第5話『届かない指先』(2)
白々しく、そして息が詰まるほどに重苦しい面会時間が、ようやくその終わりを迎えようとしていた。
病室の壁に掛けられた無機質な丸い時計の針が、残酷な現実の時間を一秒、また一秒と正確に削り取っていく。母親が私の傍らに座り、私の動かない手を握りしめ、あふれる涙とともに語りかけていたその時間は、私にとって永遠にも等しい地獄の拷問だった。
彼女が私を哀れみ、私の無実を説き、私の不運を嘆くたびに、私の心の奥底に沈められた「私が彼女を殺したのだ」という醜悪な真実の塊が、呼応するようにどろどろと膨張し、私の喉元までせり上がってきていた。私は、その吐き気を催すような罪悪感の泥水を必死に飲み下し、ただ涙を流すだけの悲劇の娘という仮面を、顔の筋肉が引き攣るほどの力で押さえつけ続けていた。
やがて、母親は短く息を吐き出し、私の右手を覆っていたその温かい両手を、名残惜しそうにゆっくりと離した。
パイプ椅子が床を擦る微かな音が響き、彼女が立ち上がる。その瞬間、私の全身を縛り付けていた透明な鎖がわずかに緩んだような気がして、私は心の奥底で、誰にも気づかれないほどの小さな安堵の溜息を漏らした。
帰るのだ。ようやく、この白々しい愛情という名の責め苦から解放される。
母親が持ち込んだ百合の花のむせ返るような甘い匂いだけが、私がこれから一生味わい続けなければならない罪の重さを象徴するように、空間にべったりと居座り続けている。それでも、彼女さえこの部屋から出て行ってくれれば、私は再び、私自身の狂気と静寂だけが支配する孤独な空間へと戻ることができる。そして、どうにかしてあの琥珀色の図書室へ帰るための、新しい嘘の糸を紡ぎ始めることができるはずなのだ。
しかし。
帰り支度を整え、私に向かって「また明日来るからね」と優しく微笑みかけた母親の視線が、ふと、ある一点でピタリと止まった。
彼女の鳶色の瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、その顔から急速に血の気が引いていくのがわかった。
母親の視線の先。それは、私の寝かされているベッドのすぐ脇、手の届きそうな距離に置かれた、無機質な白いスチール製のキャビネットの上だった。
そこに、一つの異物が、この漂白された病室の空間を汚すようにして、ぽつんと置かれていたのだ。
——ブルーブラックの装丁が施された、一冊の古いノート。
それは、事故に遭う前から私が肌身離さず持ち歩き、あの図書室で孤独な少女と星の破片の物語を書き綴っていた、私自身の魂の分身とも言えるノートだった。
しかし、キャビネットの上に置かれているそのノートは、かつての美しい群青色を完全に失っていた。
表紙の半分以上は、鉄錆のように赤黒く変色した、おぞましい染みでべったりと覆い尽くされている。事故の衝撃でひしゃげたトラックの下敷きになった際、私の、あるいは彼女の肉体から噴き出した大量の血をたっぷりと吸い込み、そのまま乾燥して無惨にひび割れた、死の記憶そのもの。ページは血と泥の水分を吸って醜く波打ち、本来の形を保つことすらできていない。
誰が、あんな凄惨な事故現場から、こんなおぞましい遺物を回収し、ご丁寧に私の枕元になんて置いたのだろうか。現場を処理した警察か、あるいは気を利かせたつもりの病院のスタッフか。
どちらにせよ、まともな神経の持ち主であれば、一目見ただけで目を背けたくなるような、トラウマの塊のような物体だった。
「……どうして。どうして、こんなものが、こんなところに……」
母親は、震える声でそう呟きながら、顔を苦痛に歪ませた。
彼女の目には、そのノートが娘の命を奪いかけた凄惨な事故の象徴としてしか映っていないのだろう。血に染まり、無惨に歪んだその装丁を見つめる彼女の目には、明らかな恐怖と、そして娘を傷つけるあらゆるものに対する強い拒絶の色が浮かんでいた。
「ごめんなさいね、詩織。こんなもの……こんな恐ろしいものを傍に置いていたら、あなたの心がいつまでも休まらないわ。夢にまで見てしまうかもしれない。……お母さんが、持って帰って、誰の目にも触れないところに大切にしまっておくからね」
母親は、悲痛な声でそう言いながら、キャビネットの上の血塗られたノートに向かって、その手をゆっくりと伸ばした。
娘の心を守るため。娘から凄惨な記憶を遠ざけるため。
それは、母親としてのあまりにも正しく、あまりにも純粋な、愛情からの行動だった。
(……やめて)
私の魂が、真っ逆さまに絶望の底へと突き落とされた。
母親のその手が、ノートの表紙に触れようとした瞬間。私の脳内で、警報のサイレンが狂ったように鳴り響いた。
(やめて。触らないで。それを持っていかないで……!)
