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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第4話『知覚の縫合』(2)

 耳を塞ぐような無機質な換気扇の唸り声は、遠いグラウンドから風に乗って響く、管楽器の柔らかい吐息へと縫い直された。血の気を引かせるような冷酷な空調の風は、額に滲んだ汗を優しく撫でていく、春の終わりの気化熱へとその意味を書き換えられた。

 私の異常なまでの感受性と、自らの精神を刃物で切り刻むことすら厭わない狂気的な想像力は、この灰色の病室を支配する絶対的な現実の理を、少しずつ、しかし確実に削り取っていた。鼓膜が捉える音の波を歪め、皮膚が感じる温度の記憶をすり替える。それは、ただの現実逃避などという生温かいものではない。自らの脳神経に致命的な負荷をかけ、精神の崩壊という綱渡りをしながら行う、命懸けの『世界の編み直し』だった。

 耳の奥では、不器用なチューバの低音が心地よいリズムを刻み、頬には西日の差し込む図書室の微風が吹いている。

 このまま一気に、私の魂をあの完璧な琥珀色の箱庭へと完全に移行させることができるかもしれない。そう錯覚しかけた私の鼻腔を、現実という名の残酷な刃が、一切の慈悲もなく容赦なく切り裂いた。


 ——匂いだ。

 聴覚と温度覚を言葉の力で騙すことに成功した私の、ほんのわずかな意識の隙を突いて。人間の五感の中で最も根源的であり、最も記憶と感情に直結している動物的な感覚器である『嗅覚』が、この空間の残酷な真実をけたたましく暴き立ててきたのだ。

 固く閉じたまぶたの裏側で、私はひゅっと息を呑んだ。

 鼻の奥の粘膜にべったりとこびりつき、呼吸をするたびに肺の最も深い底にまで侵入してくる、あの鋭利で、暴力的で、ツンとした冷たい悪臭。

 それは、消毒用のアルコールをはじめとする、命の気配を完全に根絶やしにするための薬品の匂いだった。目に見えない微小な菌を殺し、清潔という名の狂気で空間を漂白するためだけに散布された、無機質で冷徹な毒気。

 しかし、私にとってその匂いは、ただの病院の匂いなどではない。

 それは、あの日、ひしゃげたトラックの下から引きずり出された彼女の身体と、私自身の砕けた肉体を包み込んでいた、救急治療室の凄惨な匂いそのものだった。血と鉄の生臭さを、強引に薬品で覆い隠そうとした、あの死の淵の記憶。

 この冷たい薬品の匂いが私の肺を満たし続けている限り、私は自分が『死を待つためだけの白い部屋』に横たえられた、醜い殺人者であるという事実から、一歩も逃げ出すことができない。どれほど耳を塞ごうと、どれほど心地よい春の風を肌で感じようと、呼吸をするたびに押し寄せるこの死の匂いは、私が最も大切な親友を殺したのだという『罪悪感』の泥水とともに、私の魂を現実の病室のベッドへと強力な鎖で縛り付けてしまうのだ。


(消さなきゃ。……この匂いを、私の言葉で、完全に上書きするのよ)


 私は、酸素を求めてひきつけを起こす肺の痙攣を、奥歯が砕けるほどの気力で強引に押さえ込みながら、空間を満たすその鋭い悪臭の正体を、真っ暗な脳内の解剖台の上に乗せた。

 鼻腔の奥が捉えた、氷の破片のように尖り、粘膜を焼き切るようなトゲトゲしい薬品の刺激。私は、脳内に視覚化されたその『消毒液』という言葉の羅列を、自らの意志の力で一つずつ、黒いインクで乱暴に塗り潰し、強引に削り落としていった。

 冷たい。痛い。臭い。それらの単語を、私の意識の辞書から次々と破り捨てる。

 薬品の鋭い刺激臭が、言葉を失い、ただの『無臭の余白』へと解体されていく。

 しかし、匂いを消し去るだけでは足りない。空白のままでは、すぐにまた現実の残酷な悪臭が、隙間を縫って怒涛のように流れ込んでくる。私は、その削り落とされた無臭の空間に、私にとって世界で一番愛おしく、甘美な匂いの記憶を流し込み、物語の欠けたピースをはめ込むようにして、強引に新しい景色を構築していった。


