第6話『嘘つきなキャンバス』(2)
真鍮の冷たい万年筆のペン先が、真っ白なノートの紙面に沈み込む。
金属の先端が手漉きの紙の繊維を微かに削り取る、カリッ、という微小な摩擦音。そして、私の心臓から絞り出されたような青黒いブルーブラックのインクが、毛細管現象によってじわりと紙の隙間へと染み込んでいく。
私は、毒々しいオレンジ色の光に満ちたこの狂気の図書室で、自らの罪悪感を塗り込めるようにして言葉を紡ごうとしていた。
隣の席では、私が殺した親友の幻影である『彼女』が、短くなったBの鉛筆を握りしめ、次の挿絵を描くための準備をしている。
私たちは今、机の中央に広げられたノートとスケッチブックを挟んで、まるで何事もなかったかのように、あの日からずっと止まっていた『絵本』の制作を再開しようとしていた。
「この物語が終わったら。……そうね、私たちが大人になったら、もっと大きなキャンバスに絵を描こうよ」
私は、震えそうになる自らの声帯を強引に押さえつけ、できるだけ明るく、弾むような声を作って彼女に語りかけた。
未来を語るのだ。決して訪れることのない、希望に満ちた明日を。
そうしなければ、この空間に充満している死臭のような罪悪感に押し潰され、私自身の精神が完全に破裂してしまうからだ。
「私が、世界中の誰もしらないような美しい物語をたくさん書くから。あなたは、それに一番綺麗な色をつけて。二人で、誰も見たことがないような素晴らしい絵本を、世界中に届けるの。……きっと、楽しいだろうね」
口から発せられる言葉は、どれも砂糖菓子のように甘く、そして吐き気がするほどに空虚だった。
未来。大人になる。二人で。
それらの言葉を唇に乗せるたびに、私の胸の奥深くに潜む『もう一人の自分』が、氷のように冷たく、刃物のように鋭い声で、私の言葉を嘲笑い、切り裂いていく。
(お前が、殺したのに?)
心臓のど真ん中に、太い釘が打ち込まれたような激痛が走る。
そうだ。私が殺したのだ。
彼女はもう、大人になることはない。大きなキャンバスに絵を描くことも、新しい色を塗ることも、永遠にない。
彼女の未来の時間は、あの日、あの交差点のアスファルトの上で、赤黒い血溜まりとともに完全に停止してしまったのだ。
お前が彼女の未来を根こそぎ奪い取っておきながら、どの口で『大人になったら』などという美しい嘘を吐くのか。
内なる声が、私の喉元に鋭い爪を立て、私の浅ましさを徹底的に罵倒し続ける。
胃酸が逆流し、食道を焼き焦がす。私は、自分のついた嘘の毒に自分自身が侵され、激しい自己嫌悪に身悶えしながらも、顔には引き攣った笑顔を貼り付け続けた。
私は、殺人者と被害者という残酷な事実を隠蔽するための、この滑稽極まりない『共犯関係』を、何があっても演じ切らなければならないのだ。
「……」
私が未来の約束を語り終え、彼女の返事を待つ。
しかし。
隣に座る彼女からの言葉は、すぐには返ってこなかった。
一秒。二秒。三秒。
永遠にも似た、不気味な空白の時間が図書室に横たわる。
私は、背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じながら、ゆっくりと顔を向け、隣の席の彼女を見た。
彼女は、スケッチブックに視線を落とした姿勢のまま、完全に『停止』していた。
瞬き一つしない。肩が上下する呼吸の動きもない。
まるで、ぜんまい仕掛けの時計が突然壊れてしまったかのように、あるいは、操り人形の糸が絡まって動きを止めてしまったかのように。彼女という存在の時間が、この空間からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。
「……ねえ?」
私が、恐怖に震える声で小さく呼びかける。
その声が空気を震わせてから、さらに一秒ほどの遅延を伴って。
ギグッ、と。
彼女の首が、油の切れたからくり人形のように、ひどく不自然でぎこちない動きで私の方へと向けられた。