母親には、それがただのトラウマを呼び起こす恐ろしい遺物に見えているのだろう。
しかし、私にとっては違う。全く違うのだ。
あの血塗られたノートは、私が再びあの琥珀色の図書室へ帰り、愛しい彼女の隣の席に座るための『唯一の物理的なパスポート』なのだ。
昨夜、私の世界は「面会謝絶」のプラスチックプレートという絶対的な現実の異物によって、一度完全に叩き壊されてしまった。しかし、それでも私があの箱庭を完全に諦めきれずにいるのは、私のすぐ傍に、あのノートが存在しているからだ。
あのノートには、私が彼女のために紡いできた物語の言葉たちが、インクの染みとして確かに刻み込まれている。あの紙の繊維の奥深くには、彼女と一緒に過ごした図書室の西日の温もりと、柑橘の香りが、まだ微かに残っているはずなのだ。
いつか、いつの日か。私の指が再び動き、あのノートのページを開き、万年筆で新しいインクの言葉を刻むことさえできれば。私は必ず、あの閉ざされた世界への扉をこじ開け、彼女のもとへと帰還することができる。私の狂信的なまでの希望は、あのひどく汚れた一冊のノートの存在のみに、細い蜘蛛の糸のようにぶら下がっていたのだ。
もしも今、母親がそのノートをこの病室から持ち去ってしまったら。
私の世界から、彼女と私を繋ぐ最後の一本の手がかりが、永遠に失われてしまうことになる。
それはつまり、私が自分が犯した「人殺し」という絶対的な罪悪感と、首から下が動かないという肉体的な絶望だけの、この灰色の現実世界に、永遠に閉じ込められることを意味していた。
逃げ場のない、純度百パーセントの地獄。
私は、あの琥珀色の光を永遠に失い、冷たいプラスチックのプレートに刻まれた赤い文字だけを見つめながら、残りの何十年という命の時間を、ただ腐敗していくだけの肉塊として生き続けなければならなくなるのだ。
(嫌だ。嫌だ! それだけは、絶対に嫌だ! 返して、それは私のものよ! 私の、彼女の……私たちの世界なのよ!!)
声帯を持たない私の凄絶な絶望と恐怖が、激しいパニックとなって、動かない肉体の内側で爆発した。
私は、自らの意思の力で、限界まで眼球を見開いた。
血走った両目が、母親の伸びる手と、ノートを交互に狂ったような速度で睨みつける。
息ができない。喉の奥が痙攣し、乾ききった気道がヒュー、ヒューと惨めな音を立てて空気を求めてあえぐ。肺が激しく上下し、私の胸郭がシーツの下で異様な速度で膨張と収縮を繰り返し始めた。
私の脳が、全身の神経に向けて「今すぐ手を伸ばして、あのノートを奪い返せ!」という狂気的な命令を、許容量をはるかに超えた電圧で送り出し続ける。しかし、その強烈な命令は、私の首の骨の奥、完全に断裂してしまった神経の谷間の前で無惨にせき止められ、行き場を失ってスパークし、私の肉体に凄まじい負荷となって逆流してくる。
動かない。身体が、一ミリも動かない。
声が出ない。叫びたいのに、喉から血の味がするだけで、一つの言葉も形にならない。
恐怖と焦燥。絶望とパニック。
私の極限の精神状態が、ついに私の命の律動を制御する心臓の鼓動を、異常な速度へと跳ね上がらせた。
肋骨の内側で、狂った獣が檻を破ろうとするかのように、心臓がドカッ、ドカッ、ドカッ、と破裂しそうなほどの勢いで暴れ始める。全身の毛穴から、氷のように冷たく、ひどく嫌な匂いのする脂汗が滝のように噴き出した。
——ピピピピピピピピピッ!!
