第100話 鑑譜師の日常
春の風が、馬車の窓を揺らした。
帝都から南へ二日。街道の両脇に広がる麦畑が、若い緑に染まり始めている。冬の間に枯れていた農地が息を吹き返し、土の匂いと草の匂いが混じった風が吹いていた。
「次の依頼先は」
向かいの席でルシアンが地図を広げていた。碧眼が街道の分岐点を追っている。
「パルゼン子爵領ですわ。領地の境界線を巡る紛争。隣の領主との間で、古い条約の解釈が食い違っているそうですの」
「条約の鑑定か」
「ええ。条約原本の旋律を聴けば、どちらの解釈が正しいか、すぐにわかりますわ」
「簡単だな」
「簡単ですわね。でも、当事者にとっては領地の存亡がかかった問題ですの。丁寧に参りましょう」
ルシアンが地図を畳んだ。馬車の揺れに合わせて、リーナの銀髪が揺れている。イヤーカフが春の光を受けて、白銀に輝いていた。
* * *
パルゼン子爵領に到着したのは、午後遅くだった。
領主の館は小さいが手入れが行き届いており、石壁に蔦が絡んでいた。子爵夫妻が門前で出迎え、深々と頭を下げた。
「帝国公認鑑譜師さま。遠路お越しいただき——」
「リーナで結構ですわ。早速、条約原本を拝見できますかしら」
書庫に通された。古い羊皮紙の束が、木箱に収められている。インクが褪せ、端が朽ちかけている。百年近い前の条約。
リーナは手袋を外し、羊皮紙に指を這わせた。
鑑譜眼を発動する。瞳が金色に変わった。
羊皮紙のインクの下から、旋律が立ち上る。古い旋律。けれど明瞭だった。条約を記した者の意図が、嘘のない和音として残っている。
三つの条項を確認した。
「子爵さま。この条約の第三条は、北の川までが境界と定めていますわ。隣の領主がご主張の山際の境界線は——条約の旋律と一致していませんの」
「つまり、こちらの主張が正しいと」
「ええ。ただし、第五条に但し書きがありますわ。河川の氾濫で川筋が変わった場合の例外規定。こちらについては——隣の領主のお言い分にも、根拠がおありのようですわね」
子爵の顔が複雑に変わった。リーナは穏やかに微笑んだ。
「白黒をつけるのではなく、双方が納得できる落としどころを探りましょう。わたくしの鑑譜眼は嘘を暴くためのものですけれど——嘘のない対話の場を作ることもできますの」
鑑譜眼を切った。瞳が紫に戻る。
子爵が顔を上げた。リーナの紫の瞳を見つめ、それから深く頭を下げた。
「あなたの目がなければ、この紛争は泥沼になるところでした」
「わたくしの目が見せるのは、旋律の本来の姿ですの。嘘を取り除けば、どなたでも同じものが見えるはず」
ルシアンが書庫の入口に立ち、腕を組んでいた。碧眼が小さく頷いた。
* * *
条約紛争の調停を終え、馬車に戻った時には日が暮れていた。
春の夕暮れは長い。橙色の空が麦畑の上に広がり、遠くの丘陵が薄紫に霞んでいた。宿場町の灯りが街道の先に見えている。
「片づいたな」
「ええ。双方とも、条約の旋律を直接聴いて——嘘のない和音だとわかれば、冷静に話し合えますわ」
「お前の仕事は、嘘を暴くことだけではなくなったな」
「そうですわね。暴くだけでは不十分ですもの。百年の嘘を暴いた後に何が残るか——それを考えるのが、今のわたくしの仕事ですわ」
馬車が宿場町に入った。
宿の食堂で夕食を取りながら、リーナは次の行き先を確認した。パルゼンからさらに南下すれば、グリュンハイム辺境自治区。そこからは東に向かえばカスカーラ迷宮都市。
「辺境視察の名目で、ミーリアさんのところに伺いますわ。温泉に入って、薬草園を見せていただいて——」
「名目はいいのか」
「視察も兼ねますわ。辺境自治区の統治に問題がないか、鑑譜眼で確認する義務がありますの」
「温泉に浸かりながらか」
「効率的ですもの」
ルシアンの口元が僅かに緩んだ。食堂の蝋燭の灯りが、碧眼に映り込んでいた。
「カスカーラにも寄るのだろう」
「ええ。カイトさんの核紋を診ますわ。あの方の体質は経過観察が必要ですもの」
「護衛は俺がやると言ったはずだ」
「覚えていますわ。離す気はありませんの」
リーナの紫の瞳がルシアンを見た。ルシアンの碧眼が少しだけ逸れた。耳の端が赤い。
「面倒だな」
「嘘ですわね」
「何度目だ、それは」
「数えていませんの。きっと、これからも何度でも」
食堂の窓から、春の夜空が見えた。
* * *
宿の二階の窓を開けた。
春の夜風が部屋に流れ込んだ。まだ少しだけ冷たいが、冬の刺すような風とは違う。柔らかい風だった。
窓の外に月が出ていた。
白い月だった。
リーナは窓枠に肘をついて、月を見上げた。聖域山脈で赤く光っていた月が、今は穏やかな白い光を落としている。封印が安定し、星脈の異常が収まった証。大地が正しい和音を取り戻した証。
イヤーカフに触れた。銀白色の星脈鉄が、月の光を受けて静かに脈動している。執務机に残してきた二つの鉱石のことを思った。辺境の少女と、迷宮の冒険者。
「面白い旋律の友人ができましたもの」
呟いた。誰に言うでもなく。
ミーリアの透明な旋律。カイトの荒々しい旋律。そして自分の、嘘を暴く旋律。三つの音は全く違うのに、聖域山脈では一つの和音を奏でた。あの和音の記憶は、鑑譜眼を切った今でも耳の奥に残っている。
扉が軽く叩かれた。
「入ってもいいか」
ルシアンの声。口調は「俺」。リーナは微笑んだ。
「どうぞ」
ルシアンが窓辺に来た。リーナの隣に立ち、月を見上げた。碧眼に白い月光が映り込んでいた。
「明日は早い」
「ええ。パルゼンの子爵が、隣の領主との対話の場を設けてくださるそうですの。立ち会ってから出発しますわ」
「忙しいな」
「忙しいですの」
沈黙が落ちた。心地よい沈黙。月の光と、春の夜風と、二人の呼吸。
リーナは月を見上げたまま、口を開いた。
「この世界に嘘がある限り、わたくしの鑑譜眼は鳴り続けますわ」
紫の瞳が、月の光を映して淡く輝いた。
「条約の嘘。商人の嘘。貴族の嘘。百年前に暴いた嘘の上に、また新しい嘘が積み上がっていく。でも——それでいいのですわ。暴くべき嘘がある限り、わたくしの居場所がありますもの」
ルシアンが何も言わずに、リーナの手を取った。窓枠の上で重なる指。結婚式の日と同じように。あの夜のバルコニーと同じように。
リーナの耳が赤くなった。何度目かわからない。きっと、何度でも赤くなるのだろう。
月が穏やかに輝いていた。赤くない、白い月。大地が正しい和音で鳴っている夜。
「さあ」
リーナはルシアンの手を握り返した。窓の向こうの夜空に目を向けた。
「次はどんな旋律が聴こえるかしら」
春の風が、二人の間を吹き抜けた。




