいオレンジ色の西日が、図書室の空間をぐるぐると回転し始める。
人工的な柑橘の匂いと、生臭い血の匂いと、消毒液の悪臭が、一本の太い縄のように絡み合いながら私の首に巻きつき、呼吸を完全に奪っていく。
「詩織? どうしたの、詩織。ねえ、私の絵、おかしいかなぁ?」
焦点の合わないガラス玉の瞳を持った彼女が、非対称に引き攣った笑顔を顔に貼り付けたまま、小首を傾げて私を覗き込んでくる。
その顔の表面から、ボロリ、と。
蝋人形の皮膚が溶け落ちるように、彼女の頬の肉が崩れ落ちたような気がした。
私は、自らの笑い声で鼓膜を破りそうになりながら、ぐるぐると回転するメビウスの輪の底で、鎮痛剤の空き殻が描かれたその絵本のページを、血の涙を流しながら見つめ続けた。
もう、どこにも帰る場所などない。
現実も、虚構も、物語も。すべてが私を閉じ込めるための、血塗られたキャンバスなのだ。
私は、自分が何者なのかすらわからなくなった絶対的な虚無の中で、ただひたすらに、狂った笑い声をオレンジ色の地獄に響かせ続けることしかできなかった。




