第97話 結婚式の準備
シュヴァルツベルク公爵家とクレスタフェルデ伯爵家の婚姻が、帝都の社交界を揺るがした。
婚約破棄された伯爵令嬢が、五大公爵家の次男に嫁ぐ。しかも嫁ぐのは、百年の嘘を暴き、帝国を救った鑑譜師。話題にならないほうが不自然だった。
「お嬢様、こちらの生地はいかがでしょう」
仕立て職人の老婆が、絹の見本帳を広げた。帝都イグナシオンで三代続く名門の仕立て屋。リーナは椅子に座り、次々と差し出される布地を指先で確かめた。
「白、ですわね。純白がよろしいかしら」
「お嬢様のお肌には、象牙より純白が映えますわ。銀のお髪が一層輝きます」
リーナは鑑譜眼を発動した。瞳が金色に変わる。
老婆の核紋から流れる旋律を聴いた。穏やかで、丁寧で、一つ一つの音が均等に並んでいる。長年の技術に裏打ちされた、誠実な旋律。不協和音は、ない。
「素敵なお仕事ですわね」
リーナは微笑んだ。鑑譜眼を切る。
「お任せいたします。わたくし、仕立てのことはよくわかりませんの。ただ——」
純白の絹に指を滑らせた。滑らかで冷たい感触。
「この布地で、お願いいたします」
* * *
ドレスの仕立てと並行して、招待状の手配が進んだ。
シュヴァルツベルク家の社交担当が作成した招待客リストをリーナが確認する。帝都の主要貴族、宮廷関係者、皇帝陛下への報告——形式的な手続きは山のようにあった。
リーナはそのリストに、二名を書き加えた。
「ミーリア・ローゼンクロイツ様。グリュンハイム辺境自治区。——それから、カイト・ヴェルフェルス様。カスカーラ迷宮都市」
ルシアンが執務机から顔を上げた。
「遠いな」
「遠いですわ。でも、お呼びしたいのですの」
「辺境と迷宮都市か。護衛がいる」
「招待状に添えてくださいまし。シュヴァルツベルク家の名で護衛を手配すると」
ルシアンは何も言わずにペンを取った。護衛の手配を指示する書類に署名する。碧眼が一瞬だけリーナを見て、すぐに書類に戻った。
「友人を呼ぶのは、いいことだ」
「あら。ルシアン様が素直に肯定なさるなんて」
「事実を言っただけだ」
「いつものお言葉ですわね」
リーナの唇が小さく持ち上がった。ルシアンの耳の端が、ほんの僅かだけ赤い。
* * *
ミーリアからの返事は、三日後に届いた。
封蝋に辺境自治区の紋章が押された手紙。開封すると、丸みのある柔らかい文字が便箋いっぱいに踊っていた。
「リーナさま。おめでとうございます! 必ず行きます! ルシアン様にもお会いできるのですね。フェリクスと一緒に参ります。温泉のお土産も持っていきますね。——ミーリアより」
便箋の端に小さな花の絵が描いてあった。辺境の薬草だろうか。リーナは便箋を指先で撫でた。ミーリアの声が聞こえるような、温かい手紙だった。
カイトからの返事は、さらに四日遅れた。
手紙ではなかった。
布に無造作に包まれた小包が一つ。中を開けると、拳ほどの大きさの鉱石が転がり出た。白銀色に淡く脈動している。星脈鉄だ。リーナのイヤーカフと同じ素材。
鉱石の下に、小さなメモが一枚。
「出席する。——カイト」
それだけだった。
リーナは鉱石を手に取った。星脈鉄の鉱石は純度が高く、手のひらの中で微かに振動している。冒険者としてダンジョンを探索する中で見つけたのだろう。わざわざ送ってくるあたり、祝いの品のつもりなのか。
「不器用ですわね」
リーナは鉱石をイヤーカフの隣に並べた。執務机の端に置かれた銀白色の二つが、窓から差す午後の光を受けて輝いている。