 一つ目のピースは、古い紙の匂い。

 何十年という膨大な時間をかけて、分厚いハードカバーの木材パルプが空気に触れてゆっくりと日焼けし、朽ちていく過程で放たれる、バニラにも似た重たくて甘い香り。

 旧校舎の奥深く、顔馴染みの図書委員が帰った後にだけ訪れることのできる、あの秘密の図書室の扉を開けた瞬間に、いつも私たちを優しく包み込んでくれたあの静謐な香りだ。

 高い天井まで届く本棚。そこに眠る何千、何万という言葉の死骸たちが放つ、微かなカビと埃の匂いが混ざり合った、胸が締め付けられるほどに愛おしい空気。私は、その琥珀色をした匂いの記憶を、空っぽになった肺の奥底へと、一切の隙間を残さないようにたっぷりと注ぎ込んでいく。

 ツンとした薬品の痛みが、深呼吸したくなるような古い書物の甘い匂いへと、見事に上書きされていく。

 だが、これだけではまだ不完全だ。私が本当に帰りたいのは、ただ古い本が並んでいるだけの退屈な部屋ではない。彼女のいる、彼女の息遣いが聞こえる、あの西日が差し込む特等席なのだから。


 私は、心の最も深く、最も柔らかくて傷つきやすい場所に、鍵をかけて大切にしまっておいた『もう一つの匂い』のピースを、震える手でそっと取り出した。

 それは、隣の席に座る彼女の、細くて柔らかい髪からいつもふわりと漂っていた、もぎたての果実のような柑橘系の甘い香り。

 太陽の光をたっぷりと浴びたオレンジの皮を、指先で弾いた瞬間に空中に弾け飛ぶような、みずみずしくて、純粋で、胸の奥がキュッと痛くなるほどに鮮烈で甘酸っぱい香り。私が彼女の隣でノートに言葉を紡ぎ、彼女がスケッチブックに色彩を描くとき、肩が触れ合うほどの距離からいつも私の鼻先をくすぐっていた、彼女の命の匂いそのものだ。

 私は、その柑橘の香りの記憶を、古い本の甘い匂いと複雑に絡み合わせ、最後の決定的なピースとして、自らの鼻腔の奥にカチリとはめ込んだ。


 その瞬間、私の身体の奥深くで、奇跡のような変化が起きた。

 病室の冷徹な消毒液の匂いは完全に消滅し、私の肺の隅々にまで、あの放課後の図書室の空気が、彼女の温かい体温を伴った甘い匂いが、溢れんばかりに満ちてきたのだ。

 成功だ。私の狂気的な想像力は、鼻腔が感知した現実の無機質な刺激を、記憶という名の絵の具を使って、全く別の美しい風景画へと塗り替えることに成功したのだ。

 浅い呼吸をするたびに、古い本の甘さと彼女の柑橘の香りが、私の胸の奥を幸福感で満たしていく。

 ああ、彼女がいる。彼女が、すぐ傍にいる。

 まぶたを閉じた暗闇の中でも、この匂いがあるだけで、すぐ右隣の席で彼女が前かがみになりながら、真剣な瞳で鉛筆を走らせている姿が、手に取るようにわかる。私が彼女を殺したという、あの耐え難い残酷な真実すらも、この甘い匂いの麻酔が優しく、分厚く覆い隠し、すべてを『なかったこと』にしてくれる。

 私は、その琥珀色の香りに脳の髄まで酔いしれながら、微かに震える唇に、安堵の笑みを浮かべかけた。


 ——だが。

 嗅覚の壁を突破し、図書室の空気を手に入れた私を待ち受けていたのは、この病室の現実の中で最も暴力的で、最も重たく、決して言葉だけでは誤魔化すことのできない『触圧覚』という名の巨大な絶望だった。


