第95話 自由な鑑譜師
帝国公認鑑譜師としての最初の依頼書は、皇帝の印が押された封筒で届いた。
リーナはクレスタフェルデ伯爵邸の書斎で封を切った。父エーリヒの書斎を借りている。窓からは伯爵邸の庭園が見え、冬枯れの薔薇棚が整然と並んでいた。
依頼書を読む。
ライデンベルク辺境伯。帝国北東部の領主。三年間にわたる大規模な脱税の疑い。帝国税務院が監査を行ったが、帳簿上の矛盾を証明できず、立件に至っていない。
「帳簿の嘘を暴いてほしい、と」
リーナは依頼書を机に置いた。
「面倒だな」
背後のソファからルシアンの声がした。長い足を組み、書類に目を通している。護衛としてリーナの傍にいるのが、この数日で日常になりつつあった。
「嘘ね。声の調子が違うもの」
ルシアンが書類から目を上げた。碧眼が据わっている。
「鑑譜眼は使っていないだろう」
「使っていないわ。ルシアンの嘘は、鑑譜眼がなくても聴こえる」
「……面倒な女だ」
「それは本心ね」
ルシアンが立ち上がった。窓辺に歩み寄り、庭園を見下ろした。
「ライデンベルクか。帝都から馬車で5日。北東の辺境だ。俺の情報網では、この男は領民から徴収した税の三割を私的に流用している。帝国への上納金は帳簿を操作して少なく見せている」
「三割。相当ね」
「帳簿は二重。表の帳簿は完璧に整えてある。税務院が三年かけても穴を見つけられなかったのは、改竄の腕が巧みだからだ」
リーナは椅子から立ち上がった。
「では、わたくしの出番。帳簿の旋律を聴けば、改竄の箇所は全て分かる」
* * *
五日後。ライデンベルク辺境伯の城館。
石造りの重厚な城館だった。帝都の華やかな建築とは異なり、実用本位の造り。しかし内装には金がかかっていた。壁の燭台は純金、廊下の絨毯はシルクの織物。脱税の証拠が、足元に敷いてあるようなものだった。
ライデンベルク辺境伯が応接間で待っていた。恰幅の良い中年の男。笑顔を浮かべているが、額に汗が浮いている。
「帝国公認鑑譜師殿、遠路はるばる。ようこそライデンベルクへ」
「ご挨拶をありがとうございます、辺境伯様。早速ですが、帳簿を拝見させていただきたく」
「もちろん。ご用意しております。何も隠すことはございませんので」
リーナの紫の瞳が光った。
鑑譜眼、発動。瞳が金色に変わる。
辺境伯の核紋から、不協和音が三つ。「隠すことはない」が最も大きな嘘。次に「用意しております」に小さな歪み——表の帳簿だけを用意し、裏の帳簿は隠してあるという意味だ。三つ目は「ようこそ」。歓迎していない。
リーナは微笑んだ。鑑譜眼を切った。
「では、お願いいたします」
* * *
帳簿は城館の一室に並べられていた。三年分の収支記録、徴税台帳、上納金の計算書。几帳面に整理されている。
リーナは椅子に座り、最初の帳簿を手に取った。
鑑譜眼を発動する。
ページを捲るたびに、旋律が聴こえた。
帳簿のインクには書き手の核紋の残響が染みついている。誠実に記帳された数字は澄んだ音を出す。しかし改竄された数字は違った。上から書き直された数字、消して書き足した数字——元の旋律と後から加えた旋律の二重奏が、不協和音として鳴り響く。
リーナは羽根ペンを手に取り、改竄箇所に印をつけ始めた。
一冊目。七箇所。
二冊目。十一箇所。
三冊目。九箇所。
四冊目に差しかかった時、ルシアンが扉の前に立っていた。腕を組み、壁にもたれている。護衛として部屋の外にいたはずだが、いつの間にか中に入っていた。
「辺境伯が落ち着かない様子で廊下を歩き回っている」
「そうでしょうね。今頃、裏の帳簿をどうするか考えているのでは」
「逃げるか?」
「逃げないわ。この城館から出る道は二つ。正門と裏門。どちらもルシアンの配置した人が見ているでしょう」
ルシアンの唇が微かに動いた。笑ったのかもしれない。
「相変わらず聴こえすぎだな」
「嘘を暴くのが仕事ですわ」
リーナは帳簿に戻った。五冊目。六箇所。
