第98話 旋律の花嫁
帝都大聖堂の扉が開いた。
朝の光が差し込み、石の床に白い帯を描いた。蝋燭の列が通路の両脇に並び、炎が揺れている。天井のステンドグラスから色とりどりの光が降り注ぎ、大聖堂の空気が虹色に輝いていた。
リーナは、父エーリヒの腕に手を添えて入口に立った。
純白のドレスが、朝の光を受けて銀色に光っている。銀糸の刺繍が胸元から裾まで五線譜のように流れ、歩くたびに微かに揺れた。銀髪を高く結い上げ、イヤーカフだけが耳元に残っている。
「緊張しているか」
父の声は低く、穏やかだった。
「いいえ」
「嘘をつくな。お前の耳は赤い」
リーナは唇を引き結んだ。父の腕を握る指が、少しだけ強くなった。
「……少しだけ、ですわ」
「お前の目は天からの贈り物だと言ったな」
「覚えていますわ」
「今日は——お前自身が贈り物だ。あの男に渡すのは惜しいが」
リーナの紫の瞳が父を見上げた。エーリヒ・クレスタフェルデの瞳は穏やかで、しかし微かに潤んでいた。
「お父様」
「行くぞ」
一歩を踏み出した。
通路を歩く。両脇の列席者が立ち上がり、視線がリーナに集まった。帝都の主要貴族。宮廷の高官。シュヴァルツベルク家の一族。
鑑譜眼は切っている。今日は——嘘を暴く日ではない。
それなのに。
聴こえた。
祭壇の前に立つルシアンの旋律が。鑑譜眼を切っているのに、彼の核紋から流れる音が耳の奥に届いていた。あの夜からずっと変わらない、澄んだ和音。嘘のない、真っ直ぐな旋律。
リーナの足が止まりかけた。
息が詰まった。目の奥が、じわりと熱くなる。
ルシアンが祭壇の前に立っていた。黒の礼服。いつもの鋭い碧眼が、真っ直ぐにリーナを見ている。表情は変わらない。冷血公子の異名の通り、完璧に整った顔立ち。
けれど、リーナには聴こえていた。
彼の旋律が、ほんの僅かだけ震えていることに。
父の腕が離れた。エーリヒがリーナの手をルシアンの手に重ねる。無言の引き渡し。リーナの指先が、ルシアンの手のひらに収まった。硬い指。剣だこのある手。けれど温かい。
祭壇に二人が並んだ。
星神教の最高位の神官が、祝詞を読み上げ始めた。古い言葉が大聖堂の高い天井に反響し、蝋燭の炎が揺れた。
リーナは視線を前に向けたまま、隣のルシアンの気配を感じていた。
神官の声が続く。誓いの言葉が近づいてくる。
その時。
ルシアンの口が、ほんの僅かだけ動いた。
「綺麗だ」
小さな声だった。神官の声に紛れて、周囲の人間には聴こえないほどの。
口調は「俺」だった。
リーナの耳が、一瞬で赤くなった。イヤーカフの下まで。純白のドレスに銀髪が映える花嫁の耳が、祭壇の上で真っ赤に燃えている。
返事をしようとしたが、声が出なかった。唇が震えた。目を伏せた。
「……聞こえていますわ。ずるいですわ、こんな時に」
かろうじて、それだけ。声が掠れた。
ルシアンの手が、リーナの手を一瞬だけ握った。強く。それから緩めた。
* * *
来賓席の三列目で、ミーリアが泣いていた。
隣に座るフェリクスが困ったように肩を叩いているが、ミーリアの涙は止まらなかった。辺境から駆けつけた少女は、温泉の匂いのする薄桃色のドレスを着て、ハンカチを顔に押し当てたまま声を殺していた。
リーナの視界の端に、その姿が映った。泣いている理由は、聞くまでもなかった。
壁際に、もう一人。
カイトが腕を組んで立っていた。席に座ることを拒否し、大聖堂の柱に背を預けている。ダンジョン帰りの冒険者に礼服は似合わないが、一応は着ている。襟元が崩れているのはご愛嬌だろう。
灰色の瞳が、祭壇を見ていた。
口元が、微かに笑っていた。
カイトが笑うのを見るのは、これが初めてかもしれない。リーナはそう思った。聖域山脈でもダンジョンでも、この男が笑みを見せたことはなかった。けれど今、壁際に立つカイトの口の端が、確かに持ち上がっている。
* * *
神官の祝詞が終わり、誓いの言葉の順番が回ってきた。
「星神の名において、この二人の誓いを聴く」
神官が宣言した。大聖堂が静まった。蝋燭の炎すら揺れるのを止めたように、空気が澄んだ。
「シュヴァルツベルク家が次男、ルシアン。クレスタフェルデ伯爵家が長女、リーナ。誓いの言葉を」
ルシアンが一歩前に出た。リーナの手を取ったまま。
「星神の前に誓う。この女を守り、支え、共に歩む」
短い誓いだった。飾り気のない、ルシアンらしい言葉。けれどその声の中に、リーナは完全な和音を聴いていた。
リーナが口を開いた。
「星神の前に誓います。この方と共に歩み、わたくしの目が映す真実を、分かち合うことを」
声は震えなかった。紫の瞳がルシアンの碧眼を見上げた。
その瞬間、鑑譜眼が静かに発動した。
瞳が金色に変わる。意図したものではなかった。けれど、止める気もなかった。
大聖堂に集う全ての人々の核紋が、リーナの目に映った。
旋律が溢れた。
シュヴァルツベルク家の当主。クレスタフェルデ伯爵家の父。来賓の貴族たち。宮廷の高官。泣いているミーリア。壁際のカイト。
そして隣のルシアン。
一つ一つの核紋が、それぞれの旋律を奏でている。誰一人として同じ音はない。けれど、この瞬間——全ての旋律が一つの和音に収束していた。
不協和音は、一つもなかった。
リーナの目から、涙が一筋こぼれた。
鑑譜眼を通して、何百人もの核紋を視てきた。嘘の不協和音。善意の歪み。無自覚な霞。この世界には嘘が溢れていて、完全な和音の空間など存在しないと思っていた。
聖域山脈の封印修復の直後、不協和音のない空間に立ったことがあった。あの時は、世界が正しい和音で鳴っていることに涙した。
今も——同じだった。
人間が集まり、嘘のない祝福だけが響く空間。それは、封印の修復以上に稀な奇跡だと、リーナは思った。
鑑譜眼が紫に戻った。涙の跡が頬に光っている。
ルシアンが、黙ってリーナの手を握った。
「泣くな」
「泣いていませんわ」
「嘘だ」
「……ええ。嘘ですわね」
リーナは空いた手で目元を拭った。
来賓席からミーリアのすすり泣く声が聞こえた。壁際のカイトは腕を組んだまま、天井のステンドグラスに目を向けていた。
「綺麗な和音でしたわね」
リーナは小さく呟いた。ルシアンだけに聴こえる声で。
「お前がそう言うなら、間違いない」
大聖堂に、拍手が響いた。列席者が立ち上がり、祝福の声が大聖堂の高い天井に反響した。ステンドグラスから降り注ぐ虹色の光が、純白のドレスの上を踊った。
婚約破棄から始まった旋律が、新しい和音として静かに鳴り始めていた。




