第6話『嘘つきなキャンバス』(3)
真鍮の万年筆の鋭いペン先が、真っ白な手漉きのノートの紙面に深く沈み込み、青黒いインクの雫を孕んで静かに震えている。
私は、毒々しいオレンジ色の光に網膜を焼かれ、むせ返るような人工的な柑橘の匂いに肺を犯されながらも、自らの『幻の右腕』に全身全霊の意識を集中させていた。
書かなければならない。物語の続きを、どうしても私の手で紡がなければならないのだ。
私の意識の底に広がるあの暗黒の荒野では今も、両腕を根本から残酷に切断された孤独な少女が、吹き出す自らの血の温かさに命を散らしながら、決して拾い上げることのできない星の欠片を見下ろして泣き叫んでいる。
あの凄惨な悲劇は、現実の病室で「ノートに手が届かない」という私の肉体的な絶望と、親友を死に追いやったという真っ黒な罪悪感が、無秩序に物語の世界へと雪崩れ込み、主人公であるあの少女に最悪の罰を与えてしまった結果だ。
しかし、このノートの紙面を支配する絶対的な神は、私自身のはずだ。
私が言葉を紡ぎさえすれば、どんなに残酷な運命も、どんなに深い絶望も、必ず美しい奇跡によって覆すことができる。そう、私が彼女を救うのだ。物語の中だけでも、私自身の魂の分身であるあの少女を救済し、許しを与えなければ、私はこの先、現実世界でも空想の世界でも、永遠に血の海の中で泣き叫び続ける狂人になってしまう。
私は、奥歯を強く噛み締め、真っ暗な脳内のカンバスに、次なる展開——『救済の光景』を、必死の祈りを込めて描き出し始めた。
冷たい荒野を抜けた先に、緑豊かな美しい森があることにしよう。
木漏れ日が優しく降り注ぎ、ふかふかの苔が絨毯のように敷き詰められた、生命の息吹に満ちた静謐な森。そしてその森の最も深い奥底には、どんな致命的な傷をもたちどころに癒やしてくれる、清らかで神聖な『泉』が湧き出しているのだ。
両腕を失い、死の淵を彷徨う少女は、星の導きによってその泉へと辿り着く。そして、血に染まった肩の断面をその透き通った水に浸した瞬間、痛みが嘘のように消え去り、失われた両腕の代わりに、白鳥のような美しい純白の翼が生えてくる。
そうだ。それがいい。
どれほど深い罪を背負っていようとも、どれほど肉体を損なわれようとも、祈り続ければ必ず温かい許しが与えられる。そんな、美しくて、悲しくて、希望に満ちた救済の終幕へと、この絶望の軌道を力ずくで修正するのだ。
(書くのよ。……彼女を、私を、救うための言葉を)
私は、頭の中に構築したその神聖な泉の光景を、右手の指先へと一気に流し込んだ。
万年筆のペン先が、紙の繊維を微かに削り取るカリッ、カリッという摩擦音を立てて、ノートの上を滑り始める。
青黒いブルーブラックのインクが、私の思い描いた『救済の言葉』となって、真っ白な紙面へと次々に刻み込まれていく。
はずだった。
——ズリッ。
文字を書き始めて数秒が経過した時。私の右手に、得体の知れない、ひどくおぞましい『抵抗感』が走った。
万年筆のペン先が、まるで分厚い粘土の沼にでも足を取られたかのように、突然、異常なほどの重さを持ったのだ。
インクの出が悪いわけではない。紙の質が変わったわけでもない。
私の意思に反して、私の右手そのものが、私が紡ごうとしている『美しい言葉』を紙に定着させることを、強烈な力で拒絶し始めたのだ。
指先の骨が軋む。手首に、見えない鉄の枷をはめられ、無理やりに別の方向へとねじ曲げられているような、暴力的な力が加わる。
私は、「美しい泉」と書こうとしているのに。私の指先は、まるで私とは別の、恐ろしい怨念を持った何者かに完全に支配されてしまったかのように、私の意思を無視して勝手に別の文字の形を紙面に削り出していく。
(え……? なに、これ……。どうして……)
私は、自らの右手が勝手に動き、見知らぬ言葉をノートに書き連ねていくそのおぞましい光景を、目を剥き出しにして見下ろした。
ペン先から滲み出ているブルーブラックのインクの色が、おかしい。
最初は確かに、静かな夜空のような青黒色だったはずのインクが。文字を連ねるごとに、まるで空気に触れて酸化していく生血のように、赤黒く、どろりとした濁った色へと変質し始めているのだ。
それはまるで、私が事故の日に見た、彼女の肉体から流れ出し、スケッチブックの表紙にべったりと張り付いたあの『血の染み』と、全く同じ色、同じ粘度を持った、死者の体液そのものだった。
その赤黒く濁ったインクが、手漉きの紙の繊維の奥深くへと、毒が回るようにじわじわと染み込んでいく。
私は、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、自分の右手が勝手に書き綴ったその『文章』を、視線でなぞった。
