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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第5話『届かない指先』(5)

 痙攣を繰り返し、数ミリの地獄を這いずり回った私の右腕が、ついに完全にその力を失い、冷たいシーツの上へと沈み込んだ瞬間。

 極限まで張り詰めていた私の精神の糸は、耐えきれないほどの絶望の重圧によって、音もなくプツリと断ち切られた。

 視界を覆っていた病室の灰色の天井が、唐突に、そして完全に漆黒の闇へと塗り潰される。鼓膜を突き破るように鳴り響いていた過呼吸のヒューヒューという惨めな音も、心電図の無機質な電子音も、すべてが深い海の底へと沈んでいくように遠ざかり、やがて完全な無音へと溶け込んでいった。

 意識が、急速に暗転していく。

 限界を迎えた私の魂は、あの血塗られたノートに手が届かなかったという残酷な現実から逃げ出すように、自らの内側にある最も深く、最も暗い場所——私が彼女とともに紡ぎ出していた、あの『未完の物語』の世界へと、真っ逆さまに墜落していった。


 ——冷たい風が、吹き荒れていた。


 気がつけば、世界は果てしなく広がる、凍てつくような荒野へと姿を変えていた。

 見上げる空は、インクを零したような深い、深い藍色。その果てしない夜の闇の底に、孤独な一人の『少女』が立っていた。

 擦り切れた薄いワンピースだけを身にまとい、靴すら履かずに、裸足のまま氷のように冷たい大地を踏みしめている少女。

 それは、私が言葉を紡ぎ、彼女が色彩を与えた、あの絵本の中の主人公だ。そして同時に、あの琥珀色の図書室に帰るための切符を永遠に失い、絶望の荒野に取り残された『私自身の魂の分身』でもあった。


 荒野の空からは、時折、鋭い光を放つ『星の破片』が、ガラスの雨のように音もなく降り注いでくる。

 少女の使命は、ただ一つ。その冷たい大地に散らばった星の残骸を、一つ残らず拾い集めることだ。

 星の破片は、息を呑むほどに美しく光り輝いている。しかし、その輝きは極限まで研ぎ澄まされた刃のように鋭利であり、それに触れようとする者の柔らかな皮膚を、いとも容易く、そして容赦なく深く切り裂いてしまう。

 少女の小さな両手は、すでに無数の切り傷で覆われ、赤黒く濁った血でべったりと汚れていた。星を一つ拾い上げるたびに、指先から真っ赤な血の滴が、ぽたり、ぽたりと音を立てて冷たい大地へと滴り落ちていく。

 痛い。ひどく、痛い。

 指先を動かすたびに、傷口が裂け、熱い痛みが全身を駆け巡る。それでも少女は、決して星を拾うことをやめなかった。どんなに血を流そうとも、どんなに痛みに顔を歪めようとも、この暗闇の中で星を集め続ければ、いつか必ず自分を許してくれる温かい夜明けが訪れるのだと、そう狂信的に信じ込んでいたからだ。


 少女は、荒い息を吐きながら、暗い荒野をふらふらと歩き続けた。

 血まみれの両手を胸の前に抱え、すり減った足裏で硬い石を踏みつけながら、ただひたすらに光を求めて彷徨う。

 その時だった。


 ヒュゥゥゥン……。


 夜空のずっと高い場所、深い藍色の闇を切り裂いて、一筋のひときわ強く、そして美しい光の尾を引く星の破片が、少女のすぐ目の前へと舞い降りてきたのだ。

 カラン、と。

 澄み切った硬質な音を立てて、凍てついた大地の上に落ちたその星の破片を見た瞬間、少女はハッと息を呑み、その場に釘付けになった。


 それは、今まで少女が拾い集めてきたどの星の破片とも違う、異質で、圧倒的な美しさを放つ欠片だった。

 冷たい白銀の光ではなく、あのはちみつを溶かしたような琥珀色の西日を思わせる、どこまでも温かく、そして深く澄み切った『セルリアンブルー』の色彩。

 絵の具が幾重にも重なり合ったような、美しい青のグラデーションを内包したその星の欠片は、まるで暗闇の中で静かに脈打つ小さな心臓のように、優しく、愛おしい光を放ち続けていた。

 その青い光を見た瞬間、少女の胸の奥で、言葉にならない強烈な郷愁と、狂おしいほどの愛おしさが爆発した。

 これだ。

 この星さえ拾い上げ、自分の胸に抱きしめることができれば。私は必ず、あの温かい場所へ帰ることができる。どんなに深い傷を負っても、どんなに血を流しても、このセルリアンブルーの光だけは、絶対に手に入れなければならない。

 少女は、吸い寄せられるようにして、その美しい青い星の欠片の前へとゆっくりと歩み寄った。


 そして、冷たい大地にそっと膝をつき、血まみれになった自らの両手を、そのセルリアンブルーの光に向かって、震えながらそっと伸ばしていった。

 指先が、星の放つ温かい光の輪の中へと入っていく。

 手漉きのコットンのような、ふっくらとした温かい触感が、もうすぐ指の腹に伝わってくるはずだ。この星に触れれば、すべての痛みが消え去り、優しい夜明けが私を迎えに来てくれる。

 少女は、歓喜と祈りに瞳を潤ませながら、両手の指先を星の欠片へと限界まで近づけていった。


 あと十センチ。あと五センチ。

 あと、一センチ。


 ——しかし。

 その血に染まった指先が、セルリアンブルーの美しい星の表面に触れようとした、まさにその刹那のことだった。


(……汚い)


