学生の時分に浸っていたら
書き出しにメイドが痛めつけられる描写があります。
苦手な方は、「朦朧と~目を瞑った」辺りまでスクロールをして下さい。
大事なシーンですが、お読み頂かなくとも支障はないと思われます。
貴方の心を大事にして、お読み下されば幸いです。
「きゃあっ!」
メイド目がけて投げた水差しが、派手な音を立てて割れる。
青ざめて足を小鹿のように震わせたまま立ち尽くしている女は、仕着せをぎゅっと皺ができるまで握っていた。
「ああああああっ!」
「……ひっ!」
蚊の鳴くような声を漏らし、涙を浮かべるメイドと目が合う。
女はガタガタと歯を鳴らして、一筋の涙を流した。
あはっ!
丁度いい!
今度は、あれを的にしよう!
手近にあるもの全てを無作為に的目がけて投げつける。
色んな音が不協和音となって部屋に響く。
「やめっ、お止め下さい! どうか!」
何か喚いている気がするが、知ったことか。
派手な音がする度に、この忌々しい音が重なって止むんだから。
目ぼしい物が見当たらなくなった頃には、本やペーパーナイフ、割れた硝子製の調度品、彼女に贈ろうとしたアクセサリーがメイド周囲に散乱していた。
「ははっ! あははっ! あはっ!」
あれ? どうして笑っているんだっけ?
……まあ、どうでもいいか。
ああ。
でもどうしたら、この募っていくばかりの焦りが無くなるのだろう。
どうしたら、この早まるばかりの心音は静まってくれるのだろう。
「……うああああああっ!」
ああ、ぁあ、うぁ、ああ!
煩い、煩い、煩い、煩い!
悪くない! 悪くない!
俺は何も悪くない!
聞こえない筈の、自分を責め立てる誰かの声がずっと傍らで囁いてくる。
次から次へとある筈のない罪悪感が押し寄せてきて、気が狂いそうになる。
だというのに、この体はそれを許してくれない。
本能なのか、理性なのか、僅かばかりの良心なのか。
そいつが、頻りにしでかした現実を受け入れろと語りかけてくる。
ふと、カーテンの隙間から差し込む陽光が視界に映った。
「ああああああっ!」
衝動のままに手近にあったクッションを窓へ向かって放る。
窓に辿り着く前にクッションは床に落ち、乾いた音だけがした。
「……出ていけ」
「は……え?」
急に何もする気が起きなくなった。
ああ、もしかしたらこれで眠れるかも知れない。
無造作にベッドに潜り込みながら、未だにその場にいるメイドに命ずる。
しかし、女は咄嗟に理解出来なかったのか聞き返してきた。
「聞こえなかったのか? 出て行けと言っている!」
グラスを女の額に目がけて投げると、メイドは脱兎のごとく部屋を出て行った。
ははっ。音が……聞こえなく……なった。
朦朧とする意識の中、やっと音が聞こえなくなったことに俺は心から安心して、ゆっくりと目を瞑った。
本の上に本が重なり山となって聳え立ち、それが至る所にある所為で足の踏み場が殆どない。
長いこと換気をしていないのか、埃っぽい室内を進むと辛うじて客人をもてなす為のソファの辺りは何一つ置かれていなかった。
そっとソファの座席を叩く。
はぁ、やっぱりな。
此処はよく使われているのだろう。
本の山と違い、手套に何も付着しない。
「これは違う。おおっ、これは先月無くしたやつ! 此処にあったのか! っと、違う違う。あった、あった。ほれ、これだ。儂にはもう必要ないからのう。お主にやろう」
本と本の隙間から見るからに古く草臥れた本を手にした恩師が戻ってきた。
元は見事なスーツだろうそれはよれよれになっており、見ようによっては本よりも草臥れた印象を受ける。
この人は何故こうも、無頓着なのだろう。
久しくお会いしていないが、夫人の苦労が目に浮かぶようだ。
恩師はその草臥れた本をそっと置くと、向かいに座した。
「ありがとうございます。心ばかりですが、ご自宅に先生のお好きな芙容の海苔をお送りしております」
配置についている部下に目配せして草臥れた本を託すと、直ぐに扉の向こうの部下と交代した。
「はっはっはっ! 嬉しいなぁ! カミラは見ることも嫌がるくらいに好かんし、いい顔をしないんでな。なかなか買えんで困っていたところだ」
夫人が見ることすら嫌がるのはきっと、味よりも値段が原因だろうがな。
芙容産の海苔は質が良いが、その分どうしても値段が高い。
その上、この大陸ではあまり売れないことで有名な品でもある。
必要以上の出費を許さないあの夫人なら、そうもなろう。
「これをきっかけにご帰宅下さい。どうせまた寝泊まりをなさっていたのでしょう?」
この人の姿がだらしないということは、研究に夢中になって引きこもっていたということに他ない。
俺が在学中でもよく目にした光景だが、よくもまあソファで寝泊まりして平気でいられるものだ。
立派な邸宅よりも学内の一室のソファで過ごす方が長いとは、実に勿体ない。
やはり、邸宅に先ぶれを送る前に此処を訪れたのは正解だったな。
夫人は夫人で、きっと心から迎えて下さるだろうが、あれこれと話しをして帰して下さらないだろうから。
「ええい、お前さんまで言うでないわ。耳に胼胝ができそうだわい」
「夫人は先生のお体をご心配なさってるのでしょうよ」
ひらひらと手をふる先生はうんざりだと言わんばかりに、ソファから立ち上がった。
「ところでお前さん。今年で21だったか?」
「ええ、はい。そうですが?」
おもむろに研究途中なのだろう開いたままの本の傍にあった何かを手にすると、先生は直ぐに戻ってきた。
「ほれ、この真ん中の別嬪さん。お前さんにどうじゃ? どうせお前さんのことだから嫁さん貰っとらんのじゃろ」
にやにやと、見るからにからかっていることが窺い知れる先生が、そう言って見せてきたのは意外なことに写真だった。
まさか、写真をこんなところで見ることになろうとは。
取引先の芙容の商人が昔からのよしみで見せてくれたことがあったが、それっきり見ることはなかったというのに。
海を隔てた向こうの芙蓉皇国が生み出した映写玉というもの。
わざわざ画家を呼ぶことなく肖像画を完成させるという品で、その出来上がったものを芙容では、写真と呼ぶのだそうだ。
輸入されてもう二月過ぎたが、今でもそうそう手に入らないことで有名だというのに。
先生、よく入手したな。
まさか研究費を?
