第91話 山を降りる
白銀の光が消えた空洞は、静謐に満ちていた。
大地の裂け目は塞がり、天井から降り注いでいた星脈の光は穏やかな脈動に変わっている。百年間、悲鳴を上げ続けた封印が、ようやく安らかな和音を取り戻した。
リーナは深く息を吐いた。こめかみの鈍痛は引いていない。鑑譜眼を限界まで酷使した代償だ。しかし、もう一度だけ発動する。
瞳が金色に輝いた。
封印の旋律を聴く。穏やかな和音。不協和音は一つもない。
切った。
「行きましょうか」
ミーリアが駆け寄ってきた。頬に泥がついている。大地の癒しで地面に手をつき続けた痕だ。
「リーナさま、お怪我は」
「大丈夫よ。あなたこそ、ずっと地面に触れていたでしょう。手を見せて」
ミーリアが両手を差し出した。掌が赤く擦りむけている。リーナはそっとミーリアの手を包んだ。
「……痛くないです。全然」
「嘘ね」
ミーリアが目を丸くして、それから小さく笑った。
「鑑譜眼がなくても分かるわ。あなたの顔に書いてあるもの」
カイトが壁際から二人を見ていた。腕を組み、岩壁に背を預けている。星脈鉄の補助具が薄く光を放っていた。
「出るぞ。ここに長居する理由はない」
「ええ、そうね」
リーナが立ち上がり、空洞の出口に目を向けた。ルシアンが先に立って外の状況を確認している。護衛の騎士たちが通路の安全を確保する声が聞こえた。
* * *
聖域山脈を降りる道は、登りよりも穏やかだった。
封印が安定したことで、地表の亀裂が閉じ始めていた。星脈の漏出が収まり、冬の陽光が岩肌を温めていた。
リーナはミーリアと並んで歩いた。騎士たちが前後を固め、カイトが少し離れた位置を歩き、ルシアンがリーナの斜め後ろについている。
「リーナさま」
「なあに」
「修復が終わったら、辺境に遊びにいらしてくださいませんか」
ミーリアの声が弾んでいた。封印修復の疲労が残っているはずだが、目が輝いている。
「グリュンハイムの温泉、すごくいいんです。星脈の湧き出る場所に天然の温泉があって、肌がすべすべになるんですよ」
「温泉?」
「はい。冬は特に最高で、雪景色を見ながら入れるんです。リーナさまの銀髪、きっと雪に溶けて綺麗ですよ」
リーナの足が止まった。
「わたくし、温泉というものに入ったことがなくて」
ミーリアが目を見開いた。
「うそ」
「本当よ。伯爵家の長女だもの。浴場は個室で、湯を張った桶に——」
「それは温泉じゃないです。全然違います。お湯が地面から湧いてきて、外で、広くて、空が見えて——」
ミーリアが両手を広げて温泉の大きさを示した。擦りむいた掌が冬の光に晒された。
「ええ、必ず。約束しましょう」
「本当ですか。嬉しい」
「嘘は聴こえなかったでしょう?」
ミーリアが笑った。屈託のない笑顔だった。鑑譜眼を使わなくても、この少女に嘘がないことはわかる。透明な旋律の持ち主。
* * *
山道が少し広くなった場所で、カイトが追いついてきた。
星脈鉄の補助具を外して、手の中で弄んでいる。
「カイトさん」
「なんだ」
「あなたの核紋、封印修復の後で随分と安定したわね」
カイトの手が止まった。補助具を握り締める。
「覗くな」
「あら、今は視ていないわよ。覚えているだけ」
カイトが鼻を鳴らした。数歩歩いてから、ぼそりと言った。
「あんた、面白い奴だな」
「面白い旋律の友人ですわ」
カイトが振り返った。眉が片方だけ上がっている。
「友人、ね」
「違うかしら」
「……勝手にしろ」
カイトが前を向いて歩き出した。背中が少しだけ丸まっている。照れているのだろうかと思ったが、鑑譜眼で確認するのはやめた。野暮というものだ。
ミーリアが小走りでカイトの横に並んだ。
「カイトさんも辺境に来てくださいよ。温泉」
「行かない」
「えー」
二人のやり取りを聞きながら、リーナは微笑んだ。
* * *
山道が樹林帯に入った頃、日が傾き始めた。
ルシアンがリーナの隣に並んだ。
口調が変わる気配があった。周囲を見回す。ミーリアとカイトは十歩ほど先を歩いている。騎士たちはさらに前。
「リーナ」
一人称が「俺」に切り替わる前兆。リーナは横目でルシアンの碧眼を見た。
「俺の答え、まだか」
リーナの足が止まった。
ルシアンの碧眼がまっすぐにこちらを向いている。冷血公子の仮面はどこにもない。ただ不器用に、答えを待つ男の顔がそこにあった。
リーナは唇を持ち上げた。
「帰ってからですわ」
「山を降りたら帰ったようなものだろう」
「帝都に着いてから。そう言ったはずよ」
「言っていなかった」
「今言ったわ」
ルシアンの眉間に皺が寄った。リーナは視線を前に戻し、歩き出した。
「待たせるつもりはないの。ただ——ここで言うには、少し騒がしいでしょう?」
「どこが騒がしい。山の中だぞ」
「鳥が鳴いているわ。風も吹いているし、護衛の方々の足音も聞こえる」
「屁理屈だ」
「鑑譜師は音に敏感ですわ」
ルシアンが何か言いかけて、口を閉じた。
リーナは前を向いたまま歩いた。耳が赤い。冬の外気に晒された耳が赤いのだと、自分に言い聞かせた。
ルシアンが半歩遅れてついてくる足音が聞こえた。
「面倒な女だ」
その声に棘がないことを、リーナの耳は知っていた。
* * *
野営地が決まった。
騎士たちが焚き火を起こし、保存食を温め始めた。冬の山の夜は冷える。リーナは外套を引き寄せ、焚き火のそばに座った。
ミーリアが隣に座り、カイトが少し離れた岩の上に腰を下ろした。ルシアンは焚き火の向かい側。碧眼が炎の光を映している。
「封印が安定してから、空気が変わりましたね」
ミーリアが吐く息が白い。
「星脈の漏出が止まると、こんなに空気が澄むんですね」
「ええ。不協和音がない空気は、呼吸するだけで楽ね」
「リーナさまは、普段からずっと不協和音を聴いているんですか」
「人がいる場所では。嘘のない人間など、ほとんどいないもの」
ミーリアが少し考えてから、言った。
「それは——疲れませんか」
リーナは答えなかった。焚き火の炎を見つめた。
「明日の夕刻には、麓の街道に出られるでしょう。そこから馬車で三日。帝都が待っている」
話を逸らした。ミーリアは気づいたようだったが、追求はしなかった。
焚き火が爆ぜた。火の粉が冬の夜空に舞い上がり、星々に紛れて消えた。
リーナは外套の中でイヤーカフに触れた。銀白色の星脈鉄が、体温で温まっている。
山を降りれば、帝都がある。凱旋がある。皇帝への報告がある。
そして、一つだけ保留にしている答えがある。
リーナは焚き火の向こう側のルシアンを、ちらりと見た。碧眼と目が合った。
すぐに逸らした。
耳が、また赤くなった。




