第94話 聖女の辞退
皇帝との謁見は、宮廷の奥まった小部屋で行われた。
大広間ではなく、私室に近い応接間。壁には帝国歴代の風景画が掛かり、窓からは中庭の枯れ木が見えた。格式張った場所を選ばなかったのは、皇帝なりの配慮なのだろう。
レオハルト三世が椅子に深く腰掛けていた。冷徹な瞳がリーナを見ている。侍従は下がらせてある。護衛の近衛兵が扉の外に二人。室内には皇帝とリーナの二人きりだった。
「座りなさい」
「失礼いたします」
リーナは皇帝の向かいに座った。紫の瞳が皇帝を見つめた。鑑譜眼は発動していない。皇帝の旋律を読む必要はなかった。この男の言葉には、いつも嘘が少ない。
「帝国聖女の称号について、正式な議会決議が出た」
「存じております」
「議会は満場一致でお前を推した。偽聖女の後始末は、本物の聖女がすべきだという論理だ。説得力はある」
皇帝の声に力が篭った。
「クレスタフェルデの鑑譜師よ。帝国聖女の称号を受けてほしい。これは私個人の願いではなく、帝国の総意だ」
リーナは数秒、沈黙した。
窓の外で、冬の風が枯れ木の枝を揺らした。細い枝が擦れ合う音が聞こえた。
「陛下。お気持ちは、ありがたく存じます。議会の皆様にも感謝を」
「だが、と言うのだろう」
皇帝の口元が微かに動いた。苦笑に近い表情だった。
「辞退させていただきたく存じますわ。わたくしには、聖女より似合う役目がございますの」
沈黙が落ちた。皇帝の冷徹な瞳が、リーナの紫の瞳を射抜いている。威圧ではない。理由を求める視線だった。
「聞こう」
「わたくしの鑑譜眼は、嘘を暴く力です。嘘を暴く力と聖女の称号は、相性が悪いと思うのです」
「どういう意味だ」
「聖女は帝国の象徴。宮廷に所属し、帝国の権威を体現する。しかしわたくしの鑑譜眼は、権威の裏にある嘘をも暴いてしまう。帝国に不都合な真実を聴き取ってしまった時——聖女としてそれを黙っていることは、できません」
リーナは皇帝を見た。
「黙っていたら、それは嘘になりますもの。嘘を暴く聖女が嘘をつくのは、本末転倒です」
皇帝の眉が動いた。
「宮廷に縛られれば、旋律が曇る。聖女の名の下に忖度し、権力に配慮し、暴くべき嘘を見逃すようになる。そうなれば——わたくしはもう鑑譜師ではなくなってしまう」
「では何を望む」
リーナは椅子から立ち上がった。一礼してから、顔を上げた。
「自由な鑑譜師として、帝国内を自由に調査する権限をいただきたく存じます」
皇帝の瞳が細くなった。
「帝国公認鑑譜師。宮廷に属さず、しかし帝国全土で嘘と不正を調査する権限を持つ。聖女よりも自由に動ける立場です」
「随分と大きな要求だな」
「嘘は、どこにでもございますわ。宮廷だけではございませんわ。地方領主の不正、交易商の偽装、行政の腐敗——聖女の冠を被ったまま、泥の中を歩くわけにはまいりませんでしょう」
皇帝がリーナを見つめた。長い沈黙だった。
やがて、皇帝の口元が持ち上がった。笑ったのだ。
「冠を被らず、泥の中を歩く方を選ぶか」
「泥の中にこそ、暴くべき旋律がありますの。それが鑑譜師の道ですわ」
「——お前の父に似ているな。エーリヒ・クレスタフェルデも、若い頃は宮廷の打診を全て断って領地に引きこもった男だった」
リーナの唇が微かに持ち上がった。
「父のことは存じませんでした。そうだったのですか」
「頑固な一族だ、クレスタフェルデは」
皇帝が椅子から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、枯れ木の中庭を見下ろした。
