第4話『知覚の縫合』(5)
どれほど狂信的に自らの目を塞ぎ、恐怖に震える耳を塞ごうとも。私が命の残渣を燃やし尽くして創り上げたこの琥珀色の箱庭には、もはや私自身の想像力でも覆い隠しきれない、致命的でおぞましい亀裂が縦横無尽に走り始めていた。
数秒に一度、私の心臓の鼓動をなぞるようにして、完璧だったはずの空間全体を不気味に舐め回す、青白くて刺々しい死者の光。
すぐ隣の席で、愛しい彼女が走らせている鉛筆の柔らかい摩擦音の裏側に、まるで寄生虫のようにしつこくへばりついて離れない、硬いゴムが冷たい薬品の床を擦る、あの無機質な足音。
それらの不吉で残酷な現実からの前兆は、私が『ここは放課後の図書室だ』とこの世界を信じようと強く願えば願うほど、まるで私の必死で哀れな自己欺瞞を嘲笑うかのように、その明瞭さと不気味な気配を増していった。
しかし、私はそれでも、冷や汗で滑りそうになる万年筆を指の骨が軋むほど強く握りしめ、青黒いインクを真っ白な紙面に刻み続けることだけをやめなかった。
止まってしまえば、すべてが終わる。
ペンを置いた瞬間に、私が激痛に耐えながら神経を縫い合わせて構築したこの美しい虚構の空間が、鼓膜を破るような轟音とともに崩れ落ちてしまうような気がしたのだ。私は、背後から音もなく迫り来る現実の亡霊たちの気配から逃げ惑うように、孤独な少女が砕けた星の破片を拾い集める物語の続きを、熱病に浮かされたように一息に書き連ねていった。
『少女の指先から、赤黒く濁った血が、ぽたり、
ぽたりと音を立てて冷たい大地へと滴り落ちる。
夜空から降り注いだ鋭い星の破片は、
息を呑むほどに美しく光り輝いているからこそ、
それに触れようとする者の柔らかな皮膚を、いとも容易く、
そして容赦なく深く切り裂くのだ。
星を拾い集めるという行為は、
自らの肉体を罰する凄惨な痛みの儀式に他ならない。
それでも少女は、足元にふわりと舞い降りた、
あの傷一つない青い栞の導きだけを信じて、
一つ、また一つと、凍てつく荒野に散らばった星の残骸を拾い集めていく。
痛みを伴わない願いなど、
この残酷な夜空の下には存在しないのだと、彼女は知っている。
少女はズタズタに引き裂かれ、
生温かい血に染まった両手で、
その冷たい星の欠片を胸の奥深くに抱きしめながら、
いつか必ず自分たちを許してくれるはずの、温かい夜明けの光だけを盲信して、
終わりのない暗闇の中を歩き続けた』
私がそこまで書き終え、小さく震える息を吐き出して万年筆の動きを止めた、ちょうどその時のことだった。
私のすぐ隣で、先ほどまで熱狂的な速度で真っ白なスケッチブックに黒鉛を走らせていた彼女の鉛筆の音が、ふっと、何の前触れもなく途絶えたのだ。
私はビクッとして肩を大きく震わせ、恐る恐る、隣に座る彼女の美しい横顔を盗み見た。
彼女は、自らが描きかけていた『血だらけの手で星を抱きしめる少女』の絵をじっと静かに見つめたまま、微かに、本当に微かに、困ったような、あるいはひどく悲しいような溜息を漏らしていた。
「……詩織」
やがて、彼女は手に持っていた使い込まれたBの鉛筆を、コトン、と小さな音を立てて木目調の机の上に置いた。
そして、窓から差し込む黄金色の西日に向かって、眩しそうに目を細めるようにして顔を向けた。
とろけるような琥珀色の光が、彼女の抜けるように白い肌と、折れそうなほど細い首筋を温かく照らしている。しかし、その神々しいほどに美しい彼女の輪郭は、数秒に一度空間を切り裂くあの『青白い閃光』に照らし出されるたびに、まるで古いフィルム映画の傷のように、一瞬だけ不自然に激しくブレて、その存在の不確かさと危うさを露呈させているように見えた。
