第5話『届かない指先』(3)
分厚い鉄の扉が重々しい音を立てて完全に閉ざされ、白々しい愛情という名の無自覚な拷問者が去った後の病室には、再び、鼓膜を圧迫するような絶対的な孤独と、息が詰まるほどの深い静寂が舞い戻ってきた。
部屋の隅で私の命を等間隔に刻み続ける、あの感情を持たない機械の冷酷な音だけが、私がまだこの灰色の現実世界に繋ぎ止められているという事実を、一定のリズムで証明し続けている。
私の視線は、ベッドの脇に置かれた無機質な白いスチール製のキャビネットの上から、もう一秒たりとも動かすことができなかった。
そこにあるのは、一冊の、大きなスケッチブック。
私と彼女が、あの美しい琥珀色の図書室で一緒に作っていた、タイトルすら決まっていない【未完の絵本】の現物だった。
しかし、キャビネットの上に置かれているその表紙は、もはや美しい真っ白な画用紙ではなかった。数ヶ月前、私たちを襲ったあの凄惨な事故の日のまま。表紙の右半分には、大量の液体が染み込み、乾燥し、赤黒く変色した巨大な染みがべったりと付着している。錆びた鉄のように変質した、生々しい死の痕跡。
それは間違いなく、動けない私を庇って、私の上で息絶えた彼女の体内から流れ出した血だった。あの、夜が混ざった空の色を鮮やかに描き出していた彼女の細い指も、私を狂おしいほどに惹きつけた柔らかな体温も、すべてはこの赤黒い染みとなって、スケッチブックの表紙に乾燥して張り付いているのだ。
母親の目には、娘の命を奪いかけた凄惨な事故の記憶を呼び起こすおぞましいトラウマの象徴としてしか映らなかったであろうその汚れた物体は、私にとって、あの図書室へ帰るための、そして愛しい彼女の隣の席に座るための、この宇宙でたった一つの『物理的な扉』だった。
あの血塗られた表紙をめくり、ひび割れた紙のページに触れることさえできれば。私の指先を通して、彼女の色彩の記憶が脳内へと逆流し、私は再びあの完璧な虚構の世界を、狂気の力で編み直すことができるはずなのだ。
彼女に会いたい。
私が彼女を死に追いやったのだとしても。私の醜い罪悪感が冷たいプラスチックのプレートとなって私を責め立てようとも。あのスケッチブックの血痕が、私が人殺しであるという絶対的な事実を突きつけてこようとも。それでも私は、あの温かい西日の差し込む空間で、永遠の物語を書き続けたい。その狂信的なまでの執着だけが、今、死体のように冷え切った私の肉体の中で、唯一燃え盛る青白い命の炎だった。
距離にして、わずか数十センチ。
健康な人間であれば、無意識のうちに手を伸ばし、一秒にも満たない時間でそのスケッチブックを手に取ることができるだろう。息をするのと同じくらい当たり前で、取るに足らない行為。
しかし、首から下の神経を完全に絶たれ、仰向けのままシーツの上に縫い付けられている今の私にとって、その数十センチという空間は、星と星の間を隔てる宇宙の暗闇よりも果てしなく、気が遠くなるほどに絶望的な距離だった。
届かない。私の手は、あそこには届かない。
その残酷な物理の理が、見えない巨大な壁となって私の前に立ちはだかっている。
それでも。
私は、奥歯が砕けそうになるほど強く歯を食い縛り、ベッドのシーツの上にだらりと投げ出されたままの自らの『右腕』へと、限界まで研ぎ澄ませた意識のすべてを集中させた。
(動け。……動いて。お願いだから、右手を、伸ばして)
私は、まぶたを固く閉じ、自らの魂の最も深い場所から、途方もない熱量を持った『意志』を絞り出した。
右腕を上げるという動作。肩の関節を動かし、筋肉を収縮させ、重力に逆らって骨を持ち上げるという、かつては何も考えずに行っていたその一連の肉体的な記憶を、真っ暗な脳内のカンバスに精密に描き出す。
血の通った筋肉の重み。骨が滑らかに動く感覚。指先が空気を切り裂いて進む、その微かな皮膚の摩擦。
私は、そのすべての感覚の記憶を一つの巨大な塊として圧縮し、「右手をあのスケッチブックへ伸ばせ」という、たった一つの強烈な『命令』へと変換した。
それは、私の命の残渣をすべて燃やし尽くして生み出された、目にも止まらぬ速さで駆け抜ける青白い意志の火花だった。
放たれた強烈な意志の熱は、脳髄の奥底を出発し、首の骨の内側に守られた太く白い神経の束——肉体という広大な大地へと命令を届けるための、ただ一本の神聖な大橋——を、凄まじい速度で駆け下りていく。
行け。あのスケッチブックまで、私の右手を連れて行け。
意志の火花は、私の悲痛な祈りを乗せて、暗闇の中を一直線に突き進む。首筋を熱い光が通り抜ける感覚が、私には確かにあった。この命令さえ右肩の筋肉に届けば、私の腕は必ず持ち上がり、あの血塗られた表紙を掴むことができる。
——しかし。
その熱を帯びた青白い意志の火花が、首の付け根のあたり、あの大事故のすさまじい衝撃によって私の肉体が決定的に破壊された『その場所』へと到達した、まさにその瞬間のことだった。
バチンッ!!