そこには、私が思い描いた「傷を癒やす美しい泉」など、一文字も、欠片すらも存在していなかった。
赤いインクで、まるで呪いの札のように紙面に刻み込まれていたのは、次のような、暗く、グロテスクで、絶望的な言葉の連なりだった。
『両腕を失い、血の海に倒れ伏した少女は、深い、深い、底なしの絶望の森へと迷い込んだ。
光の届かない鬱蒼とした木々は、彼女を閉じ込める檻のように黒くそびえ立ち、頭上からは腐敗した果実が死骸のように降り注ぐ。
少女が足を踏み出すたびに、足元の底なしの泥は、まるで生温かい人間の血のように、彼女の裸足の足首にべったりとまとわりつき、その傷口から腐臭を放つ毒を流し込んでいく。
癒やしなど、どこにもない。泉など、どこにもない。
少女は、両腕の断面からとめどなく命の血を流し続けながら、永遠にこの血の泥の中で、蛆虫のように這いずり回る運命なのだ』
——ヒュッ、と。
私の喉の奥から、空気が凍りつくような音が漏れた。
なんだ、これは。
誰が、こんなおぞましい言葉を書いた。私ではない。私は、彼女に美しい翼を与えようとしたのだ。それなのに、なぜこんな、少女を永遠の苦痛と地獄へと縛り付けるような、惨たらしい呪詛の言葉が、私の手によって紡がれているのか。
私は、万年筆を持つ手をノートから引き剥がそうと必死に足掻いた。
しかし、私の右腕は、机に縫い付けられたようにピクリとも動かない。それどころか、私の意思を完全に無視して、赤黒いインクでさらなる凄惨な描写を紙面に書き加えようと、カリカリと不気味な音を立てて動き続けている。
その時、私の魂の最も深い海の底から、あの氷のように冷たい『もう一人の私』の声が、耳元で囁くように響いた。
(お前が、救われるわけがないだろう)
全身の血が、一瞬にして凍りついた。
(お前は、人殺しだ。親友の未来を奪い、その肉体を車輪の下で挽肉に変えた、醜くて浅ましい罪人だ。
そのお前自身の魂の分身である少女が、神聖な泉で傷を癒やし、美しい翼を与えられて空へ羽ばたくなどという、そんな虫のいい幸福な結末が許されるとでも思っているのか。
許されない。絶対に、許されてはならない。
お前は、一生許されることのない大罪を犯したのだ。だから、お前は永遠に苦しまなければならない。両腕を失い、血の泥にまみれ、決して癒えることのない傷の痛みに泣き叫びながら、救いのない絶望の森を這いずり回ること。
それこそが、お前に唯一許された、相応しい『結末』なのだ)
「あ……ああ……ちがう……っ……」
私は、自分の紡いだ赤黒い文字を見つめながら、頭を抱えて声にならない悲鳴を上げた。
わかってしまった。
私の右手を支配し、この呪いのような言葉を紡がせている正体。
それは、見知らぬ怨霊でも、悪魔でもない。
他でもない、私自身の心の奥底に巣食う、途方もない『罪悪感』そのものだった。
私の表面的な意識は、自分を慰めるために、空想の世界での救済を求めていた。しかし、私の精神の根底を支配している無意識は、そんな安い自己欺瞞を絶対に許さなかったのだ。
「自分は救われてはいけない」「許されてはいけない」。
その絶対的な自罰の念が、物語を紡ぐ筆の支配権を私から完全に奪い取った。
どんなに私が美しい言葉で世界を飾ろうとも、私の罪悪感という名の猛毒は、インクを通して言葉を汚染し、主人公である私自身を、徹底的に、最も残酷な方法で痛めつける展開へと、抗う術もなく運命をねじ曲げてしまうのだ。
私は、神などではなかった。
自分が創り上げたはずのノートの世界においてすら、私はもはや、物語を操る作者ではなくなっていた。
私は、自らの罪悪感という名の処刑人によって、永遠に終わることのない拷問を受け続けるだけの、哀れな死刑囚に成り下がってしまったのだ。
ノートの紙面には、今もなお、赤黒いインクで、血の泥にまみれる少女の凄惨な苦痛が、克明に、そしておぞましいほどの解像度で書き連ねられていく。
少女の足の爪が泥の中で剥がれる描写。肩の断面から露出した骨が、腐敗した空気に触れて軋む痛み。
それらの言葉が書き込まれるたびに、現実の私の肉体にも、脳髄を直接焼かれるような激痛が走る。
毒々しいオレンジ色の光に照らされた図書室で、私は、自らの手が自らの魂を切り刻んでいくその凄惨な光景を、止めることも、目を背けることもできず、ただ涙と涎を垂らしながら見つめ続けることしかできなかった。
物語は、完全に私の手を離れ、私自身を罰するための『呪いのキャンバス』へと、その姿を決定的に変貌させてしまったのである。




