第6話『嘘つきなキャンバス』(1)
精神の糸が千切れ、暗黒の谷底へと真っ逆さまに墜落していった私の意識は。
自らの脳髄の奥深くで、血みどろになった神経の端と端を無理やりに掻き集め、太く錆びた針と、決して切れることのない呪いのような太い糸を使って、力任せに、そしておぞましいほど強引に縫い合わされたことによって、再びこの空間へと引きずり戻されていた。
痛覚すら麻痺するような精神的ショックの果てに、私のまぶたがゆっくりと持ち上がる。
視界に飛び込んできたのは、灰色の病室の無機質な天井でもなければ、両腕を失った少女が絶望の涙を流す凍てついた荒野の闇でもなかった。
天井まで届く、古い木製の本棚。何万という言葉の死骸が眠る分厚い背表紙の連なり。そして、私が腰を下ろしている、ニスが剥げかけた木目調の硬い椅子の感触。
私は、再びこの場所へ帰ってきていた。
あの放課後の、二人きりの図書室の特等席へ。
しかし、私の異常なまでの感受性と観察眼は、まぶたを開いたその瞬間に、この世界を構築している『絵の具』の決定的な異変を、網膜を鋭い刃物で突き刺されるような強烈な痛みとともに完璧に捉えてしまっていた。
世界が、ひどく劣化している。
私が命の残渣を削り、激痛に耐えて神経を縫い合わせて構築したはずの完璧な箱庭は、もはやかつての美しさを完全に失い、見るも無惨な、毒々しい狂気のキャンバスへと成り果てていた。
真っ先に私の視覚を暴力的に犯してきたのは、窓から斜め四十五度の角度で差し込んでくる『西日』の色だった。
以前の図書室を温かく満たしていたのは、あのはちみつをたっぷりと溶かし込んだような、柔らかくて、とろけるような琥珀色の光だったはずだ。空中に舞う微小な埃の粒子を黄金色に輝かせ、私たちの髪や肌を神々しいまでに優しく包み込んでくれていた、あの命の息吹を感じさせる豊潤な光。
しかし、今、私の眼球をジリジリと焼き焦がそうとしているこの窓からの光は、そんな温かみなど微塵も持ち合わせてはいなかった。
それは、安物の絵の具のチューブから直接ひねり出され、一滴の水も混ぜずにキャンバスに力任せに塗りたくられたような、異常なまでに彩度を上げられた『人工的で毒々しいオレンジ色』だった。
濃すぎる。あまりにも色が濃く、そして輪郭が刺々《とげとげ》しすぎるのだ。
光の当たる場所と影になる場所の境界線は、ナイフで切り裂かれたように不自然にくっきりと分断され、影の部分は底なしの漆黒のインクのように黒く沈み込んでいる。空気中を舞う埃の粒子は、もはや黄金色ではなく、蛍光色を帯びた火の粉のように異様な明滅を繰り返し、私の視界をチカチカと不快に刺激し続けている。
この異常な光の正体を、私の脳は残酷なまでに正確に理解していた。
現実の病室の天井を照らす、あの青白くて無機質な蛍光灯の死者の光。あるいは、昨夜私の網膜を焼き切った『面会謝絶』のプレートの血の気が引くような白さ。
それらの『現実の残酷な光』が、私が精神を失っている間に、この箱庭の壁をメキメキと食い破って侵食してこようとしたのだ。私の狂った脳は、その現実の白い光を強引に覆い隠すために、防御本能としてこの毒々しいオレンジ色の被膜を、限界を超えた濃度で空間全体に塗りたくったのである。
その結果生み出されたのは、温かさなど微塵もない、ただ現実を暴力的に否定するためだけに発光し続ける、頭痛がするほどに不自然で、嘘くさい色彩の地獄だった。
視覚だけではない。
私の鼻腔の奥の粘膜を、今度は暴力的な『匂い』の束が容赦なく蹂躙し始めた。
隣の席に座る彼女の細い髪から、ふわりと漂ってくるはずの柑橘系の香り。
太陽の光を浴びたもぎたてのオレンジの皮を弾いた時のような、みずみずしくて甘酸っぱい、彼女の命そのもののような匂い。