ルシアンが書類から目を上げた。
「何が届いた」
「お祝いの品ですわ。カイトさんから」
「手紙は」
「三語だけですの。『出席する。——カイト』。手紙というより、出欠の回答ですけれど」
「そういう男だろう」
「ええ。そういう方ですもの」
リーナは窓の外を見た。帝都の冬空に薄い雲が流れている。遠い辺境で温泉に浸かっているミーリアと、迷宮の奥で鉱石を掘り出しているカイト。聖域山脈で共に封印を修復した三人が、それぞれの場所に戻っている。
でも、繋がりは切れていない。
「招待状を出した全ての方の返事が揃いましたわ」
リーナは招待客リストに最後の印をつけた。
「皆様の核紋を直接聴いたわけではありませんけれど——お手紙の旋律に、嘘はなさそうですこと」
「手紙に旋律はない」
「比喩ですの、ルシアン様。たまには詩的な表現をお許しくださいまし」
ルシアンが小さく鼻を鳴らした。碧眼が書類に戻る。けれど口元が、ほんの僅かだけ緩んでいた。
* * *
リーナは鉱石に指を添えた。カイトの核紋の記憶が蘇る。荒々しくて、剥き出しで、けれど芯に温かい旋律を持っている男。言葉は少ないが、行動で示す。ルシアンと似たところがあるかもしれない。
「ルシアン様。カイトさんとルシアン様は、似ているかもしれませんの」
「どこがだ」
「不器用なところが」
ルシアンの碧眼が、不機嫌そうにリーナを睨んだ。リーナは平然と微笑んだ。
* * *
式の日取りは、春の訪れと共に決まった。
帝都の大聖堂。星神教の最高位の神官が式を執り行う。シュヴァルツベルク公爵家の当主が列席し、クレスタフェルデ伯爵家の父エーリヒが花嫁を送り出す。
リーナは、仕立て上がったドレスの最終確認のために仕立て屋を訪れた。純白の絹が、午後の光に柔らかく輝いている。銀糸の刺繍が胸元から裾にかけて流れ、まるで五線譜のように見えた。
「お嬢様。いえ——もうすぐ奥様でございますね」
老婆が目を細めた。
「試着なさいませ」
鏡の前に立ったリーナは、一瞬、息を止めた。
銀髪が純白の絹に映えている。紫の瞳が鏡の中から自分を見つめ返していた。婚約破棄された夜、大広間を去る時に映ったガラス窓の中の自分とは、別人だった。
「……まあ」
声が小さくなった。
耳が熱い。鏡の中の自分の耳が赤いのが見えた。誰に見せるわけでもないのに。
「綺麗でございますよ、お嬢様」
老婆の声に、嘘の旋律は聞こえなかった。鑑譜眼を使うまでもなく。
リーナは鏡から目を逸らした。右手がイヤーカフに触れる。銀白色の星脈鉄が、体温で温まっていた。
仕立て屋を出ると、迎えの馬車が待っていた。夕暮れの帝都を走る馬車の中で、リーナは窓の外を見つめた。
婚約破棄された日も、この街を馬車で走った。あの時は一人だった。ガラス窓に映る自分の顔だけが道連れだった。瞳の色を気味悪いと言われ、能力を恐れられ、帝都で最も惨めな令嬢として帰路についた。
今、馬車の向かいにはルシアンがいる。
碧眼が書類を追っている。帰りの馬車の中でも仕事をやめないあたり、この男らしい。
「ルシアン様」
「なんだ」
「ドレス、見にいらっしゃいませんの」
「式の日に見る」
「あら。伝統を守る方なのですね」
「面倒なだけだ」
「嘘ですわね」
ルシアンの碧眼が一瞬だけリーナを見た。書類に戻る。
リーナは小さく笑って、窓の外に目を戻した。帝都の空に一番星が光り始めていた。
明日は——式の当日だ。




