第92話 帝都凱旋
帝都イグナシオンの城門が見えた時、リーナは馬車の窓を開けた。
人が溢れていた。
城門から大通りにかけて、帝都の民衆が道の両側を埋め尽くしている。手に旗を持つ者、花を掲げる者、子供を肩車している父親。歓声が波のように押し寄せてきた。
「凱旋式の準備が整ったようだな」
ルシアンが馬車の中で腕を組んだまま言った。碧眼は窓の外を見ていない。
「凱旋式……。わたくし、そんな大袈裟なことは——」
「帝国の封印危機を救った遠征だ。皇帝が式を挙げないわけがない」
馬車が城門を潜った。
歓声が一気に膨れ上がった。
「英雄だ!」「封印を直した鑑譜師さまだ!」「リーナ様!」
リーナは馬車の窓から顔を出した。手を振ろうとして、やめた。代わりに小さく会釈した。それだけで歓声が倍になった。
鑑譜眼を発動する衝動を抑えた。民衆の旋律を聴く必要はない。歓声の中に嘘がないことくらい、耳で聴けばわかる。
大通りを進む馬車の列。リーナの馬車の前後を護衛の騎士が固めている。窓から見える民衆の顔は、どれも明るかった。
民衆にとって、封印の修復は理屈ではなく体感だった。足元が震えなくなった。ただそれだけのことが、帝都の日常を取り戻させた。
* * *
凱旋式は帝都中央の大広間で行われた。
皇帝レオハルト三世が玉座に着いている。五十代の精悍な顔立ち。冷徹な現実主義者と呼ばれる男だが、今日はわずかに口元が緩んでいた。
広間には貴族たちが居並んでいる。五大公爵家のうち、ヴァレンシュタイン家とエーデルシュタイン家の席は空だった。当然だ。裁判で爵位剥奪と運営権剥奪が決まった二つの家に、凱旋式に出席する資格はない。
ローゼンクロイツ家、シュヴァルツベルク家、グリフォンハート家の三家が出席している。
リーナは広間の中央に立った。
銀髪が磨き上げられた大理石の床に映っている。紫の瞳が、広間の高い天井を見上げた。あの夜、ディートリヒに婚約を破棄された場所。同じ広間。同じ大理石。同じ天井。
しかし、立っている場所が違う。
あの夜は壁際で、今日は中央だ。
「クレスタフェルデの鑑譜師、リーナ・クレスタフェルデ」
皇帝の声が広間に響いた。重厚で、よく通る声だった。
「この度の聖域山脈遠征において、大陸封印の修復を成し遂げた功績は、帝国の歴史に刻まれるべきものである」
貴族たちが息を潜めた。広間が静まり返る。
「百年前、大聖女アリーシアが命を捧げて編んだ封印。その劣化を食い止め、大陸の崩壊を防いだ。帝国はお前の力に感謝を表する」
リーナは一礼した。
そして、顔を上げた。
「陛下」
声は静かだった。しかし広間の隅々まで届いた。
「過分なお言葉、ありがたく存じます。ですが——わたくし一人の力ではありませんの」
広間がざわめいた。
「辺境グリュンハイムの聖女、ミーリア・ローゼンクロイツ。大地の癒しで封印の裂け目を塞いだ方ですわ」
貴族たちの視線が動いた。ローゼンクロイツ家の席に座る老当主が、わずかに背筋を伸ばした。
「帝国冒険者ギルドのカイト。全属性の力で封印の核を安定させた方です」
広間の壁際で、カイトが腕を組んで立っているのが見えた。招待されたが、貴族席には座らなかったらしい。ミーリアがカイトの隣で、緊張した面持ちで立っていた。
「お二人の力がなければ、わたくしの鑑譜眼だけでは封印を修復できませんでしたわ。三人の力が揃って初めて、百年の嘘を暴き、百年の封印を修復できたのです」
リーナは皇帝を見上げた。
「功績を称えていただけるのであれば、この三人に等しくお願いいたします」
沈黙が落ちた。
皇帝の冷徹な瞳がリーナを見つめている。数秒。それから、口元が動いた。
「——なるほど。クレスタフェルデの令嬢は、嘘だけでなく功績の配分も正確に聴き分けるらしい」
広間に笑いが広がった。皇帝が手を挙げ、静まらせた。
「よかろう。三人の功績を等しく帝国史に記録せよ」
拍手が起きた。最初はまばらに、やがて広間全体に広がった。
リーナは壁際のミーリアとカイトに目を向けた。ミーリアが両手で口を押さえている。泣いているのかもしれない。カイトは腕を組んだまま動かなかったが、壁にもたれる角度がほんのわずかに変わった。
ルシアンが広間の入口近くに立っていた。碧眼がリーナを見ている。表情は変わらない。しかしリーナには、その視線の温度がわかった。
* * *
凱旋式の後、宴が催された。
リーナの周囲に貴族たちが集まった。「鑑譜師殿に一度お目にかかりたかった」「封印修復の詳細をお聞かせ願えませんか」「我が家の交易契約の真贋を——」
社交の波だ。リーナはにこやかに応対しながら、一人一人の旋律を聞き流した。媚びの旋律、打算の旋律、純粋な好奇心の旋律。帝都の社交界は、相変わらず不協和音に満ちていた。
だが、不快ではなかった。
ほんの数日前まで、大陸が崩壊する瀬戸際にいた。不協和音があるということは、人が生きているということだ。嘘をつけるということは、平穏があるということだ。
「お疲れのようだな」
ルシアンが横に立った。公的な場なので口調は「私」だ。
「少し。でも、嫌ではありませんわ」
「変わったな、お前は」
「何がですの」
「以前は社交界を嫌っていた」
リーナは宴の広間を見渡した。
「嫌っていたのではありませんわ。不協和音しか聴こえなかったから、疲れていただけ。今は——嘘の中にも、本音が混じっているのが聴こえますの」
ルシアンが何か言おうとした時、ミーリアが駆け寄ってきた。
「リーナさま。わたし、帰ります。辺境が待っていますから」
「もう?」
「はい。でも——温泉の約束、忘れないでくださいね」
「忘れませんわ」
ミーリアがリーナの手を握った。小さな手だった。擦りむいた掌はまだ完全には治っていない。
「また会えますよね」
「ええ。必ず」
ミーリアが笑って、手を離した。走り去る後ろ姿を見送りながら、リーナは思った。
あの透明な旋律の持ち主が、帝都を去っていく。しかし旋律は覚えている。距離が離れても、聴いた旋律は消えない。
カイトはいつの間にか宴の会場からいなくなっていた。誰にも告げず、影のように消えるのがあの男らしかった。
英雄として称えられた日は、終わろうとしていた。
しかしリーナの耳には、まだ一つだけ聴き取るべき旋律が残っていた。