しかし、今私の肺の奥深くまで侵入し、呼吸器を内部から焼き切ろうとしているこの匂いは、もはや果実の純粋さなど一滴も持ち合わせてはいなかった。
それは、安価なトイレの芳香剤か、あるいは工業用の香料を原液のまま鼻の穴に直接流し込まれているかのような、化学的で、むせ返るほどにキツい、人工的な柑橘の匂いだった。
息を吸い込むたびに、鼻の奥がツンと痛み、胃袋の中身が逆流しそうになるほどの強烈な化学臭。
なぜ、彼女からこんなおぞましい匂いが漂っているのか。
それもまた、理由は明白だった。
現実の病室に満ちていた、あの生命を根絶やしにする消毒用アルコールの冷徹な悪臭と。私の心の中にべったりとこびりつき、今もなお腐敗し続けている『私が彼女を殺したのだ』という、あの血と鉄の混ざり合った生々しい死臭。
それらの圧倒的な現実の腐臭が、この図書室の空気を完全に支配しようと這い上がってきたため、私の脳がパニックを起こし、それをかき消すためだけに、この人工的な柑橘の香料を異常な濃度で空間に散布したのだ。
悪臭を誤魔化すために、さらに強烈で不自然な芳香を上塗りする。それはもはや、腐乱死体の匂いを隠すために香水を浴びせかけるような、哀れで吐き気を催すような狂気の隠蔽工作でしかなかった。
毒々しいオレンジ色の光と、肺を焼き切るような人工的な香料の匂い。
ここが、私があれほどまでに帰ることを切望した、完璧な聖域の成れの果てだった。
私は、机の縁に乗せられた自らの『幻の右腕』を、ゆっくりと見下ろした。
現実世界の病室では、首の奥の神経が切断され、数ミリの惨めな痙攣を起こしただけで完全に死体と化した、あの哀れな肉塊。そして、意識の底の物語の世界で、見えない刃によって根本から残酷に切断され、血の海に落ちていったあの両腕。
しかし、今私の目の前にあるこの図書室の机の上には、真鍮の冷たい万年筆を握りしめた、青白いけれど五体満足な私の右腕が、嘘のようにしっかと存在している。指先に力を込めれば、万年筆の重みを確かに感じ取ることができる。
ああ、滑稽だ。本当に、滑稽で惨めだ。
私はもう、すべてを完全に理解していた。
分厚い記憶の蓋の下に隠していたはずの、あの真っ黒な罪悪感の泥水は、すでに蓋の隙間からどろどろと溢れ出し、私の精神の床を完全に浸水させている。
ここは、私が自らの脳の神経を焼き切り、現実の理を強引に捻じ曲げて創り出した、吐き気がするほど不自然な『嘘の世界』だ。
私は、あの交差点で親友を大質量のトラックの前に立たせ、その美しい肉体を挽肉のように粉砕して殺した、浅ましくて醜い『人殺し』だ。
そして。
今、私のすぐ右隣の席で、スケッチブックに向かって静かに微笑んでいるこの少女は、私が彼女の死という現実から逃げるためだけに、私の記憶と狂気という泥をこねて創り上げた、ただの『死者の幻影』に過ぎないのだと。
私は、すべてを自覚している。
自分が狂っていることも、この世界が崩壊寸前の張りボテであることも、隣にいるのが体温を持たない亡霊であることも。
現実の私が、冷たいベッドの上に縛り付けられた、首から下が動かない醜い死体のような存在であることも。あの血塗られたスケッチブックに触れることすら許されない、無力な罪人であることも。
すべてを、骨の髄まで完全に理解してしまったのだ。
それなのに。
私は、この崩壊しゆく毒々しいオレンジ色の地獄から、立ち去ることができなかった。
現実の病室の、あの心電図の無機質な音と、面会謝絶の赤い文字、そして母親の白々しい愛情という名の責め苦に戻るくらいならば。自分が殺人者であると自覚したまま、この息が詰まるような化学的な匂いにまみれてでも、彼女の幻影の隣に座り続けることのほうを、私の哀れな魂は選んでしまったのだ。
