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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第4話『知覚の縫合』(3)

 灰色の病室を支配していた残酷な現実の理は、自らの魂を切り刻むことすら厭わない私の狂気的な執念と、言葉と色彩を編み上げる異常なまでの想像力によって、その外堀から少しずつ、しかし確実に美しい嘘へと塗り替えられつつあった。

 耳を塞ぎたくなるような無機質な換気扇のモーター音は、遠い放課後のグラウンドから風に乗って響く、不器用なチューバの柔らかい吐息へと縫い直された。生命の気配を徹底的に否定するような冷酷な空調の冷気は、額に滲んだ冷や汗を優しく撫でていく、春の終わりの気化熱へと変換された。鼻腔の粘膜を焼き切るような消毒液の鋭い悪臭は、言葉のメスによって一度完全に解体され、古い書物が長い時間をかけて放つ甘い酸化の匂いと、彼女の細い髪から漂うみずみずしい柑橘の香りへと再構築された。

 そして何より、首から下が動かない私の背中から後頭部にかけてのしかかっていた、絶望的な自重の重苦しい圧力は。私自身の頭蓋骨の裏側で、世界を引っ張る見えない力の向きを強引に九十度捻じ曲げるという狂気の編み直しによって、図書室の使い込まれた木製椅子に深く腰掛け、背もたれに寄りかかっているという、確固たる『姿勢の真実』へと完全にすり替えられていた。


 私の世界は、今や八割方が、あのはちみつを溶かしたような琥珀色の光に満ちた箱庭へと移行し終えている。

 目を閉じなくても、私の皮膚が、鼻が、そして身体の傾きを測る耳の奥の器官が、ここは間違いなく放課後の図書室なのだと力強く宣言している。

 しかし。

 自らの神経細胞を焼き切り、嘔吐するほどの激痛に耐えてそれだけの奇跡的な知覚の改竄を成し遂げてもなお、私の意識を現実の病室という残酷な地獄に繋ぎ止めて離さない、最後にして最強の『楔』が、空間のど真ん中に深々と突き刺さったままだった。


 ——ピッ。……ピッ。……ピッ。


 それは、冷たい医療用ベッドのすぐ脇にそびえ立つ、私の命の残量を絶え間なく監視し続ける機械が発する、鋭い警告音だった。

 規則正しく、一切の感情や温かみを排した、冷徹な単調な音の連なり。

 私がどれほど美しい幻影を脳内のカンバスに展開しようとも、この音だけが、極細の氷の針のように私の鼓膜を容赦なく突き破り、脳髄の最も柔らかくて傷つきやすい部分を正確に串刺しにしてくる。

 この音は、単なる機械の動作音ではない。私の心臓が、肋骨の内側で醜い血の塊を収縮させ、全身の血管へと熱い泥のような血液を送り出しているという、その生々しい『肉体の律動』を数値化し、空気を震わせる音へと変換したものだ。

 つまりこの警告音は、『お前はまだ生きている』『お前は首から下が一切動かない哀れな肉の塊として、この病室のベッドの上に寝かされているのだ』という、絶対に覆すことのできない現実を、一秒の休みもなく私の脳に叩き込み続けている、死神の足音そのものだった。


(消えろ……。消えろ、消えろ、消えろ……!)


 私は、幻の図書室の椅子に腰掛けたまま、声にならない絶叫を上げ、見えない両手で自らの頭を強く抱え込んだ。

 この命を刻む音が鳴り響いている限り、私の創り出した琥珀色の完璧な世界は、常にこの耳障りな現実のノイズによって汚染され続ける。いつか、あの黄金色の西日の中にいる愛しい彼女でさえも、この音の異物感に気づき、『ここは偽物の世界だ』『あなたは私を殺した』と冷たい瞳で見下ろしてくるかもしれない。

 私が彼女を、あの交差点で無惨な死へと追いやったという、どろどろとした罪悪感の泥水。その耐え難い真実から永遠に目を背けるためには、この現実世界の心拍音を、何としてでも、私の命と引き換えにしてでも完全に黙らせなければならないのだ。

 私は最初、自らの聴覚を遮断しようと試みた。春の風の音や、チューバの音をより大きく脳内で響かせ、あの機械の音を強引にかき消そうとした。しかし、無駄だった。外部の音を重ねて塗りつぶそうとすればするほど、その警告音は自らの存在を誇示するように、いっそう鋭く、私の意識の奥底へと深く食い込んでくる。逃げようとするほど、執拗に追いかけてくる。それが、現実というものが持つ圧倒的で暴力的な質量だった。


(逃げても、無駄なのね。……なら、どうする?)


