第6話『嘘つきなキャンバス』(4)
私の意思を完全に剥奪し、どろりとした赤黒いインクでノートの紙面を無惨に犯し尽くした『幻の右腕』が、ひどく重たい鉛の塊のように動きを止めた。
カリッ、という万年筆の鋭い摩擦音が図書室の空間から途絶え、後には、耳鳴りがするほどの不気味な静寂だけが残された。
真っ白だったはずの手漉きの紙面は、私の心の奥底から湧き出した猛毒のような罪悪感によって、完全に汚染されていた。そこには、両腕を根本から切断され、底なしの血の泥濘の中で蛆虫のように這いずり回る孤独な少女の、終わることのない凄惨な苦痛が、呪詛のように書き連ねられている。
私は、自分が紡いでしまったそのおぞましい言葉の連なりから、視線を剥がすことができなかった。
呼吸をするたびに、肺の奥底にまであの人工的な柑橘の香料が入り込み、私の胃袋を激しくかき回す。毒々しいオレンジ色の西日が、ノートに刻まれた赤黒い文字を容赦なく照らし出し、まるで文字そのものが生きた傷口であるかのように、ぬらぬらとした生々しい光沢を放たせていた。
——コトン。
その時、静まり返った図書室の空気を震わせて、微かな、しかし決定的な木の音が響いた。
隣の席に座る『彼女』が、机の上に置かれていた愛用の木製画材箱の蓋を、ゆっくりと開いた音だった。
ビクッ、と私の肩が跳ねる。
彼女の番だ。
私と彼女の、この絵本制作における絶対的な約束ごと。私が言葉という名の骨格を紡ぎ、彼女が色彩という名の血肉を与える。
私が紡ぎ出してしまったこの『絶望の森』の風景に、今度は彼女が、隣に広げられた真っ白なスケッチブックの上で、緻密な挿絵として命を吹き込もうとしているのだ。
(やめて。……描かないで。お願いだから)
私は、喉の奥で声にならない悲鳴を上げながら、ゆっくりと彼女の手元へと視線を向けた。
画材箱の中には、虹の欠片を閉じ込めたように美しい、何十色もの色鉛筆や絵の具のチューブが整然と並んでいる。
かつての彼女は、あのキャンバスに向かう時、迷うことなく『青』を選んでいた。
深く澄み切ったセルリアンブルー。夜の帳を思わせるウルトラマリン。そして、星の瞬きを描き出すための、目も眩むようなレモンイエロー。
彼女の細くて白く、美しい指先がそれらの色彩を握りしめ、紙の上で幾重にも重ね合わせていくその過程を眺めている時間が、私は何よりも好きだった。彼女の生み出す夜空は、どんな宝石よりも美しく、私の孤独な心を満たしてくれる唯一の魔法だったのだ。
しかし。
今、画材箱の上を静かに滑るように動いている彼女のその美しい指先は。
私が愛してやまなかったあの青色や黄色の群れを、まるでそれが最初から存在していないかのように、完全に、そして無慈悲に素通りしていったのだ。
そして、彼女の白魚のような指が、迷うことなく、すっと一本の色鉛筆をつまみ上げた。
その芯の色を見た瞬間、私の全身の血液が一瞬にして氷のように冷たくなった。
それは、濁りきった赤茶色。
美しい夕焼けの赤でもなければ、命の躍動を感じさせる鮮やかな真紅でもない。
空気に触れて激しく酸化し、腐敗の過程を歩み始めた生血が、アスファルトの上で乾燥してこびりついた時のような、おぞましい『鉄錆と死の赤色』だった。
彼女は、その赤茶色の色鉛筆を握りしめると、一切の躊躇もなく、真っ白なスケッチブックの紙面へとその先端を押し付けた。
ザリッ、ザザッ……。
硬い黒鉛と顔料の塊が、画用紙の豊かな凹凸を暴力的に削り取る音が、密室の図書室に響き渡る。
それは、かつての彼女が星を描く時の、シュッ、サァッというあの柔らかくて愛おしい摩擦音とは、全く別次元の音だった。紙の繊維を破壊し、傷口を無理やりに抉り開けるような、暴力的で、ひどく耳障りな響き。
彼女の手首が、細かく、そして異様なほどの執拗さで動き続ける。
スケッチブックの真っ白だった紙面が、瞬く間に、その赤茶色の描線によって無惨に塗り潰されていく。
彼女が描き出しているのは、足を踏み入れる者すべてを絡め取り、底なしの暗黒へと引きずり込む『血の泥濘』だった。
(違う……。そんな色じゃない。あなたの色は、そんなおぞましい色じゃない……!)
私の魂が、真っ二つに引き裂かれるような錯覚に陥った。
彼女は次に、深緑色と、漆黒を同時に手に取った。
生命の息吹を感じさせる緑色ではない。淀んだ沼の底で腐り果てた水草や、光を完全に遮断されて枯れ落ちた葉が発酵し、ヘドロのようにドロドロに溶け合ったような、吐き気を催す腐敗の暗緑色。
ザッ、ザッ、ザザザザッ……!
