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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第5話『届かない指先』(4)

 首の奥深く、魂と肉体を繋ぐ神聖な橋が完全に崩落してしまったあの暗黒の谷間に向かって。私は、喉から血を吐くような凄絶な思いで、数千、数万という「右手を伸ばせ」という意志の火花を、狂ったように叩き込み続けていた。

 痛覚すらも完全に喪失し、私のものかどうかも定かではないただの肉塊と成り果てた右腕は、どれほど強烈な命令の束を浴びせられようとも、無慈悲なまでの完全なる沈黙を保ったまま、漂白されたシーツの上にだらりと投げ出されている。

 それは、絶対に開かないと分かっている分厚い鉄の扉を、爪が剥がれ、指の骨が砕けるまで素手で何度も何度も殴り続けるような、果てしなく無意味で、極限まで自傷的な行為だった。

 しかし、私は決してその無謀な試みをやめようとはしなかった。やめることなど、できるはずがなかった。

 私の瞳は、瞬きをすることすら忘れたように限界まで見開かれ、ベッドの脇のキャビネットの上に置かれたあの『血塗られたノート』の装丁に、文字通り狂信的な熱を帯びて釘付けになっていた。

 あの数十センチ先の空間に到達すること。あのひび割れたページに、私のこの冷え切った指先で触れること。

 それだけが、私がこの逃げ場のない罪悪感と肉体的な絶望の泥沼から這い上がり、愛しい彼女の待つあの琥珀色の図書室へと帰還するための、唯一残された蜘蛛の糸なのだ。もしもこの右手が動かないという現実を認めてしまえば、私は自分が親友を殺した殺人者であり、永遠にこの棺桶のようなベッドに縛り付けられた死体であるという残酷な真実を、そのまま真っ向から受け入れなければならなくなる。

 だからこそ、私は自らの精神を完全にすり減らし、狂気の炎で脳髄を焦がしながらも、到達することのない命令を無限に送り続けた。


 ギリリッ、ギリッ……。

 静寂に包まれた病室の空気を切り裂いて、私の口腔内から、骨と骨が直接削り合うようなおぞましい音が鳴り響いた。

 右腕を動かそうとする極限の力みが、動かすことのできる唯一の部位である顔面の筋肉へと異常な形で集中し、私は自らの顎の骨が砕けそうになるほどの凄まじい力で、奥歯を強く食い縛っていた。

 硬いエナメル質が互いを削り合い、歯の根が悲鳴を上げる。圧迫された歯茎から滲み出したどろりとした生温かい血が、唾液と混ざり合い、強烈な鉄の匂いと錆びた味が私の舌の上へと広がっていく。

 それでも私は、噛み締める顎の力を一切緩めようとはしなかった。顔の筋肉は醜く引き攣り、額の血管は今にも破裂しそうなほどに青黒く隆起して、脈打つたびにドクン、ドクンと耳の奥で鈍い痛みを響かせている。

 そして、全身の開いた毛穴という毛穴から、氷のように冷たく、ひどく嫌な匂いのする脂汗が、まるで止めどなく湧き出る泉のように噴き出し始めた。

 額から噴き出した脂汗の滴は、瞬く間に幾筋もの川となってこめかみを伝い落ち、まつ毛を濡らし、見開かれた私の眼球へと容赦なく流れ込んでくる。塩分を含んだ汗が網膜を鋭く突き刺し、視界が涙と汗でぐにゃりと歪む。しかし、私はノートの装丁から視線を外すまいと、痛みに耐えながら血走った目をさらに大きく見開いた。

 シーツの首元は、私が流した脂汗によってすでにぐっしょりと重たく濡れ、冷たく不快な湿り気を帯びて皮膚にべったりと張り付いている。


 ヒュー、ヒュー、ヒュー……。

 私の胸郭が、シーツの下で狂ったような速度で乱高下を繰り返し始めた。

 極限の力みと凄まじい精神的な負荷が、私の呼吸器から正常な律動を完全に奪い去っていた。酸素を求める肺が痙攣を起こし、私はまるで陸に打ち上げられた魚のように、浅く、そして異様に速い呼吸を繰り返す『過呼吸』の惨めな状態へと陥っていた。