「今日は、ここまでにしようか。……なんだか、これ以上描いたら、この絵の中の女の子が、痛みに耐えきれなくなって泣き出してしまいそうな気がするの」
彼女はそう言って、私に向かって優しく、すべてを包み込むような、けれど少しだけ疲れたような微笑みを向けた。
私は、その彼女の言葉を聞いて、ホッと胸を撫で下ろすような、それでいて得体の知れない底なしの不安に突き落とされるような、ひどく複雑で歪な感情を抱いた。
物語の進行を止めるということは、この図書室での時間が、一つの区切りを迎えるということだ。しかし同時に、背後から迫り来る無機質な足音と青白い光の恐怖から、一時的にでも意識を逸らすことができるかもしれないという、惨めな安堵感もあった。
「……うん。わかったわ。そうだね、今日はここまでに、しておこう」
私が上擦った震える声でそう答えると、彼女はこくりと頷き、机の中央——私たちのノートとスケッチブックのちょうど真ん中に置かれていた、あの『手作りの青い栞』へと、その白くて細い左手をゆっくりと伸ばした。
セルリアンブルーの、美しい絵の具のグラデーションが施された、手漉きの水彩紙。
私がこの世界で、現実よりも強く信じ抜き、魂の拠り所にしていた、唯一の確かな道標。
彼女は、その栞の毛羽立った柔らかな縁を親指と人差し指でそっとつまみ上げると、世界で一番大切な宝物を扱うような慎重な手つきで、私の目の前へと差し出してきた。
「はい、詩織。……この栞、詩織のノートの、今日書き終わったページに挟んで。明日もまた、絶対にこの場所から物語の続きを始められるように」
彼女の深く澄んだ鳶色の瞳が、真っ直ぐに私の瞳を見つめている。
その瞳の奥にあるのは、私という人間に対する絶対的な信頼と、明日という未来が必ず訪れることへの、何の疑いもない純粋な祈りだった。
ああ、そうだ。この青い栞がある限り、私たちは絶対に、迷うことなくここへ帰ってくることができる。
数秒に一度の青白い閃光も、不気味に忍び寄る足音も、この『栞をページに挟む』という神聖な約束の儀式を完了させれば、きっと跡形もなく消え去ってくれるはずだ。私たちの強い結びつきが、世界の綻びを完全に縫い合わせてくれる。
私は、喉の奥から湧き上がりそうになる黒い恐怖を必死に飲み込み、大きく一度深呼吸をしてから、彼女の差し出したその青い紙片を受け取るために、自らの右手をゆっくりと空中に伸ばした。
窓からの西日が、彼女の透き通るような白い指先と、つまみ上げられたセルリアンブルーの栞を、この世のものとは思えないほど美しく、神聖に照らし出している。
私の指先が、微かに空気を震わせながら、その青い紙片へと一ミリずつ近づいていく。
あと十センチ。あと五センチ。
私の意識は、その栞に触れた瞬間に指先へともたらされるであろう『確かな現実の温もり』に対する期待と狂気的な歓喜で、完全に満たされていた。
手漉きのコットンが持つ、あのふっくらとした、命の息吹を感じさせるような温かい凹凸。繊維の隙間にまで深く入り込んで完全に定着した、アクリル絵の具の乾いた微かなざらつき。刃物を使わず、彼女の指の力だけで優しく千切られた不揃いな縁の、羽毛のような毛羽立ち。
それらの圧倒的な『手作りの温もり』が、私の皮膚を通して脳へと伝達され、私が今間違いなくこの図書室にいるという絶対的な事実を、再び強固な城壁のように構築し直してくれるはずだった。
そして。
私の右手の親指と人差し指が、彼女の指先から、その『栞』を受け取った、まさにその瞬間のことだった。
(……!?)