 不意に。

 少女の頭の真上から、冷たい氷水をぶちまけられたような、ひどく暗く、低く、そしておぞましい『声』が響き渡った。

 それは、誰の声でもない。荒野の闇の底から湧き上がってきた、少女自身——いや、現実世界の病室のベッドに縛り付けられている『私自身』の心の最も深い場所から吐き出された、呪詛の声だった。


(お前のその手は、ひどく汚れているじゃないか)


 少女の伸ばした両手が、空中でピタリと硬直した。

 星の破片を見つめていた少女の視線が、ゆっくりと、自分自身の両手へと落とされる。

 鋭い星で切ったと思っていたその手は。気がつけば、赤黒く濁った、吐き気を催すほどの大量の血と泥で、べったりと、醜く覆い尽くされていた。

 それは、星を拾ってついた傷などではない。

 あの日、あの交差点で。

 私が、彼女の心を言葉の刃でズタズタに切り裂き、絶望の底へと突き落とし、あの大質量のトラックの前に立たせた時にこびりついた、決して洗い流すことのできない『人殺しの血』だった。

 現実世界の病室で、私がいくら自分の罪から目を背けようと足掻いても、私の魂の奥底には、「私が彼女を殺したのだ」という絶対的な事実が、呪いのように深く刻み込まれている。

 私が彼女の未来を奪い、私が彼女のすべてを破壊したのだ。

 それなのに。お前はどの口で、彼女の放つ光を求めようというのか。


(人殺しの汚れた手で、こんなにも美しい星に触れることなど、絶対に許されるはずがないだろう)


 その絶対的な罪悪感の声が、荒野の空気を一瞬にして絶対零度へと凍りつかせた。

 現実の病室で「ノートに手が届かない」という肉体的な絶望を叩きつけられた私の魂が、今、この物語の世界にまで完全に侵食し、この絵本の法則そのものを残酷な罰の執行場へと書き換えてしまったのだ。

 お前は、星に触れてはならない。

 お前は、希望を抱いてはならない。

 親友を殺した醜い罪人が、温かい光に救済を求めるなどという傲慢は、この宇宙のいかなる法則を持っても、決して許されることではないのだ。


「あ……違う……。お願い、これだけは、私に……」


 少女は、血に染まった両手を必死に星へと伸ばそうとしながら、恐怖と絶望に顔を歪めて泣き叫んだ。

 しかし。

 その祈りの言葉が最後まで紡がれるよりも早く。


 ——ザンッ。


 恐ろしいほどの静寂とともに、世界に『見えない刃』が振り下ろされた。


 痛みすら、なかった。

 ただ、鋭利な銀色の閃光が空間を横に薙ぎ払った次の瞬間。

 少女の両肩の先から、空中に伸ばされていた二本の腕が。

 まるで、最初からそこに存在しなかったかのように、音もなく、残酷に、根本からスッパリと切断されたのだ。


「…………え?」


 少女は、見開かれた虚ろな瞳で、自分の肩の先を見つめた。

 そこにあるはずの、星に向かって伸ばしていた自分の腕が、ない。

 遅れて、どちゃり、と。

 重たくて湿った、嫌な音が冷たい大地から響いた。

 少女が視線を落とすと、そこには、セルリアンブルーの星の欠片のすぐ脇に、赤黒い血にまみれた二本の腕が、まるで打ち捨てられたボロ布のように、無惨に転げ落ちていた。

 指先は完全に力を失い、もう二度と動くことのないただの肉塊となって、冷たい大地の上で静まり返っている。

 切断された両肩の断面から、ドクン、ドクンという心臓の律動に合わせて、鮮血が噴水のように噴き出し、少女の純白のワンピースを、そして足元の凍てついた大地を、おぞましい赤色へと染め上げていく。


 腕が、ない。

 私の、腕が。

 星を拾うための、彼女に触れるための、物語を紡ぐための、私の両手が。

 現実世界の病室で、切断された神経の壁に阻まれて動くことのなかったあの両腕が。私の心の底に巣食う途方もない罪悪感という名の見えない刃によって、この物語の世界でも、完全に、そして永遠に切断されてしまったのだ。


「あぁ……ああぁぁぁぁぁぁっ……!!」


 両手を失った少女は、吹き出す血の温かさに自らの命が抜け落ちていくのを感じながら、空を仰いで声にならない絶叫を上げた。

 足元には、息を呑むほどに美しいセルリアンブルーの星の破片が、今もなお優しい光を放ち続けている。

 しかし、両手を失った少女には、もう永遠に、その星を拾い上げることはできない。

 どんなにその光を愛おしく思おうと、どんなにそれに触れたいと狂おしく願おうと。両腕という名の『希望を掴むための器官』を根こそぎ奪われた彼女には、ただ足元に落ちている光を、泣きながら見下ろし続けることしか許されないのだ。


 お前は、人殺しだ。

 その罪の重さを、両腕を失った凄惨な肉体の痛みとともに、永遠にこの荒野で味わい続けろ。

 それが、現実の私が私自身に下した、絶対的な『断罪』だった。


 インクを零したような深い藍色の夜空から、冷たい星の破片が、無慈悲な雨のように降り注ぎ続けている。

 両腕を失い、肩口から止めどなく血を流し続ける孤独な少女は、決して届くことのないセルリアンブルーの光の傍らで、狂ったように涙を流し、ただ一人、永遠の絶望の荒野に立ち尽くしていた。

 現実の病室のベッドで、ただの死体のように横たわり続ける私と同じように。

 救いなど、どこにもない。

 私たちが紡ごうとした美しい物語は、私自身の醜い罪悪感の血によって完全に汚染され、もはや後戻りすることのできない最悪の悲劇へと、その姿を完全に変貌させてしまったのだった。

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