「……うん。そうだね。……とっても、楽しいだろうね」
彼女の口から零れ落ちた声は、言葉のイントネーションがどこか平坦で、感情の起伏が不気味なほどに削ぎ落とされていた。
そして何よりも私を戦慄させたのは、私に向けられた彼女の『瞳』だった。
かつて深く澄み切っていたはずの鳶色の瞳。
しかし今、私を見つめているその左右の眼球は、視線の焦点が微かに、しかし決定的にズレていたのだ。
右目は私の鼻のあたりを虚ろに見つめているのに、左目は私の肩越しの空間——何もない虚空をぼんやりと捉えている。焦点の合わない二つの瞳孔は、まるでガラス玉のように無機質で、その奥には命の光が一切宿っていなかった。
さらに、彼女の顔に張り付いている『笑顔』も、どこかおぞましい。
右の口角は上がっているのに、左の口角は引き攣ったように下がっている。顔の筋肉の連動がバラバラになり、人間の表情としての整合性が完全に崩壊しているのだ。
ヒッ……と、私の喉の奥で、引きつった悲鳴が鳴った。
怖い。恐ろしい。
この目の前にいるのは、私の愛した親友ではない。私の記憶の残骸から無理やりに継ぎ接ぎされて生み出された、異形の肉人形だ。
私は、自らの狂気が生み出したその凄惨な綻びの理由を、直感的に、そして絶望的に理解していた。
私の脳の許容量が、完全に限界を突破し、焼き切れようとしているのだ。
現実の病室の悪臭を塗り潰すための人工的な匂い。残酷な光を覆い隠すための毒々しいオレンジ色の被膜。そして、自分が殺人者であるという罪悪感を押さえつけながら、同時に『優しい彼女』という複雑な偶像をこの空間に存在させ続けること。
それらの膨大な想像力と知覚の歪曲は、もはや私の精神の器をはるかに凌駕していた。
脳髄が悲鳴を上げ、神経細胞が次々と過熱して死滅していく。その認識の遅延が、現実の病室での『数十センチ先のノートに届かない』という絶望的な事実と相まって、この箱庭に致命的な亀裂を生じさせているのだ。
彼女の反応が一拍遅れるのも、瞳の焦点が合わないのも、笑顔の筋肉が不自然に歪むのも。すべては、私の精神がこの虚構の世界を維持しきれなくなり、継ぎ目がほころび始めている物理的・神経的な破綻の証明に他ならなかった。
このままでは、世界が崩壊する。
彼女の顔の皮膚がドロドロと溶け落ち、その下から、あの赤黒い血に染まった凄惨な死に顔が露わになってしまうかもしれない。
(見ない。……私は、何も見ない)
私は、凄まじい恐怖に全身の産毛を逆立てながら、必死に自分自身に暗示をかけた。
彼女の焦点の合わない瞳からも、引き攣った非対称な笑顔からも、私は強引に視線を剥がした。
そして、毒々しいオレンジ色の光に照らされた机の上のノートへと、逃げ込むように顔を伏せた。
無視するのだ。
どんなに世界が不気味に歪もうとも、彼女が化け物のように変質しようとも。私が『これは美しい放課後だ』と信じ込んでいる限り、私たちは共犯者としてこの箱庭に留まることができる。
私は、冷や汗で滑る真鍮の万年筆を、指の骨が白く透けるほどの強い力で握り直した。
現実の病室のベッドの上では、私の右腕は神経を絶たれ、シーツの上に沈み込んだまま微動だにしていないはずだ。しかし、この狂気の図書室においてのみ、私は自らの腕が万年筆を握り、紙に触れているという強烈な『錯覚』を、痛いほど鮮明に感じ取っていた。
書くのだ。物語を進めなければならない。
言葉を紡ぎ、この世界に新しい法則を打ち立て続けることでしか、私は自らの精神の崩壊を食い止めることができないのだ。
私は、荒い呼吸を繰り返し、震えるペン先をノートの紙面へと力強く押し付けた。
隣で焦点の合わない瞳のまま微笑み続ける、ひび割れた彼女の偶像の気配を背中に感じながら。
私は、両手を失い、血の海に倒れ伏したあの孤独な少女の物語の『続き』を、自らの罪悪感という名の猛毒が混ざり込んだブルーブラックのインクで、狂ったように紡ぎ始めたのだった。