 狂気に犯され、限界まで熱を帯びた私の脳が、恐ろしいほどの静けさとともに、一つの極端で冷酷な結論を導き出した。

 逃げるのではない。別の音で覆い隠すのでもない。

 この空気を震わせる現実の音の形に、真っ向から別の音の形を激突させて、互いに喰い破らせ、完全に殺し尽くすのだ。


 私は、恐怖と焦燥でパニックを起こし、ひきつっていた呼吸を、意図的にゆっくりと、深い海の底へ沈み込むように落ち着かせた。

 そして、自らの命を削り取るようにして、意識のピントをあの憎悪すべき警告音の『構造』そのものへと極限まで絞り込んでいった。

 音とは、すなわち空気を震わせる目に見えない波の連なりだ。微小な空気の圧力の変化が、波となって空間を伝わり、鼓膜を揺らす。

 私は、真っ暗な脳内の劇場のカンバスに、その音が空気を震わせている『波の形』を、一本の鋭い線として精密に視覚化して引きずり出した。


 ——ピッ。


 その音が鳴る瞬間、空気の圧力は急激に上昇し、鋭い『山』の頂を描く。そして一瞬の頂点の後、なだらかな曲線を描きながら圧力は下がり、深い『谷』を作ってから、再び元の平らな水面へと戻っていく。

 山の高さ。谷の深さ。そして、音が鳴ってから次の音が鳴るまでの、私の心拍数が刻む残酷で正確な周期。

 私は、その波が描く起伏のすべてを、瞬き一つの狂いもなく完全に解析し、言葉の網の目で捕らえ、自らの脳内に深く焼き付けた。


 音の波がぶつかり合うとき、そこに奇跡のような現象が起こる。もしも、ある音の波が持つ『山』の頂点に対して、全く同じ大きさの『谷』を持つ別の波を、針の先ほどの狂いもなく同時にぶつけることができたなら。

 相反する二つの力は完全に相殺され、空気の振動は互いの存在を食い破り合い、そこには絶対的な『無』——すなわち、完全なる沈黙が創出されるのだ。


(私が創るのよ。……この醜い現実の音を殺すための、冷酷で完璧な、沈黙の刃を)


 私は、奥歯が砕け、口の中に血の味が広がるほどの力で歯を食い縛り、脳の全神経細胞を動員して、自らの意識の奥底で『もう一つの波』を偽造し始めた。

 それは、現実の警告音と全く同じ周期、全く同じ深さを持ちながら、その起伏が完全に鏡合わせに反転した、正反対の波の形。

 現実の音が鋭い『山』を突き立てるなら、私は脳内に底なしの『谷』を穿つ。現実の音が深い『谷』へと沈み込むなら、私はそこにそびえ立つ『山』を隆起させる。

 造り出せ。ミリ単位の誤差も許されない。私の命の律動を、私自身の強靭な意志によって完全に裏返すのだ。

 神経細胞が、許容量を超えた狂気の想像力による熱で悲鳴を上げる。頭蓋骨の裏側で、血の管がちぎれそうに激しく脈打つ。現実の事象に対抗するために、人間の脳の想像力だけでそれと全く同じ質量の幻影を創り出すという行為は、自らの魂を業火の中に放り込むような、自傷的で凄絶な苦痛を伴っていた。

 しかし、私の狂気は、その肉体を切り裂くような痛みを、至高の歓喜の燃料へと変換していく。

 罪悪感に押し潰されて灰色のベッドの上で死ぬくらいなら、神の領域に足を踏み入れて、この醜い現実を根底からぶち壊してやる。


 ——ピッ。

 再び、現実の警告音が鳴り響く。

 私は、限界まで研ぎ澄まされた意識の刃を振り上げ、自らが血の涙を流しながら創り出した『全く正反対の波の形』を、鼓膜へと到達しようとする現実の音に向けて、真っ向から激突させた。


 衝突。

 バチリ、と、耳の奥深く、脳髄のど真ん中で、見えない巨大な火花が散った。

 現実の波が描く『山』と、私が創り出した幻の波が描く『谷』が、ほんの一瞬の狂いもなく完璧に噛み合い、激突する。

 その瞬間、二つの波は互いの存在を凄まじい力で打ち消し合った。空気を震わせていた響きが、まるで目に見えない巨大な両手で強引に首を絞められたかのように、行き場を失って空間の中で凍りつく。

 ピッ……プツッ……。

 私の命を刻むあの冷酷な音が、首の骨を折られた小鳥のように不自然に掠れ、その輪郭を急速に失っていく。

 まだだ。まだ足りない。

 私は、さらに意識の精度を限界のその先へと引き上げ、波の形の誤差を微塵の隙も残さないように修正していく。次の周期。さらに次の周期。現実の心拍音と、私の創り出した反転の波が、完全に重なり合い、融合し、互いを完全に喰い尽くすその一点を求めて。