全ての帳簿を検分し終えた時、改竄箇所の総数は四十三に達していた。
* * *
辺境伯が応接間に呼び戻された。
椅子に座った辺境伯の額に、汗が流れている。リーナの前に、印をつけた帳簿が積まれていた。
「辺境伯様」
「は、はい」
「三年分の帳簿に、43箇所の改竄を確認いたしました」
辺境伯の顔色が変わった。
「そ、そんな——帳簿は正規の記帳官が——」
「記帳官の旋律と、改竄者の旋律は異なります。元の数字を書いた方は誠実に記帳していらっしゃいました。後から数字を書き換えた方は——辺境伯様ご自身ですわね」
沈黙が落ちた。
「改竄の旋律には、書き手の核紋の残響が残ります。辺境伯様の核紋と、改竄箇所の残響は一致しております」
辺境伯が椅子から腰を浮かせた。
「ま、待ってくれ。これは——事情がある。領地の運営には金がかかる。帝国の上納金が高すぎるのだ。私は領民のために——」
リーナの瞳が金色に光った。
「辺境伯様。『領民のために』の部分に、不協和音が三つほど聴こえますわ。全部申し上げましょうか」
辺境伯が口を閉じた。
「帝国への上納金を過少申告し、差額を私的に流用していた事実。領民からの徴税率を帝国の規定より高く設定し、超過分を着服していた事実。そして——城館の改装費用を帝国からの補助金で賄っていた事実」
リーナは壁の純金の燭台に目を向けた。
「あちらの燭台、帝国の補助金で購入されたものでは?」
辺境伯は何も言えなかった。
リーナは帳簿を閉じた。
「報告書は皇帝陛下に直接お送りいたします。今後の処分は帝国がお決めになるでしょう」
* * *
城館を出た時、冬の夕陽が辺境の丘陵を橙色に染めていた。
馬車に向かう道を歩きながら、ルシアンが言った。
「初仕事にしては地味だな」
「地方領主の脱税だもの。地味よ」
「もう少し派手な仕事が来ると思ったが」
「派手な嘘は、もう暴き終わった。百年分の。これからは小さな嘘を一つずつ」
ルシアンが鼻を鳴らした。
「面倒だな」
「嘘ですわね。楽しんでいるくせに」
「楽しんではいない」
「また嘘」
「鑑譜眼で視たのか」
「いいえ。ルシアンの口元が上がっているもの」
ルシアンが口元を押さえた。そして手を下ろし、碧眼でリーナを見下ろした。
「……やりにくい女だ」
「ありがとう」
馬車に乗り込む。ルシアンが先に乗り、リーナに手を差し出した。リーナはその手を取った。手袋越しに、ルシアンの手の温度が伝わった。
馬車が動き出した。冬の夕暮れの中、辺境の街道を帝都に向かって走り始める。
「次の依頼はもう来ているのか」
「ええ。南部の交易路で偽造品が流通しているらしいの。それから東部の魔導院で研究成果の盗用疑惑が」
「忙しくなるな」
「嘘を暴く仕事に、暇はないわ。この帝国は嘘だらけだもの」
リーナは馬車の窓を開けた。冬の風が銀髪を揺らした。
帝都への帰路。橙色の空の下、街道の両側に冬枯れの農地が広がっている。封印修復後、大地の亀裂は消え、畑には来春の種蒔きの準備が始まっていた。
鑑譜師としての日々は穏やかだった。百年の嘘を暴く大仕事の後の、小さな仕事。しかし小さな嘘の一つ一つが、誰かの生活を歪めている。それを正すことに、意味がないはずがない。
リーナは窓を閉じた。
ルシアンが碧眼を閉じて腕を組んでいる。眠っているのかと思ったが、リーナが視線を向けた瞬間、片目が開いた。
「何だ」
「何でもないわ」
「嘘だな」
「鑑譜眼がなくても分かるの?」
「お前の嘘は下手だと、前にも言った」
リーナは外套の裾を直した。耳が赤い。
一つだけ、保留にしていたことがある。山を降りる時から、ずっと。帝都に戻ってからも、聖女の称号を辞退してからも、初仕事を終えてからも。
まだ、答えを言っていなかった。
馬車の車輪が石畳に乗り上げ、小さく揺れた。リーナの肩がルシアンの腕に触れた。離れなかった。
冬の街道を、馬車が帝都に向かって走っていた。