……それは無いな。
おっと、いかんいかん。
はたと、我に返って肝心の器量よしに目をやるが、直ぐに先生を咎めるように目を向けた。
「なぁにが、どうじゃ? だ! こんのクソ爺! おくるみ巻いた赤子を薦めんな!」
「可愛かろう? 娘が先々月に産んでな」
完全に祖父の顔になった先生が写真の赤子に微笑む。
ったく、真面目に取り合うんじゃあなかった。
苛立ちながら、立ち上がって背を向ける。
「はいはい、そぉですか。おめでとうございまぁす」
「待ちなさい」
部下が開けた扉から出ようとした矢先、真面目な声で呼び止められた。
「今度は何です?」
仕方なしに先生の方へ首だけ向くと、彼は心なしか心配そうな目をして俺を見上げていた。
「……儂の孫は嫌と言うのなら、娘の旦那の従妹の子は如何じゃろう? もう直ぐ一つになるらしい」
「諄い!」
……はぁ。
少しでも真面目な内容かと思った過去の自分を無かったことにしたい。
「また来いよ」
実子を見るような眼差しを向ける先生に一礼して、今度こそ背を向けた。
ふと、外から笑い声が聞こえて立ち止まる。
鮮やかな赤が目をひく女学生が男子学生と語らいながら、学内のカフェテリアの方へ向かっていく最中だった。
「隊長」
一呼吸して、平静を取り戻す。
「ホイットマン卿は先に戻れ」
部下を下がらせ、ゆっくりと学長室へ向かう為に足を向けた。
「……ちっ」
先生は、心配もあってああ仰ったのだろう。
分かってはいても、ダメだな。
……このまま学長に会ったら、うっかり手か足が偉大なる学長先生のご尊顔に当たってしまう。
「おや」
「お久しゅうございます。オルグレン先生」
向かいから見知った顔が現れ、少し苛立ちが静まった。
「貴殿の名声はよく耳にしますよ。お変わりなくお過ごしのようで、何よりです」
学生の頃と何一つ変わらない低音で落ち着いた声の先生は、何処か嬉しそうだ。
今のところは、あまり表情が動かないな。
まあ、邪険にされないのならそれでいいか。
「先生の令聞は、我が領にもよく轟いております。長らくお会いすることが叶いませんでしたが、先生のお元気なお姿を拝見する事ができましたこと、卒業生として大変嬉しく思います」
「その猫かぶりの早さも変わりませんね」
顎に手を当て、ふっと笑ったかと思うと次第に彼は可笑しそうにくすくすと笑い始めた。
本当、人が悪いなこの人。
彼の言葉を丸々右から左に受け流して、俺はすっと呆けることにした。
「はははっ。猫? 何のことやら」
「はははっ。ポップルウェル先生のご高説は大変為になりますから。それはもう大いに討論に花を咲かせていらしたとしても無理はないでしょうね。是非とも、交ざりたかったものです」
一拍置いた後にはははっ、と互いに笑い合う。
はいはい。貴方の素晴らしい美声は廊下にも轟いていましたよ、ってか?
嫌味ったらしいのもご健在だな。
さて、どうやって切り上げよう。
オルグレン先生との話しをどう収めるか思案しているところ、突如角の廊下からドスンという音がした。
「……何でしょう」
「行ってみましょう」
どうせ、学生が悪ふざけをしたのだろうな。
そう暢気に思いながら、先生を連れ立って角を曲がると思いもしなかった光景がそこには広がっていた。
「ホークショー君!」
先生が我先に向かった廊下の床に、苦悶の表情のまま気を失っている女学生がいた。
足を踏み外したのか?
浅いが、呼吸はしている。
思いの外、外傷も少ない。
受け身を咄嗟にとったのだろうか。
「っ!」
階上から足音がして、そちらを見やるも疾うにそこには人っ子一人いなかった。
……ミスったな。
まさか、王侯貴族の子女が集う社交の場に。
そのような阿呆は流石にいやしないだろう、と思い込むなんて……。
やらかしたな。初歩も初歩のミスだ。
これを父上がお知りになられたなら、一から叩き直すと言われかねん。
おお、こわやこわや。