激しい筆圧によって、血の泥濘の上に、鬱蒼とした絶望の森の木々が次々と立ち並んでいく。
それはもはや、木ですらなかった。天に向かって救いを求めるように捻じ曲がり、無数に枝分かれした枯れ木は、まるで地獄の業火に焼かれて炭化した亡者たちの、肉の削げ落ちた黒い指の群れのように見えた。
黒く塗り潰された木々の隙間には、一切の光が描き込まれない。
彼女は、この世界から『希望の色彩』を、文字通り一滴残らず徹底的に排除していく。
いつもなら、影の中にも必ず微かな青や紫を混ぜ込み、空気の透明感を表現していた彼女の繊細な色彩感覚は、完全に死に絶えていた。
ただひたすらに重く、暗く、湿り気を帯びた死臭の漂う風景が、キャンバスの上に凄まじい密度で現出していく。
「あ……ぁ……」
私は、自分の呼吸が完全に浅くなり、顎がガクガクと惨めに震え始めていることに気がついた。
止めなければ。
彼女のあの美しい才能が、こんなおぞましい血と泥の色によって汚染されていくのを、私自身のこの手で止めなければならない。
「やめて。そんな色を塗らないで。あなたは星を描くのよ。綺麗な夜空を描くのよ」と、大声で叫んで、彼女の手からその忌まわしい色鉛筆を叩き落とさなければならないのだ。
しかし。
私の喉は、まるで強力な接着剤で張り合わされたかのように、ただの一言も声を発することができなかった。
右腕を伸ばそうとしても、机の上に固定された私の幻の手は、数トンもの見えない重石を乗せられたように、指の第一関節すらピクリとも動かすことができない。
止められるはずがないのだ。
なぜなら、彼女にこの『絶望の血の森』を描かせている真の元凶は、他でもない、この私自身なのだから。
私が、ノートの紙面にあの残酷な言葉を刻み込んでしまった。
私自身の無意識に巣食う罪悪感が、彼女を救うことを絶対に許さず、永遠の苦痛と地獄の光景をこの世界に規定してしまった。
隣で狂ったように泥の色を塗りたくる彼女は、ただ、私の紡いだその残酷な『筋書き』に、一切の疑問を抱かずに忠実に従っているだけなのだ。
私が彼女の色彩を殺したのだ。現実世界でトラックの前に彼女を立たせ、その肉体を粉砕したのと同じように。今度はこの虚構の世界で、私が最も愛し、そして最も激しく嫉妬していた彼女の『美しいキャンバス』を、私自身の醜い罪の毒液で、完膚なきまでに汚染し、破壊し尽くしているのだ。
ザリッ、ザザッ、ゴリッ……。
色鉛筆の芯が限界まで押し付けられ、ボロ、ボロと無惨に崩れ落ちる。
崩れた顔料の粉が、血のようにスケッチブックの紙面に散らばり、彼女の手のひらの小指側を真っ黒に汚していく。
ふと。
激しい筆致で紙面を塗り潰し続けていた彼女が、手を止め、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。
毒々しいオレンジ色の西日に照らされた彼女の顔には。
かつて私に向けてくれていたあの優しく、穏やかで、慈愛に満ちた、完璧な『微笑み』が、寸分の狂いもなく張り付いていた。
「どうかな、詩織? 詩織の紡いでくれた物語の通りに、描いてみたよ。……すごく、綺麗に描けたと思うの」
焦点の合わないガラス玉のような瞳で、彼女はそう言ってふわりと笑った。
その純真無垢な笑顔と、彼女の手元に広がる、凄惨でグロテスクな血と泥の森の風景。
あまりにも異常で、吐き気を催すほどの圧倒的な乖離。
彼女は、自分がどれほどおぞましい地獄を描き出しているのか、全く理解していないのだ。私が用意した狂気の箱庭の中で、私が与えた罪の物語を、彼女はただ「詩織の美しい言葉」だと盲信し、純粋な喜びとともにそれをキャンバスに顕現させている。
私が、彼女をこんな異形のような偶像に変えてしまったのだ。
私が犯した罪が、彼女の魂をここまで惨たらしく冒涜し、凌辱している。
「あ……あぁぁ……」
私の胸の奥で、膨張しきった自己嫌悪の風船が、ついに音を立てて破裂した。
私は、殺人者であるという事実以上に、かつて自分が愛した彼女の純粋なキャンバスを、自らの手でこれほどまでに汚し尽くしてしまったという事実に、耐えきれないほどの絶望と恐怖を抱いた。
視界が、ぐにゃりと歪む。
私の眼球から溢れ出した涙が、毒々しいオレンジ色の光を乱反射させ、世界をさらに不気味な色彩へと変貌させていく。
私は、自分の口からとめどなく涎と涙を流しながら、引き攣った笑顔を顔に貼り付けたままの彼女が、再び真っ白なスケッチブックの中心——両腕を失った少女の姿——へと、あの赤黒い色鉛筆の先端を容赦なく突き立てる光景を、瞬きすら許されないまま、ただひたすらに見つめ続けることしかできなかった。
もう、後戻りはできない。
私たちがかつて共有していたあの美しい青春の色彩は、私自身の罪悪感の泥の下へと完全に沈み込み、二度と浮上することのない絶対的な死を迎えたのだった。