 乾ききった気道を、空気が暴力的に擦過していく。息を吸い込み、吐き出すたびに、喉の奥の粘膜がヤスリで削られるような痛みを伴い、ヒュー、ヒューという、死に絶えようとする獣の断末魔のような哀れな音が、静かな病室に虚しく反響する。

 呼吸が浅くなるにつれて、手足の先から血液が引いていくような悪寒が全身を駆け巡り、脳に酸素が回らなくなることで生じる強烈なめまいが、私の視界を何度も暗転させそうになる。

 限界だ。これ以上の負荷をかければ、私の肉体は、あるいは精神は、文字通り完全に崩壊してしまうだろう。

 しかし、私の魂から放たれる「動け」という狂気の命令は、ブレーキを失った暴走機関車のように、ますますその激しさと熱量を増していくばかりだった。


 そして。

 ついに、その極限を超え続けた負荷が、私の肉体に決定的な『破綻』をもたらした。

 私の脳から、何千、何万回と絶え間なく送り出され続けた強烈な意志の電気信号は、首の奥の断絶した神経の谷間で完全に行き場を失い、そこに恐ろしいほどの過剰な熱量として蓄積され続けていた。

 やがて、その許容量をはるかに超えた異常なエネルギーは、切断された神経の末端を内部から完全に焼き切り、凄まじい火花を散らして『暴走ショート』を起こしたのだ。


 バチバチバチッ!!

 行き場を失ったその過剰な電気信号は、断絶した谷間から無秩序に溢れ出し、本来ならば命令を届けるはずのなかった周囲の筋肉の繊維へと、暴力的な雷のように無作為に突き刺さっていった。


 ——ビクンッ。


 その瞬間。

 私の視界の端に映っていた、シーツの上にだらりと投げ出されたままだった右腕が、不自然な形に跳ね上がった。


(……え?)


 動いた。私の右腕が、今、確かに動いたのだ。

 私の魂は、その光景を捉えた刹那、狂喜の絶叫を上げそうになった。ついに私の意志が、肉体の壁を突破し、ノートに向けて腕を伸ばすことに成功したのだと。

 しかし、その一瞬の希望の光は、続く残酷な現実の光景によって、瞬く間に漆黒の絶望へと叩き落とされた。


 ビクンッ……ビクビクンッ……!!


 右肩の付け根から、二の腕、そして前腕にかけての筋肉が、私の皮膚の下で、まるで無数の醜い虫が這い回っているかのように、不気味で波打つような激しい痙攣を始めたのだ。

 それは、「右手を伸ばしてノートを掴む」という、私が思い描いた滑らかで意志のある動きとは、全く異なるおぞましい現象だった。

 筋肉の繊維が、漏れ出した異常な電気信号の刺激によって、脈絡もなく収縮と弛緩を繰り返しているだけ。関節を曲げることも、指先を開くこともなく、ただ肉の塊が物理的な刺激に対してビクン、ビクンと無様に跳ねているだけだ。

 そこに、私の『意志』は一切介在していなかった。

 これは、私の魂が腕を動かしているのではない。神経を焼き切るほどの負荷によって生じた、ただの『死んだ筋肉の無意味な反射運動』——すなわち、屠殺されたばかりの獣の肉体が、死後硬直の前に見せるあの醜悪な痙攣と、何一つ変わらない生命なき肉塊の蠢きだったのだ。


「あ……あぁ……っ……」


 私は、自分の身体のいち部でありながら、完全に自らの制御を離れ、別の不気味な生き物のようにシーツの上で跳ね回るその右腕を見下ろしながら、声にならない絶望の呻き声を漏らした。

 痛覚がないため、その痙攣がどれほどの痛みを伴っているのかはわからない。しかし、自分の皮膚の下で肉が勝手に波打ち、骨が不規則に揺さぶられるその視覚的なおぞましさは、私の精神を根底から狂わせるほどの圧倒的な嫌悪感と恐怖を呼び起こした。

 やめて。そんな醜い動きをしないで。

 私が望んだのは、彼女の待つあの美しい図書室へ帰るための、尊くて愛おしい右手の動きなのだ。こんな、壊れた機械の無惨な誤作動のような、死体の痙攣ではない。

 私は、脳からの命令を止めようと必死に足掻いた。しかし、一度暴走を始めた神経の火花は、私の意志ではもはや抑え込むことができず、右腕の醜い痙攣はますますその激しさを増していく。