 匂いをすり替え、音と温度を騙すことができても。私のこの肉体は依然として、冷たい医療用のベッドの上に、仰向けの状態で無惨に投げ出されている。

 神経が断ち切られ、一ミリも動かすことのできない背中、肩甲骨、そして後頭部に、絶え間なくのしかかってくる自らの肉体の重み。地球の引力という見えない巨大な手が、私の身体をベッドの硬いマットレスへと容赦なく引きずり込み、接地面の皮膚がその圧倒的な重圧に耐えきれずに、音なき悲鳴を上げ続けている。


 重い。ひどく重い。


 それは、ただの体重ではない。私が犯した罪の重さが、物理的な鉛となって私の全身にのしかかっているのだ。『お前はもう二度と自分の足で立つことはできない。その背中を大地に縛り付けられたまま、自らの罪の重さに潰されて死ね』という、神からの残酷な宣告。

 そして何より私を狂わせるのは、その背中の肌とベッドの間に介在している、漂白されたシーツの不快極まりない感触だった。

 病院の業務用の強力な洗剤で徹底的に洗われ、高温のローラーで不自然なまでに糊を効かせた、硬くて無機質な木綿の繊維。身じろぎ一つ、指先一つ動かせない私の背中全体が、その微細な繊維の硬いざらつきを、皮膚の表面で痛いほどに感じ取っている。

 私は今、ベッドに寝かされている。首から下が動かない哀れな人間として、ただ灰色の天井を見つめて横たわっている。

 その『仰向けという姿勢』と『背中にかかる莫大な重力』の現実は、どれほど美しい匂いで空間を飾り立てようとも、どれほど心地よい音楽を耳に響かせようとも、一瞬で私を図書室の椅子から引き摺り下ろし、残酷な現実の泥濘へと叩き落としてしまうのだ。


(負けない。……こんなもの、ただの物理的な圧力に過ぎないわ)


 私は、恐怖で震える意識のピントを、自らの背中と後頭部に重くのしかかっている『圧力』の一点へと極限まで絞り込んだ。

 五感の縫合は、ここからがいよいよ正念場だ。空間の情報を言葉で書き換えるだけでなく、自らの肉体にかかる重力の向きそのものを、頭の中で完全に再定義し、捻じ曲げなければならない。

 私はまず、背中全面にべったりと張り付いている『シーツの繊維のざらつき』の解体から始めた。

 糊の効いた硬い糸が規則正しく交差する、あの均一で無機質な感触。私はその冷たい触覚を皮膚の表面から引き剥がし、別の愛おしい触感へと急速にすり替えていく。

 思い出すのは、図書室の一番奥、窓際のテーブルに置かれている、あの使い込まれた木製の椅子の手触りだ。

 何十年もの間、数え切れないほどの生徒たちの制服に擦れ、磨き上げられ、角が丸くなった滑らかな木の表面。ニスが剥げかけ、ところどころに柔らかな窪みや傷痕のある、あの不規則で、ひどく温かみのある木の感触。

 私は、背中の皮膚が感じ取っているシーツの冷たい抵抗感を、その使い込まれた木製椅子の、滑らかな背もたれの感触へと、寸分の狂いもなく縫い合わせた。均一な糸の擦れが、滑らかな木目の凹凸へと変わり、背中を真っ平らに包み込む感触が、身体の曲線に寄り添うような、温かい木材のカーブへと変化していく。


 だが、真の問題は『重力の向き』だった。

 ベッドに仰向けに寝かされている以上、重力は私の身体の『正面から背面へ』向かって真っ直ぐに、つまり垂直に降り注いでいる。背中と後頭部に、身体全体の重さが完全に集中している状態だ。

 しかし、図書室の椅子に『座っている』のであれば、重力は頭のてっぺんから背骨を通って真下へと抜け、圧力の大部分は臀部と太ももの裏側、そして床についた足の裏にかかっていなければならない。背中にかかる圧力は、背もたれに軽く寄りかかった時の、わずかな体重の分散に過ぎないはずなのだ。


