第96話 答え
最初の鑑譜の仕事を終えた翌日、リーナは帝都郊外の庭園にルシアンを連れ出した。
シュヴァルツベルク家の別邸に併設された私庭。石壁に囲まれた小さな庭園は、冬の終わりを告げる白い花が石畳の隙間から顔を出していた。噴水の水音だけが響く静かな場所で、使用人の気配はない。
冷たい風が吹き抜けた。リーナの銀髪が揺れ、外套の裾が翻る。春はまだ遠いが、空は澄んでいた。雲一つない青空に、冬の陽光が白く光っている。
「わざわざ呼び出すとは珍しいな」
ルシアンが石のベンチに腰を下ろした。碧眼がリーナを見上げている。口調は「俺」。二人きりであることを確認するまでもなく、切り替わっていた。
「用があるのですわ」
「仕事の話なら執務室でいい」
「仕事の話ではありませんの」
リーナは噴水の縁に手を置いた。冬の石は冷たい。指先に水飛沫がかかった。噴水の水面に、リーナの銀髪と空の青が映り込んでいる。白い花の香りが、水の匂いに混じって鼻先を掠める。
心臓が速い。朝からずっと速い。昨夜は眠れなかった。鑑譜眼で自分の核紋を視ることはできないが、もし視えたなら、きっと旋律が乱れているだろう。
背を向けたまま、リーナは言った。
「保留にしていたことがあると、申し上げましたわね」
ルシアンの動きが止まった。石のベンチに座ったまま、微動だにしない。
「覚えてるさ。待ちくたびれた」
低い声だった。短い台詞に、苛立ちと辛抱と、もう一つ別の感情が混じっている。
リーナは振り返った。紫の瞳がルシアンの碧眼を捉える。
「聖域山脈に発つ前の夜に、あなたが仰ったこと」
「覚えているなら繰り返す必要はない」
「いいえ。繰り返してくださいまし」
ルシアンの眉が微かに動いた。碧眼が一瞬だけ揺れる。冷血公子の仮面の下で、何かが軋む音がした。
沈黙が落ちた。噴水の水音だけが、二人の間を流れている。
ルシアンが立ち上がった。
「帰ってきたら返事を聞かせてくれ、と言った」
一歩、リーナに近づいた。
「お前は帰ってきた」
もう一歩。
「だから——返事をくれ」
リーナの目の前に、ルシアンが立っていた。長身の影が、冬の陽光を遮る。碧眼が真っ直ぐにリーナを見下ろしている。
リーナは鑑譜眼を発動した。
瞳が紫から金色に変わる。ルシアンの核紋から旋律が流れ込んでくる。
あの夜と同じだった。
完全な和音。不協和音が一つもない、澄み切った旋律。利用の意図も、計算も、駆け引きも——全て消えている。残っているのは、嘘のない純粋な一音だけ。
聖域山脈から帰還して、戦後処理に追われた日々。凱旋の式典。聖女の辞退。帝国公認鑑譜師としての初仕事。その間ずっと、ルシアンは隣にいた。何も言わずに。何も急かさずに。
それでも、彼の旋律は一秒たりとも揺らいでいなかった。
「あなたの旋律は」
リーナの声が、少しだけ震えた。
「いつ聴いても美しいですわ。嘘が一つもない」
鑑譜眼を切った。金色が紫に戻る。ルシアンの旋律が遠ざかるが、不思議と余韻は消えなかった。鑑譜眼を通さなくても聴こえる旋律。あの夜から変わらない音。
リーナは唇を噛んだ。喉の奥が熱い。泣きたいわけではないのに、目の奥が燃えるように痛んだ。
何百人もの核紋を視てきた。嘘だらけの宮廷で。不正にまみれた社交界で。けれどこの男の旋律だけは、出会った日から一度も濁らなかった。冷血だと言われ、利用者だと言われ、影だと呼ばれ。それでも核紋の奥で鳴っている音は、いつも一本の真っ直ぐな弦だった。
リーナは一度だけ、深く息を吸った。冬の庭園の冷たい空気が肺に染みた。
「わたくしの答えは」
紫の瞳がルシアンを見上げた。
「ずっと前から決まっていましたの」
声が裏返りそうになるのを、必死で堪えた。
「あの夜——あなたが面倒でもいいと仰った時から。いいえ、もっと前から。あなたの旋律に嘘がないと初めて聴いた日から、きっと」
耳が熱い。イヤーカフの下まで赤く染まっているのが、自分でもわかった。頬も。首筋も。令嬢としての品格が、端から崩れていくのがわかったが、取り繕う余裕がなかった。
「お前が面倒な女だという事実は変わらない」
ルシアンが言った。声が低い。いつもより、ほんの少しだけ掠れている。
「それでも——」
腕が伸びた。
リーナの背中に回った手が、強く引き寄せた。ルシアンの胸元に、リーナの額がぶつかった。外套の下の体温が、冬の空気を通して伝わってくる。心臓の鼓動が聴こえた。鑑譜眼なしでも聴こえる、確かな音。
「——それでもいい」
短い言葉だった。不器用で、飾り気がなくて、けれど嘘のない三語。
リーナは目を閉じた。ルシアンの外套に顔を埋めたまま、右手だけがルシアンの胸元を掴んだ。拳が震えていた。
「……面倒で、すみませんわね」
「前にも聞いた」
「前にも言いましたわ」
「謝るな。——前にもそう言った」
ルシアンの腕が、もう少しだけ強くなった。
噴水の水音が響いている。白い花の香りが風に乗って漂っている。冬の終わりの庭園は静かで、二人の呼吸だけが近かった。
リーナは目を開けた。
鑑譜眼は発動していない。紫の瞳のまま。けれど、聴こえていた。ルシアンの旋律が。自分の旋律が。二つの音が重なり合って、一つの和音になっている。
不協和音は、どこにもなかった。
* * *
どれくらいそうしていたか。
風が変わった。冬の午後の陽が傾き、庭園に長い影が落ち始めた頃、ルシアンの腕がようやく緩んだ。
リーナは一歩下がった。顔を上げた。
ルシアンの耳が、赤かった。
「ルシアン様」
「なんだ」
「あなたも、耳が赤いですわよ」
「……気のせいだ」
「鑑譜眼がなくても、嘘はわかりますの」
ルシアンが視線を逸らした。リーナは小さく笑った。こめかみの奥で、まだルシアンの和音が残響している。
「ルシアン様。一つだけ条件がありますの」
「条件?」
「結婚式にはミーリアさんとカイトさんをお呼びしたいのです。遠いですけれど」
「好きにしろ」
「ありがとうございます。あの二人の旋律を、あの場所で聴きたいのですわ」
ルシアンが鼻を鳴らした。けれど碧眼の奥に、拒絶の色はなかった。
二人は庭園の小道を並んで歩き出した。石畳の隙間から白い花が揺れている。噴水の水音が遠くなっていく。
歩きながら、ルシアンの手がリーナの手に触れた。指先だけ。それから掌が重なり、指が絡んだ。あの夜のバルコニーよりも自然に。当たり前のように。
鑑譜眼が映す二つの旋律は、もう別々の音ではなかった。一つの和音として、穏やかに溶け合っていた。