「よかろう。帝国公認鑑譜師の称号を新設する。宮廷に属さず、帝国全土での調査権限を与える。ただし——」
皇帝が振り返った。冷徹な瞳が鋭くなった。
「暴いた真実は、まず皇帝に報告せよ。公表の判断は帝国が行う。それが条件だ」
「報告はいたします。ただし——」
「ただし?」
「報告した真実を、陛下が握り潰すようであれば」
リーナの紫の瞳が、静かに光った。
「その嘘も、暴かせていただきますわ。それがわたくしの鑑譜眼ですもの」
皇帝が息を吐いた。苦笑ではなかった。感嘆に近い表情だった。
「……面倒な女だ」
その言い方が、誰かに似ていた。リーナの耳が赤くなりかけたが、こらえた。
* * *
謁見室を出ると、廊下にルシアンが立っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。碧眼がリーナを見た。
「どうだった」
周囲に侍従はいない。口調は「俺」だった。
「帝国公認鑑譜師の称号をいただきましたわ」
「聖女は断ったのか」
「ええ」
「皇帝は怒ったか」
「いいえ。『面倒な女だ』って」
ルシアンの眉がわずかに動いた。
「……俺と同じ感想か」
「まあ。ルシアンと陛下が同じ台詞を仰るなんて。光栄ね」
「皮肉か」
「本心よ」
二人は廊下を歩き始めた。宮廷の長い廊下。磨かれた石の床にリーナの靴音が響く。
「自由な鑑譜師か」
「ええ。宮廷に縛られず、帝国中を歩き回って、嘘を暴く仕事」
「護衛はどうするつもりだ」
リーナの足が止まった。ルシアンを見上げた。
「ルシアンは忙しいでしょうし」
「質問に答えろ」
「……護衛のあてはないわ」
ルシアンが立ち止まった。碧眼がリーナの紫の瞳を見下ろしている。長身が廊下の光を背にして影を作った。
「俺がやる」
「え」
「帝国公認鑑譜師の護衛。俺がやる」
「ルシアン、シュヴァルツベルク家の——」
「次男だ。家督は兄が継ぐ。俺は影の仕事をするだけだ。鑑譜師の護衛くらい、仕事のうちに入る」
リーナは口を開きかけて、閉じた。
鑑譜眼を発動しなくても、ルシアンの声に嘘がないことは分かった。
「……ありがとう」
声が小さくなった。耳が赤い。
ルシアンは何も言わず、歩き出した。リーナがその半歩後ろについた。
宮廷の長い廊下を抜け、中庭に面した回廊に出た。冬の陽光が石柱の間から差し込み、二人の影を長く伸ばしている。
リーナは歩きながら、鑑譜眼を使わずに回廊の空気を聴いた。
宮廷の空気が変わっていた。ヴァレンシュタイン家の没落以降、廊下を行き交う貴族の足取りが軽くなっている。百年にわたって宮廷を支配してきた不協和音が消えた反動だ。新しい均衡が生まれつつあった。
しかしリーナの耳は、新しい不協和音の芽も聴き取っていた。権力の空白は別の嘘を生む。ヴァレンシュタインが去った場所に座ろうとする者が、必ず現れる。
それを暴くのが、自由な鑑譜師の仕事だ。
「ルシアン」
「何だ」
「最初の仕事、いつ来るかしら」
「早ければ明日だろう。帝国中に溜まっている不正の数を考えれば——」
「忙しくなるわね」
「面倒だな」
リーナは微笑んだ。ルシアンの口調に棘がないことは、もう確認するまでもなかった。
宮廷の回廊を、二人の足音が並んで響いた。聖女の冠ではなく、鑑譜師の称号を携えて。自由な旋律を聴くために。
窓の向こうに、帝都の冬空が広がっていた。雲が切れ、午後の光が差し込んでいた。