(重力を、回すのよ。……私の頭蓋骨の中で、世界ごと九十度、強引に回転させるの)


 私は、奥歯から血が滲むほど強く噛み締め、眼球の裏側の血管がちぎれそうになるほどの異常な集中力で、自らの脳に致命的な命令を下した。

 身体の傾きを感知する耳の奥の器官を、狂気的な自己暗示によって強引に麻痺させる。

 そして、背中全体にかかっている重たい『自重の圧力』の感覚を、頭の中で強引に引き算し、別の場所へと移動させていくのだ。

 後頭部にかかっている圧力を、ゼロにする。『私は今、頭を真っ直ぐに起こして前を見ているから、後頭部には何も触れていない』と脳に錯覚させる。

 次に、背中にかかっている莫大な圧力を十分の一に減らす。『これは重力ではない。私が深く椅子に腰掛け、木の背もたれにゆったりと寄りかかっているだけの、微かな圧力だ』と意味を書き換える。

 そして、今は宙に浮いていて何も感じていないはずの臀部と太ももの裏側に、仮想の莫大な重力を叩き込む。『ここが椅子の座面だ。地球の引力は、ここに向かって私の身体を引っ張っているのだ』と。


 ギギギギギッ……。

 頭の中で、空間の軸が無理やり捻じ曲げられるような、おぞましい軋み音が鳴り響いた。

 神経細胞が限界を超えて悲鳴を上げ、脳髄が炎で焼き切れるような凄まじい激痛が走る。現実の強固な物理法則と、私の狂気的な意志が、私の動かない肉体をキャンバスにして、凄惨で血みどろの綱引きを繰り広げている。

 私は、胃液を吐き戻しそうになるほどの強烈なめまいに耐えながら、空間の軸を回し続けた。

 世界が傾く。三十度、四十五度、六十度、八十度……。

 魂が肉体から引き剥がされるような痛みに、私の意識が何度も暗転しそうになる。それでも、私は図書室の椅子の感触を、彼女の柑橘の匂いを、絶対に手放さなかった。


 ——カチリ。


 突如として、複雑なパズルの最後のピースが完璧にはまったような、恐ろしいほどの静寂が、私の肉体を包み込んだ。

 終わったのだ。

 私の脳は、現実の重力の向きを完全に書き換え、私の肉体を『仰向けの寝たきり状態』から『椅子に座っている状態』へと、情報の上で完全に立たせることに成功した。

 背中から後頭部にかけての不快で絶望的な重さは嘘のように消え去り、代わりに臀部と太ももに、木製の座面の硬くて滑らかな圧力を、はっきりと、痛いほど鮮明に感じ取っている。

 私は今、図書室の椅子に座っている。

 目の前には古い木目調のテーブルがあり、すぐ右隣には、柑橘系の甘い香りを漂わせた彼女が座っている。私の右腕はテーブルの縁に軽く乗せられ、指先には万年筆の真鍮の冷たさが確かに握られている。

 それは、ただの想像や願望などではない。私の脳が、五感のすべてを通して処理し、現実よりもはるかに強固な真実として認識している『絶対的な現実』だった。


 音。温度。匂い。触覚。姿勢。重力。

 私を灰色の残酷な病室に縛り付けていた重たい鎖は、私の狂気的なまでの解剖と縫合のプロセスによって、今、次々と断ち切られていく。

 私を現実の世界に引き留めているものは、もうたった一つしか残されていなかった。

 耳の奥で、私の命を無機質に刻み、けたたましく鳴り響き続ける『心電図の警告音』だけだ。

 この無慈悲な電子音さえ完全に消し去ることができれば、私はついに、あの琥珀色の箱庭へと完全なる帰還を果たすことができる。

 私は、図書室の椅子に座っているという幻の姿勢のまま、ゆっくりと、最後にして最大の敵であるその忌まわしい警告音へと、限界まで研ぎ澄まされた意識の矛先を向けたのだった。

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