 ズッ……。


 その時。

 激しく痙攣する筋肉の収縮によって、私の右腕全体が、シーツの表面をごくわずかに擦りながら動いた。

 硬く糊付けされた木綿のシーツと、私の腕の皮膚が擦れ合う、ズッ、シュッ、という微かな摩擦音。

 その音が鳴った瞬間、私の心臓は肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。


 腕が、動いている。

 痙攣という醜い形であれ、肉の反射という無意味な運動であれ、物理的に私の腕は今、あのキャビネットの上の血塗られたノートに向かって、シーツの上を滑っているのだ。

 あと少し。あと数十センチ。

 このまま筋肉の反射が続けば、奇跡的に私の指先がノートの表紙に触れるかもしれない。あのざらついた装丁の感触さえこの指先に伝われば、私はその刺激をトリガーにして、再びあの琥珀色の図書室へと意識を繋ぎ止めることができるはずなのだ。

 私は、脂汗にまみれた顔で、狂気的な祈りを捧げるように、その数ミリの微かな前進を瞬きもせずに見つめ続けた。


 ズッ……。シュッ……。

 痙攣の波が押し寄せるたびに、腕全体が不自然に跳ね、シーツの繊維を擦る音が病室に響く。

 一ミリ。また一ミリ。

 私の白くて細い指先が、空気を震わせながら、ゆっくりと、しかし確実にキャビネットの方向へと近づいていく。

 私の脳内では、すでに図書室の西日の温かさと、彼女の柑橘の香りが鮮烈に蘇りかけていた。もう少しだ。もう少しで、私は彼女の隣に帰ることができる。私が殺してしまった、あの愛しい彼女のもとへ。


 ズッ……。

 ……。


 しかし。

 私のその惨めで狂信的な希望は、永遠に実を結ぶことはなかった。

 右腕全体を激しく揺さぶっていたその筋肉の痙攣は、まるで燃え尽きた導火線のように、ふっと、何の前触れもなく唐突にその勢いを失ったのだ。

 ビクッ、と最後に一度だけ小さく跳ねた指先は、空中で行き場を失ったように微かに震え、そしてそのまま、重力という絶対的な力に引きずり込まれるようにして、冷たいシーツの上へと力なく沈み込んだ。


 静寂。

 完全なる、死の静寂だった。

 暴走していた神経の火花は完全に消え失せ、私の右腕は再び、ピクリとも動かないただの冷え切った肉の塊へと戻ってしまった。


 私は、過呼吸で肩を激しく上下させながら、自らの無惨な敗北の証であるその右手の指先へと、虚ろな視線を向けた。

 私の腕は、痙攣の勢いによって、確かにシーツの上を少しだけ前進していた。

 しかし、その距離は、どれほど甘く見積もっても、ほんの『数ミリ』に過ぎなかった。

 キャビネットの上の血塗られたノートまでの距離は、数十センチ。

 私の命を削るような絶叫も、神経を焼き切るほどの狂気的な意志も、そして醜悪な肉体の痙攣をもってしても、私はたったの数ミリしか、あのノートとの距離を縮めることができなかったのだ。


 その事実が、私の脳髄を冷たい鉄のハンマーで粉々に叩き割った。

 届かない。

 私の指先は、決してあのノートには届かない。

 私がどれほど美しい物語を紡ぐ才能を持っていようとも、どれほど五感を騙す想像力を持っていようとも、この物理的な数十センチの距離を、私の意志の力で埋めることは絶対に不可能なのだ。

 私の肉体は、完全に死んでいる。

 私は生きたまま、この動かない身体という名の棺桶に閉じ込められ、自らの犯した罪悪感の炎に焼かれながら、永遠に届かない数十センチ先の希望を見つめ続けるだけの、哀れな死体と同義なのだ。


 その絶対的な事実が、冷たい毒液のように私の骨の髄まで染み込み、私の魂を絶望の深淵へと真っ逆さまに突き落としていく。

 私が最後に見たのは、数ミリだけ近づいた私の無力な指先の向こう側で、決して手の届かない場所から私を見下ろすように静まり返っている、あの血塗られたブルーブラックのノートの、ひどく冷酷で、静謐な装丁の姿だった。

 私の瞳から、今日何度目かになる熱い涙が溢れ出し、私はただ、声にならない絶叫を上げながら、その数ミリの地獄の底で完全に意識を暗転させていったのだった。

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