第99話 三つの手紙
結婚式から半月が過ぎた。
リーナの日常は、意外なほど穏やかに始まった。シュヴァルツベルク家の別邸に移った執務室には、毎朝のように依頼書と報告書が届く。帝国公認鑑譜師としての仕事は途切れない。
地方領主の不正、商人の契約詐欺、貴族間の紛争調停——嘘のある場所に、リーナの鑑譜眼が呼ばれる。
けれど今日は、仕事の書類の山の間に、別のものが混じっていた。
「手紙ですわね」
リーナは封書を二通、執務机の上に並べた。一通は辺境自治区の紋章。もう一通は——紋章も何もない、無造作に折られた布包み。
辺境の手紙を先に開けた。
ミーリアの丸い文字が、便箋の上を跳ねるように並んでいた。
「リーナさま。辺境の温泉は今日も穏やかです。薬草園の新しい品種が実をつけました。よかったら、遊びに来てください。温泉に浸かりながら、ゆっくりお話ししたいです。——ミーリアより」
便箋の隅に、また花の絵が描いてあった。薬草園の新品種だろうか。細い線で丁寧に描かれた花弁が、ミーリアの几帳面さを物語っている。
リーナは便箋を指先で撫でた。
結婚式の時、来賓席で泣いていた少女の顔が浮かんだ。温泉の匂いのする薄桃色のドレス。涙を拭きながら「おめでとうございます」と何度も繰り返していた声。帰り際に手を握って「今度はわたしの番です」と笑った、透明な旋律の持ち主。
「ミーリアさんは、お元気そうですわね」
リーナは便箋を置き、もう一つの包みに手を伸ばした。
布を開けると、星脈鉄の鉱石が転がり出た。拳よりやや小さい。白銀色に淡く脈動している。結婚式の前に届いたものと同じ純度の高い鉱石。
メモが一枚、鉱石の下に挟まっていた。
「いるか? ——カイト」
二語だった。
リーナは鉱石を手のひらに載せた。拳よりやや小さく、表面が粗い。ダンジョンの深層で採れたものだろう、内部の結晶構造が透けて見えるほど純度が高い。星脈鉄の振動が掌を伝い、イヤーカフと共鳴するように微かに震えた。
「いるか、ですか」
声に出して呟いた。
「プレゼントなら、せめてもう少し言葉を添えてくださればよろしいのに。不器用ですわね」
ルシアンが執務室の扉を開けて入ってきた。外套を脱ぎながら、リーナの机の上を一瞥する。
「また鉱石か」
「またですの。カイトさんから。今度はメモが二語。前回は三語でしたから、減っていますわね」
「そのうち鉱石だけ届くだろう」
「あり得ますわね」
リーナは鉱石をイヤーカフの隣に並べた。執務机の端に、星脈鉄が三つ。イヤーカフと合わせて、小さな白銀の列ができている。
* * *
午後。リーナは返事を書いた。
ミーリアへの手紙から。ペンを走らせると、インクが羊皮紙に滑らかに染みていく。
「ミーリアさま。近いうちに辺境視察の名目で伺いますわ。温泉、楽しみにしておりますわね。フェリクスさまにもよろしく。——リーナ」
ペンを置いた。辺境視察の名目というのは半分冗談で半分は本気だった。帝国公認鑑譜師の権限には帝国全土の調査権が含まれている。辺境の視察は職務の範囲内。温泉に入るのは——職務外だが。
次に、カイトへの返事。
リーナはペンを取り直した。少し迷ってから、書き始めた。
「迷宮の冒険者殿。あなたの核紋の旋律、定期的に聴かせてくださいませ。安定しているか確認が必要です。——これは命令ではなく、心配しているのですわよ。リーナ」
聖域山脈での共闘の後、カイトの核紋が安定したことはリーナの鑑譜眼で確認済みだった。けれど、空の核紋に他者の欠片を取り込むという特異な体質は、経過観察が必要だとリーナは考えていた。
本音を言えば、心配しているのだ。ぶっきらぼうな冒険者の旋律を。
ルシアンが書類にペンを走らせながら、ちらりとリーナを見た。
「カイトへの手紙は長いな」
「二行ですけれど」
「ミーリアへの手紙も二行だった。お前にしては均等だ」
「公平な鑑譜師ですもの」
リーナは封蝋を温めた。ミーリアへの手紙にはクレスタフェルデの紋章を押した。カイトへの手紙には——紋章は押さなかった。あの男は紋章など気にしないだろう。
二通の手紙を封じ、使用人に渡した。辺境自治区への便は三日に一度。カスカーラ迷宮都市への便は週に一度。届くまでには時間がかかるが、急ぐ内容ではない。
リーナは椅子の背にもたれた。
「友人ですわね」
ルシアンが顔を上げた。
「友人ができたな」
「以前も同じことを仰いましたものね」
「今も同じだ」
リーナは窓の外を見た。帝都の空に、春の薄雲が流れている。まだ冷たい風が窓を揺らしたが、陽の光は確かに暖かくなっていた。
「聖域山脈で一緒に戦った方たちが、それぞれの場所で暮らしている。ミーリアさんは薬草園を育てて、カイトさんはダンジョンに潜って。わたくしは鑑譜師として嘘を暴いて」
リーナはイヤーカフに触れた。
「全員ばらばらの場所にいるのに、旋律は繋がっている気がしますの。鑑譜眼では届かない距離ですけれど」
「相変わらず、詩的だな」
「比喩ですわ」
「知っている」
ルシアンが椅子から立ち上がった。リーナの執務机まで歩いてきて、星脈鉄の鉱石を一つ手に取った。白銀の光が彼の碧眼に映り込んだ。
「カスカーラに寄る予定は」
「ええ。カイトさんの核紋を診に参りますわ」
「護衛は俺がやる」
「当然ですわ。わたくしの護衛は、ルシアン様以外にお願いする気はありませんの」
ルシアンが鉱石を机に戻した。碧眼がリーナを見た。
「面倒だな」
「嘘ですわね」
いつもの掛け合い。いつもの旋律。リーナの紫の瞳が笑っていた。
窓辺に並べた星脈鉄の鉱石が、午後の光を受けて穏やかに脈動していた。二つの鉱石と一つのイヤーカフ。三つの白銀が、それぞれ異なるリズムで揺れている。
三つの旋律が、遠い場所で鳴っている。
リーナはペンを取り直した。次の仕事の書類に目を通す。
書類の束の一番下に、クレスタフェルデ伯爵家の封蝋が押された手紙が紛れていた。父エーリヒからだ。
開封した。短い文面。
「お前が笑っているなら、それでいい。母の墓前に報告しておいた。——父より」
リーナの手が止まった。
母は、リーナが幼い頃に亡くなった。鑑譜眼を持って生まれた娘を、最後まで「天からの贈り物」と呼んだ人。父が同じ言葉を使うのは、母から受け継いだものだと、今ならわかる。
便箋を丁寧に畳み、引き出しにしまった。
窓の外に目を向けた。帝都の空は青く、薄い雲が春風に流されていく。帝国公認鑑譜師の日常は、忙しくて穏やかで——退屈ではなかった。