次の瞬間、病室の静寂を暴力的に切り裂いて、私の命を監視していたあの無機質な機械が、けたたましい警告のアラーム音を鳴らし始めた。
それは、私の心拍数が生命の危険を示す異常な数値にまで跳ね上がったことを知らせる、耳をつんざくような悲鳴だった。
赤く点滅するランプ。部屋中に響き渡る、鼓膜を突き破るような電子音。
それは、声を出せず、手足も動かせない私が、現実世界に対して放つことのできる、唯一にして最大の『極限の拒絶反応』だった。
私の肉体が、私の命そのものが、母親がノートを奪うことを、絶叫しながら全力で拒絶していたのだ。
「えっ……!? 詩織!? 詩織、どうしたの!?」
突然鳴り響いたけたたましいアラーム音と、眼球を剥き出しにして激しく過呼吸を起こしている私の異様な姿に、母親は顔を真っ青にして悲鳴を上げた。
彼女はパニックに陥り、ノートに伸ばしかけていた手を空中で弾かれたように引っ込めると、慌てて私のベッドにすがりつき、私の顔を覗き込んだ。
「先生! 誰か、先生!! 詩織の様子が……!」
母親が半狂乱になってナースコールを押そうとした、まさにその時。
母親の手がノートから完全に離れ、あの血塗られた装丁が再びキャビネットの上にぽつんと残されたことを、私の狂走する眼球が確かに捉えた。
(あ……。ノート……。私の、ノート……)
奪われなかった。
私の世界へのパスポートは、まだそこにある。まだ、私の手の届く場所にある。
その事実を認識した瞬間。
あれほどまでに狂いそうに暴れ回っていた私の心臓の鼓動が、まるで冷水を浴びせられたかのように、急速に、そしてひどく不自然なほど静かに、落ち着きを取り戻していったのだ。
荒れ狂っていた呼吸がスゥッと静まり、血走っていた眼球の力みが抜ける。
それに連動するように、病室中をパニックに陥れていた機械のけたたましいアラーム音が、嘘のようにピタリと鳴り止み、再び規則的な「ピッ……ピッ……」という静かな律動へと戻っていった。
「え……?」
母親は、ナースコールのボタンに手を伸ばした体勢のまま、信じられないものを見るような目で、私と、静かになった機械、そしてキャビネットの上のノートを交互に見つめた。
私は、荒い息の余韻を胸に残しながら、ただ無言で、悲壮なほどの執着を込めた眼差しで、キャビネットの上のノートをじっと見つめ続けていた。
頼むから、それに触れないで。私から、それを奪わないで。
私は、残されたすべての精神力を視線に込めて、母親に対して懇願していた。
私のその異常なまでの執着の視線を追った母親は、ハッと息を呑み、再びその血塗られたノートへと目を向けた。
そして、数秒の重たい沈黙の後。
彼女の目から、先ほどよりもさらに大粒の、止めどない涙が、ボロボロと堰を切ったようにこぼれ落ち始めたのだ。
「……そう。そうだったのね、詩織」
母親は、口元を両手で覆い、肩を激しく震わせながら、嗚咽にまみれた声でそう呟いた。
彼女は、完全に、そしてあまりにも残酷な『勘違い』をしてしまったのだ。
「ごめんなさい……お母さん、なんて酷いことをしようとしたのかしら。……これは、ただの恐ろしいものなんかじゃないわよね。あなたにとって、これは……あの子と一緒に紡いできた、大切な、大切な絆の証なのよね」
母親のその言葉を聞いた瞬間、私の心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように凍りついた。
「あの子が亡くなってしまって、あなたからすべてが奪われてしまったけれど……。このノートだけが、あの子が確かに生きていて、あなたと一緒に笑い合っていたという、唯一の形見なのね。……だから、手放したくなかったのね。……こんなに汚れてしまっていても、あなたにとっては、世界で一番大切な宝物なのよね」
母親は、泣き崩れながら、私の頬に自らの額を押し付け、私の涙を拭いながら何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。
違う。違うのよ。
それは、親友との美しい友情の証なんかじゃない。
私が彼女を殺したという現実から逃げるための、狂気と自己欺瞞の道具に過ぎないのよ。私が自分の醜い心を正当化し、閉鎖された空間で一生優しい幻影に縋り付いて生きるための、おぞましい呪いのアイテムなのよ。
しかし、私のその醜悪な真実は、声を持たないが故に、決して母親に届くことはなかった。
「わかったわ、詩織。……ここに置いておくわ。お母さん、二度とこれに触れない。これがいつでもあなたの目に入るように、一番近くに置いておくからね。……だから、もう安心して」
母親は、愛する娘の「亡き親友に対する深く美しい愛情」に心を打たれたのだと信じ込み、私の狂信的なまでの執着を、この世で最も尊い悲劇の友情として、自らの心の中で美しく完結させてしまった。
私の醜い罪悪感からの逃避は、母親の白々しい愛情という名のフィルターを通すことによって、純度百パーセントの美しい悲恋の物語へと、勝手に、そして残酷に書き換えられてしまったのだ。
「……じゃあ、お母さん、今日はもう帰るわね。また明日、必ず来るから」
母親は、腫れ上がった目で私に優しく微笑みかけ、最後に私の額にそっと温かいキスを落とした。
そして、彼女は後ろ髪を引かれるように何度も私を振り返りながら、ゆっくりと病室の出入り口へと歩いていき、重たい鉄の扉の向こう側へと姿を消した。
——ガチャン。
分厚い金属の扉が完全に閉ざされ、病室は再び、完全な無音と孤独の空間へと切り取られた。
残されたのは、首から下がピクリとも動かない私の肉体。
そして、私の視線の先、わずか数十センチの場所にあるキャビネットの上で、冷たい朝の光に照らされながら沈黙している、鉄錆のように血塗られた一冊のブルーブラックのノートだけだった。
私は、自分が生き延びるために、母親の純粋な愛情すらも騙し、利用してしまったのだ。
その事実が、ノートを奪われずに済んだという安堵感よりもはるかに重く、私の心を漆黒の泥の底へと引きずり込んでいく。
私は、ただ一人取り残された冷たいベッドの上で、自らの罪の深さと、決して誰にも理解されることのない狂気の孤独に打ち震えながら、すぐ傍にある血塗られたノートの装丁を、虚ろな、しかし狂信的な熱を帯びた瞳で、ただじっと見つめ続けることしかできなかったのだ。




