第90話 封印修復
鑑譜眼が捉える旋律が、加速していた。
封印の核の脈動。ミーリアの癒しの波紋。カイトの六属性の流れ。三つの旋律がそれぞれ異なるリズムで動いている。
リーナはその全てを同時に聴いていた。
アリーシアの設計図が頭の中で鳴り続けている。三つの旋律が完全に重なる瞬間は、一度しか来ない。その瞬間を逃せば、封印は崩壊する。大地が裂け、星脈が暴走し、百年前の大崩落が再び起こる。
額の汗が顎から落ちた。こめかみの痛みが鋭くなっている。鑑譜眼を全開にし続けて、体の奥が軋んでいる。視界の端が暗くなりかけるのを、歯を食いしばって堪えた。
「ミーリアさん、北西の裂け目の底にまだ歪みが残っていますわ。あと三尺ほど深く。星脈の逆流が止まりきっていませんの」
「はい……!」
ミーリアの声が掠れていた。彼女も限界に近い。大地に当てた両手から溢れる光が、先ほどより微かに弱くなっている。法衣の肩が小刻みに震えている。しかし止めない。止められない。
フェリクスがミーリアの背中に手を当てた。何か声をかけている。ミーリアが首を振り、力を絞り出す。
「カイトさん、注入の速度を上げてくださいまし。核の振動数が癒しに追いつかなければ、同期は取れませんの」
「わかってる」
カイトの体から光が噴き出した。炎の赤、水の青、地の茶、風の緑、光の金、闇の紫。六つの色が渦を巻きながら封印の核に流れ込んでいく。カイトの顔が歪んだ。体内の核紋を意図的に逆流させる操作の負荷が、全身を蝕んでいる。
「ぐ……」
「カイト!」
ソフィアが叫んだ。カイトが膝を折りかける。しかし封印の核から手を離さなかった。
「大丈夫だ。まだいける」
核が応えた。脈動が変わった。暴走していた振動が、少しずつ、整った波形に近づいていく。
リーナは旋律を聴いていた。
三つの旋律が、近づいている。ミーリアの癒しが大地の歪みを正し、カイトの属性が核のエネルギーを安定化させ、その二つの変化がリーナの鑑譜眼を通じて最適な位置に導かれていく。
あと少し。
旋律の波が重なりかけている。しかしまだ完全ではない。ミーリアの波がわずかに遅く、カイトの波がわずかに強い。
「ミーリアさん、もう少しだけ速く。大地への浸透は表層ではなく星脈の本流へ直接ですわ」
「は、い——」
ミーリアが目を閉じた。両手を大地に押し当て、体全体で力を送り込む。彼女の体が発光した。白い法衣が光を透かし、その下の肌まで光っている。
「カイトさん、闇属性を抑えて。光と闇の比率を反転させてください」
「逆にするのか」
「ええ。アリーシアの設計図に沿った配分ですわ。封印の核は元々、光属性で編まれていますの。闇は安定化に必要ですが、最後の一押しは光で」
カイトが歯を食いしばった。核紋の中で六属性の均衡を意図的に崩す操作。全身の筋肉が強張り、額に血管が浮く。腕が震えている。しかし——旋律が変わった。
リーナの鑑譜眼が、その変化を捉えた。
近づいている。三つの波が、一つの点に向かって収束していく。アリーシアの設計図が示した座標に、三つの旋律が集まっていく。
ミーリアの癒しの波長が加速した。カイトの光属性が増幅された。二つの変化が、封印の核の内部で合流する。
あと少し。
あと——
リーナの鑑譜眼が、三つの旋律の完全な一致点を捉えた。
今。
「今!」
リーナの声が空洞に響き渡った。
三つの力が、同時に頂点に達した。
カイトが全属性を封印の核に叩き込んだ。六つの色が一点に集中し、融合し、白い光に変わる。彼の体から全ての光が流れ出した。核紋に蓄えた全ての属性が、一瞬で封印に注がれる。
「全部——持ってけ!」
カイトの叫びが空洞に反響した。
ミーリアの癒しが大地の全ての裂け目を同時に塞いだ。南東の亀裂が閉じた。北西の亀裂が閉じた。中央の裂け目に、光の柱が地面から天井まで駆け上がった。大地が震えた。しかし崩壊の震動ではない。修復の震動だった。
リーナの鑑譜眼が、旋律の完全な一致を聴いた。
百年間ずれ続けていた不協和音が——一つの和音に収束した。
その瞬間は、静かだった。
嵐の中心のように。全てが止まり、全てが重なり、百年前にアリーシアが編み上げた交響曲が、三人の力によって修復された。
空洞全体が、白銀の光に包まれた。
穏やかな光だった。暴走のエネルギーではなく、調和のエネルギー。封印が本来持つべきだった姿。星脈の光の粒子が、雪のように降り注いだ。白銀の光が三人の体を包み、空洞の壁面を照らし、天井の闇を払った。
裂け目が消えていた。噴き出していたエネルギーの柱が収まり、岩の破片の落下も止まっている。封印の核が穏やかに脈動し、安定した旋律を奏でていた。ひび割れは残っているが、そこから漏れる光はもう赤ではない。白銀の、柔らかい光。
リーナは、鑑譜眼を切った。
金色の光が瞳から消え、紫色に戻る。
静かだった。
生まれて初めての、静寂だった。
鑑譜眼を持って生まれてから、リーナの耳にはいつも不協和音が聴こえていた。人の嘘、契約の偽り、権力の歪み、封印の劣化。世界はいつも、どこかが狂った音で満ちていた。鑑譜眼を切っても、その残響は消えなかった。
今、この空洞には、不協和音が一つもなかった。
「静か……」
リーナの声が震えた。
「不協和音が、ないですわ。世界が——正しい和音で鳴っている」
視界が滲んだ。涙だと気づくのに、一拍かかった。頬を伝って顎から落ちる雫が、白銀の光を受けて輝いた。
膝が折れかけた。鑑譜眼の負荷と、緊張の糸が切れた反動が同時に来た。体が前に傾ぐ。
肩に、手が置かれた。
振り返らなくてもわかった。その手の温かさ。力強いが、押し付けない握り方。鑑譜眼を発動しなくても聴こえる、嘘のない旋律。
ルシアンが、黙ってリーナの肩を抱いた。
言葉はなかった。彼の碧眼が白銀の光を映して揺れていた。リーナはその胸に額を預けた。黒い外套の布地が頬に触れる。冷たいはずの外套が、彼の体温で温かかった。涙が、黒い布地に落ちて染みを作った。
ミーリアが大地の上で座り込んでいた。フェリクスが隣に膝をつき、彼女の肩を支えている。ミーリアの頬にも涙の跡があったが、唇は微かに笑っていた。
「終わった……本当に、終わったんですね」
カイトが封印の核の前で膝をついていた。ソフィアが彼の背を支え、髪を撫でている。カイトの灰色の瞳から、一筋の光が落ちた。
「泣いてねぇよ」
カイトの声は掠れていた。
「目から汗が出てるだけだ」
白銀の光が、穏やかに降り注いでいた。
封印は修復された。百年の嘘と、百年の祈りが——同時に終わった場所で。三人は、それぞれの大切な人の腕の中にいた。
リーナはルシアンの胸に額を預けたまま、目を閉じた。
アリーシアの旋律の最後の一音が、空洞の壁に吸い込まれて消えていった。百年間鳴り続けた祈りの歌が、安らぎの和音に変わって眠りにつく。
その音は、鑑譜眼を通さずとも——三人の胸に届いていた。