これ以上の自傷行為が、この世のどこにあるだろうか。
私は、自分自身を騙しきれていないことを知りながら、それでも必死に自分を騙そうと足掻くという、最悪の自己欺瞞のメビウスの輪の中に、自ら進んで飛び込んでいったのである。
「……詩織?」
不意に。
隣の席に座る『彼女』が、スケッチブックから顔を上げ、私に向かってその鳶色の瞳を向けた。
過剰なオレンジ色の光に照らされた彼女の顔は、かつての透明感を失い、まるで蝋人形のように不気味なほどのっぺりとして、生命の気配が欠落しているように見えた。それでも、彼女の唇は、私が縫い付けた通りに、私を全肯定するあの優しくて穏やかな弧を描いている。
私が殺した親友の顔をした、私自身の罪悪感の産物。
彼女は、何も知らない。私が人殺しであることも、自分がすでに死んでいることも。彼女はただ、私が望む『優しい親友』という役割を、この狂気の舞台の上で永遠に演じ続けるだけの、悲しい操り人形なのだ。
「どうしたの? 万年筆の手が、止まっているよ。どこか、言葉に詰まっちゃった?」
彼女は、小首を傾げながら、人工的な柑橘の匂いを撒き散らして私に語りかけてくる。
その声の響きにすら、わずかにひび割れた無機質な反響音が混ざっているような気がして、私の背筋に氷のような悪寒が走った。
私は、胃の奥底から込み上げてくる凄まじい吐き気と自己嫌悪の塊を、奥歯を噛み砕くほどの力で必死に飲み下した。
そして。
痙攣しそうになる顔の筋肉を、見えない糸で強引に引き上げるようにして、極限の気力で『笑顔』の形へと歪めた。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと、次の展開をどうしようか、迷ってただけ」
私の口から紡がれたその声は、自分でも驚くほどに明るく、そしてひどく乾いた響きを持っていた。
嘘だ。すべてが嘘だ。
彼女の笑顔も、私の笑顔も、この空間も、私たちが交わす言葉も。
私は殺人者で、彼女は死体だ。
その絶対的な真実を心臓のど真ん中に突き立てたまま、私は、彼女に向かってさらに言葉を重ねる。
「そうだね……。ねえ、この絵本が完成したら、二人でどこか遠くへ行こうか。海が見える、綺麗な街とか」
未来など、どこにもないくせに。私たちに明日など永遠に訪れないことを、完璧に知っているくせに。
私は、自らの傷口に塩を塗り込むようにして、決して叶うことのない未来の約束を口にした。
「ふふっ、それ、いいね。詩織の言葉と、私の絵があれば、どこにだって行ける気がする」
彼女は、私のその空虚な言葉に、一切の疑いを持たずに嬉しそうに微笑み返した。
その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、千本の針が同時に突き刺さるような鋭い激痛が走った。
痛い。苦しい。
私が殺した彼女が、私のついた嘘の言葉で微笑んでいる。この地獄の茶番劇は、私の魂を秒単位で削り取り、狂気の底へと引きずり込んでいく。
「あはは……。うん、そうだね。どこにだって、行けるよね」
あはは、と。
私の口から、不気味なほどに乾いた、虚ろな笑い声が零れ落ちた。
目は全く笑っていない。瞳孔は恐怖と絶望に開ききり、全身からは冷や汗が噴き出しているというのに、口元だけが三日月の形に釣り上がり、滑稽な笑い声を上げている。
私は、自覚的な地獄の業火に身を焼きながら、毒々しいオレンジ色の西日が差し込む図書室で、死者の幻影と笑い合う。
もはや、正気を保つための防波堤は完全に決壊していた。
私は、自らが創り上げた嘘つきなキャンバスの上に、さらなる醜い嘘と血糊を塗りたくるようにして、真鍮の万年筆をノートの紙面へと、狂ったような力で押し付けたのだった。