図書室の時間が、完全に停止した。
私の心臓が、肋骨の裏側で、ドクン、という巨大で痛々しい一拍を打ったまま、二度と動かなくなったかのように凍りついた。
私の指の腹から、神経の管を伝って脳の最も深い奥底へと到達したその『触感』は。
私が狂信的なまでに期待し、待ち望み、この世界の真実の証明として頼り切っていたあの『紙と絵の具の温かい手触り』とは、一ミリも、一切の共通点を持たない、あまりにも異質で、あまりにも絶望的なものだった。
ざらつきなど、どこにもない。
コットンの繊維の柔らかさも、手作りの愛おしい温もりも、水彩紙の微かな弾力も、そこには微塵も存在していなかった。
私の指先が触れ、両側から挟み込み、その重さを受け取ったもの。
それは、ツルツルとした、一切の凹凸を持たない、おぞましいほどに均一で無機質な表面だった。
紙ではない。これは、絶対に紙ではない。
ひどく硬い。指の力で曲げようとしても、決してしなることのない、強固で暴力的な反発力を持った物質。
そして何より、恐ろしいほどに『冷たい』。
極寒の海から引き揚げられた氷の塊を直接触らされたかのように、私の指先から急速に体温を奪い去っていく、生命の気配が完全に欠落した、工業的で冷徹な温度。
(違う。……違う、違う、違う!)
私の脳が、想像していた世界と指先が捉えた現実との致命的な不一致にパニックを起こし、声にならない絶叫を上げる。
私の目は、確かに『セルリアンブルーの水彩紙』を見ているはずなのだ。彼女の指先から受け取ったのは、あの美しい青色のグラデーションが描かれた、手作りの栞であるはずなのだ。
しかし、私の指先が脳に送り込み続けている触覚の事実は、それが『分厚くて硬い、冷え切ったプラスチックの板』であることを、一切の反論を許さない絶対的な宣告として、容赦なく突きつけてきている。
視覚の嘘と、触覚の真実。その決定的な破綻。
私が限界まで神経を削り、激痛に耐えながら強引に縫い合わせてきたこの美しい箱庭の法則が、たった一つの異物の混入によって、根底からメキメキと凄まじい音を立てて崩壊していく。
私は、全身の血が逆流するような圧倒的な恐怖に戦慄しながら、視界の端で激しく明滅し始めた青白い閃光に抗うように、ゆっくりと、自分の右手の中に握りしめているその『冷たい物体』へと、視線を落とした。
——見たくなかった。
絶対に、見たくなかった。
しかし、言葉を紡ぐために世界を観察し続けてきた私の哀れな目は、その物体の正体を、一瞬の網膜の反射で完璧に捉え、私の精神のど真ん中へと残酷に刻み込んでしまった。
私の右手の指先に挟まれていたのは、あの美しいセルリアンブルーの栞ではなかった。
青い絵の具の色彩など、最初からどこにも存在していなかったのだ。
そこにあったのは、真っ白な、血の気が引くほどに真っ白な、分厚いプラスチックのプレートだった。
長さおよそ十五センチ、幅はおよそ五センチ。工業用の機械で寸分の狂いもなく無慈悲に切り出された、滑らかで無機質な長方形。
そして、その殺風景な白いプラスチックの表面には。
この琥珀色の図書室には絶対に存在してはならない、あまりにも残酷で、あまりにもおぞましい『四つの文字』が、まるで新鮮な血糊をべったりと塗りたくったような禍々しい真っ赤なゴシック体で、深く、鋭く彫り込まれていたのだ。
『面 会 謝 絶』
——ヒュッ、と。
私の喉の奥から、空気が完全に漏れ出す惨めな音がした。
幻の右手から完全に力が抜け、その硬くて冷たいプラスチックのプレートが、木目調の机の上にガシャンッ!と無慈悲な音を立てて落ちた。
面会謝絶。
面会、謝絶。
その赤く彫り込まれた暴力的な文字が、私の眼球を、視神経を、そして私の精神そのものを、重たいハンマーで叩き割るように粉々に打ち砕いていく。