私の頭蓋骨の裏側で、世界が真っ二つに裂けるような、おぞましくも無音の爆発が起きた。
そこには、あるはずの道がなかった。
脳から右腕へと続くはずの、太く白く輝いていた神聖な神経の橋は、その場所で無惨に粉砕され、跡形もなく断ち切られていたのだ。
それは、見渡す限りの漆黒の虚無が広がる、底なしの暗黒の谷間だった。
肉体と精神を繋ぐはずの橋桁は崩落し、切断された神経の断面だけが、嵐の後の無惨な廃墟のように、暗闇の中で空しく宙に浮いている。
私の魂から放たれた強烈な「右手を伸ばせ」という命令は、その絶望的な断絶の淵に猛スピードで突っ込み、行き場を完全に失って激しく衝突した。
「がっ……! あ、あぁぁっ……!」
声にならない悲鳴が、私の喉の奥でひゅっと慘めな音を立てて漏れ出した。
行き場を失った強大な意志の熱量は、切断された神経の断面で恐ろしいほどの火花を散らし、行き止まりの壁に何度も、何度も狂ったように激突を繰り返す。
熱い。熱い。痛い。
右腕を動かせという命令が、行き先を失ったことで暴走し、凄まじい熱量となって私の首の奥を内側から焼き焦がしていく。切断された神経の末端で、青白い火花がバチバチと音を立てて弾け飛び、肉体を焦がすような幻の激痛が、私の脳髄を容赦なく責め立てる。
進めない。この暗黒の谷間を、私の意志は絶対に飛び越えることができない。
物理的に断ち切られた肉体の壁は、私がどれほど美しい言葉を紡ごうとも、どれほど狂気的な想像力で世界を書き換えようとも、決して誤魔化すことのできない、冷酷で絶対的な「現実の質量」そのものだった。
(どうして……! 動いて! 動いてよ! 私は今、確かに右腕を動かしているのよ!!)
私は、幻の激痛に頭を狂わせながらも、決してその意志の火花を止めることはなかった。
私の脳内では、奇妙で恐ろしい乖離現象が起きていた。
脳の中枢は、「右腕に向かって命令を出し続けている」という事実だけを頼りに、「私の右腕は今、確かに空中に持ち上がり、スケッチブックに向かって伸びている」という完璧な幻覚を創り出していたのだ。
肩の筋肉が収縮し、腕の骨が重力に逆らって持ち上がる感覚。指先が空気を切り裂き、キャビネットの冷たい金属の表面に触れそうになる、その寸前の微かな皮膚の粟立ち。
そして、あの赤黒く染まった画用紙のざらつきに触れる瞬間の、恐ろしくも愛おしい感触の予感。
それらの感覚が、私の頭の中では、痛いほど生々しく、そして確かな現実の手応えとして存在している。私は今、間違いなく右腕を伸ばしているのだ。あと数センチで、私の指先はあの血塗られたスケッチブックの表紙に届く。
私は、荒れ狂う呼吸の中で、期待と歓喜に震えながら、まぶたをゆっくりと押し上げた。
そして、自らの意志の通りに空中に伸びているはずの、自分の右腕へと視線を向けた。
——そこに在ったのは。
漂白されたシーツの上に、ただの死肉の塊のようにだらりと投げ出されたまま、指先のほんの一ミリすらも、ピクリとも動いていない、私の青白い右腕だった。
絶望という言葉すら生ぬるい、絶対的な虚無。
私の視覚は、残酷なまでに鮮明に、その肉体の敗北を捉えていた。
脳内では、腕は高く持ち上がり、指先はスケッチブックに向かって必死に伸びているというのに。私の目が見下ろしている現実の右腕は、重力という見えない巨大な鎖にがんじがらめに縛り付けられ、まるで私の身体とは全く無関係の、他人の死体の一部であるかのように、冷たく、そして無惨にシーツの上に沈み込んでいる。
「……あ……う、あぁ……」
私の精神が、メキメキと音を立てて崩れ落ちていく。
これが、現実だ。
私の魂は、私の意志は、この動かない肉体という名の重たくて醜い棺桶の中に、完全に閉じ込められてしまったのだ。
私はまるで、見えない人形遣いに操られる木偶人形だった。
頭蓋骨という暗い舞台裏から、私の魂が「右手を動かせ」と必死に操り糸を引いている。しかし、魂と肉体を繋いでいたはずのその細い糸は、首の奥で跡形もなく、プツリと無慈悲に切断されてしまっているのだ。
どれほど人形遣いが涙を流し、血を吐くような思いで糸を引こうとも。糸の切れた人形の腕が持ち上がることは、物理法則が支配するこの世界において、永遠に、絶対にあり得ない。
私の意志は、空っぽの虚空を虚しく引き寄せているだけなのだ。
私は、自分が創り上げた琥珀色の図書室で、言葉一つで世界を書き換え、重力すらも捻じ曲げてみせたあの神のような全能感が、いかに滑稽で、哀れで、惨めな自己欺瞞であったかを、この数センチの距離を前にして、骨の髄まで思い知らされていた。
私は神などではない。
ただの、糸を切られた壊れた人形だ。
私を庇って死んだ彼女の血で染まったスケッチブックを前にして、それに触れることすら許されない、無力な罪人なのだ。
お前はもう二度と、自らの手で言葉を紡ぐことはできない。お前の汚れた手は、もう二度とあの美しい物語に触れることは許されない。
シーツの上に横たわる自らの冷たい右腕が、私に向かってそう冷酷に宣告しているようだった。
それでも。
私は、スケッチブックから視線を外すことができなかった。
あの血塗られた装丁の奥には、彼女がいる。彼女の体温が、私を待っている。
私は、声にならない絶叫を喉の奥で響かせながら、切断された神経の谷間に向かって、さらなる強大な意志の火花を、狂ったように叩き込み続けた。
届かないと分かっていても。この肉体がただの死体だと突きつけられても。
私は、自らの魂を切り刻むようなその無意味な命令を、ただひたすらに、血の涙を流しながら送り続けることしかできなかったのだ。