 そして。

 三度目の波が衝突した、その刹那だった。


 フッ、と。

 私の耳を塞いでいたすべての音の粒子が、まるで空気のない宇宙空間へと放り出されたかのように、一瞬にして『完全な無』へと還ったのだ。

 無音。絶対的な、恐ろしいほどの沈黙。

 自分の心臓の音すら聞こえない、底なしの、そして息を呑むほどに美しい空白。私の脳が創り出した反転の波が、現実の音を完全に相殺し、打ち負かしたのだ。

 病室の機械の音が、私の世界から完全に消滅した。


 その完璧な沈黙が訪れた瞬間、私の脳内の想像力は、ついに許容量の限界を突破した。

 現実の世界を繋ぎ止めていた最後の一本にして、最も太い鎖が引きちぎられたのだ。

 空間を支えていた見えない張力が限界を超え、弾け飛ぶ。

 私の視界を覆っていた灰色の病室の景色——青白い無機質な蛍光灯、漂白された壁、私を縛り付ける点滴の管、それらすべての現実の風景が、巨大なハンマーで叩き割られた分厚いガラス板のように、パリンッ、パリンッ、と甲高い音を立てて無数にひび割れ始めた。

 亀裂は瞬く間に空間全体へと蜘蛛の巣のように広がり、現実の風景が、無数の鋭い破片となってガラガラと音を立てて足元へと崩れ落ちていく。

 そして、その崩落する灰色の残骸の裏側から、凄まじい光と極彩色の奔流が、決壊したダムのように私の世界へと雪崩れ込んできた。


「あ……ぁ……!」


 私は、極限の歓喜に震える声を漏らした。

 砕け散った現実のガラスの破片は、空中で重さを失い、黄金色の輝く粒子となって空を舞う。

 圧倒的な光。

 それは、あのはちみつを溶かしたように甘く、とろけるような琥珀色の西日だった。

 灰色の壁は崩れ去り、その奥から天井まで届く巨大な木製の本棚が、地鳴りのような音とともにせり上がってくる。無機質な床は、磨き込まれた古い木目調の床板へと姿を変え、私の足の裏に確かな軋みの感触を伝えてくる。

 私は今、完全に、あの放課後の図書室のど真ん中に座っていた。


 鼻腔を満たす、古い紙が酸化した甘い匂い。頬を撫でる、校庭の砂埃を微かに孕んだ春の風。そして、私のすぐ右隣には、使い込まれたBの鉛筆を握りしめ、窓からの西日を背に受けて神々しいほどに輝く『彼女』が、少しだけ驚いたような鳶色の瞳で私を見つめ返している。

 すべてが、在る。

 私が心の底から望んだ、私がこの世界で最も愛する完璧な風景が、現実の残酷な理を完全にねじ伏せ、私の五感を支配し尽くしたのだ。


 勝った。

 私は、運命という名の残酷な神様に、言葉を紡ぐ人間としての脆い精神力だけで真っ向から挑み、そして完全に勝利したのだ。

 この閉鎖された空間の中で、五感を書き換え、現実を打ち負かした。この神にでもなったかのような傲慢なまでの全能感が、私の血管の中を、沸騰する熱いお湯のように駆け巡っていく。

 私を縛り付けていた肉体の絶望も、冷酷な機械の音も、すべてはこの琥珀色の箱庭を構築するための『ただの踏み台』に過ぎなかった。


 そして、私の心の最も深い海の底で、腐臭を放ちながら渦巻いていたあの真っ黒な泥——『私が彼女を殺した』という、耐え難い罪悪感の塊。

 私は、自らが神となったこの完璧な世界の中で、その醜い真実を冷酷に見下ろした。

 もはや、あんな下らない記憶に怯える必要はない。

 私は、自らの意思で分厚い記憶の蓋を持ち上げ、その罪悪感という名の腐乱死体を、図書室の古い床板のずっと、ずっと深い地下室の底へと乱暴に蹴り落とした。そして、二度と開くことのないように、何重もの強固な鍵をかけ、その上から美しい言葉と極彩色の絵の具で分厚く塗り固めて完全に封印した。


 罪悪感? 殺人?

 馬鹿馬鹿しい。そんなものは、灰色の病室が見せていたくだらない悪夢に過ぎない。

 見なさい。私の隣には、温かい体温を持った彼女が確かに生きているではないか。彼女は私を愛し、私の紡ぐ言葉を誰よりも待ち望んでいる。

 私たちはここで、誰にも邪魔されることなく、永遠に美しい物語を紡ぎ続ける運命にあるのだ。

 この完璧な世界を創り出した私に、過去の罪などという無意味なノイズは、一ミリの傷をつけることすらできない。


 私は、絶対的な神の座に君臨する傲慢な支配者のように、唇の端を吊り上げて静かに微笑んだ。

 そして、机の中央に置かれた、彼女の手作りである『セルリアンブルーの栞』の息を呑むような美しさに目を細めながら、自らの真鍮の万年筆を力強く握り直す。

 ここは、私の世界。私がすべてのルールを決める、絶対の聖域。

 私は、現実を完全に殺し尽くした狂おしいほどの幸福感に全身の髄まで酔いしれながら、隣に座る愛しい彼女に向かって、甘く、優しい声で囁きかけたのだった。


「さあ、お待たせ。……私たちの、永遠の物語の続きを始めましょうか」

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