知っている。私は、このプレートの意味を知っている。
重篤な患者の命をわずかでも繋ぎ止めるため、あるいは、もう二度と目を覚ますことのない人間の静寂を守るため。病室の冷たい鉄の扉の前に、重たい鎖のようにぶら下げられている、外部との接触を完全に拒絶するための残酷な標識。
なぜ、こんな物が、ここにある。
なぜ、明日への約束の証であったはずの美しい青い栞が、こんなおぞましい現実の異物へとすり替わっているのか。
その理由は、一つしかなかった。
私がこれまで、何重にも分厚い鍵をかけて必死に隠蔽し、知覚を縫い合わせてまで目を背けようとしていた、あの絶対的な真実。
【私が、彼女を殺したからだ】
あの日、あの交差点で。私がひどく身勝手で冷酷な言葉をぶつけ、絶望した彼女をあの恐ろしいトラックの前に立たせ、その美しい肉体を無惨な血の塊へと変えてしまったからだ。
自分が殺した親友が、生きたままこの病室の重たい扉を開けて、私に会いに来ることなど、絶対に、絶対にあり得ない。
どんなに美しい言葉で星の物語を紡いでも。どんなに狂気的な集中力で物理の理を書き換えて、完璧な図書室を構築してみせても。
死者は、生き返らない。死者は、面会に来ない。
『面会謝絶』。
お前が狂おしいほどに会いたがっている人間は、もうこの世のどこにもいない。お前がその手で殺したのだから。人殺しのお前に、誰かと面会する資格など、この先永遠に与えられはしない。
その覆しようのない残酷な事実——すなわち、私の心の底に渦巻く途方もない『罪悪感』が、私の創り上げた虚構の世界の論理を完全に食い破り、硬くて冷たい質量を持った『絶対的な異物』として、この箱庭のど真ん中に具現化してしまったのだ。
「あ……あ、あぁぁっ……!」
私は、机の上に落ちたその赤い文字から逃れるように、椅子から転げ落ちそうになりながら必死に後ずさった。
図書室の空気が、急激に腐臭を帯びていく。
鼻の奥を満たしていた古い本の匂いと柑橘の香りが一瞬で掻き消え、代わりに、強烈な消毒液の悪臭と、生々しい鉄と血の匂いが爆発的に空間を支配し始めた。
窓から差し込んでいた琥珀色の西日は完全に消失し、世界は、数秒に一度激しく明滅するあの『青白い閃光』だけの、死体安置所のようなおぞましい空間へと成り果てていた。
点滅する青白い光の中。
私のすぐ隣で、先ほどまで優しく微笑んでいたはずの『彼女』の姿が、暗闇の中で不気味に浮かび上がる。
彼女は、表情を完全に失った、能面のような真っ白な顔で私を見下ろしていた。
その彼女の足元——指定の紺色のブレザーの下、ローファーを履いているはずのその足が。
病院で深夜に見回りをする看護師が履くような、分厚いゴム底の白いナースシューズへと、いつの間にかすり替わっていることに、私は気づいてしまった。
ギュッ……。キュッ……。
彼女が、いや、彼女の形をした顔のない『何か』が、身動きの取れない私に向かって一歩、ゆっくりと足を踏み出した。
冷たい床を硬いゴムが擦る、あの無機質な足音が、私の狂信の箱庭を完全に叩き壊すための死の宣告として、密室の空間に反響する。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
私が自らの精神を切り刻み、知覚を縫い合わせてまで逃げ込もうとした世界は、私の最も恐れる罪悪感が、最も残酷な形で私を迎え撃つための、逃げ場のない最悪の処刑場だった。
鼓膜を突き破るような心電図の警告音が、再び世界を激しく満たし始める。
私は、自分の犯した大罪の完全なる顕現を前に、発狂寸前の絶叫を上げながら、真っ白なプラスチックプレートが放つ冷徹な光の底へと、ただただ落ちていくしかなかった。




