第09話 帝都の闇市
帝都イグナシオンの裏路地は、表通りとは別の顔を持っていた。
石壁の隙間から滲む灯りが足元をかろうじて照らしている。煤と腐った果物の匂い。どこかで金属がぶつかる乾いた音がして、リーナは思わず足を止めた。
「止まるな」
ルシアンが低い声で言った。フードの下の碧眼がリーナを一瞬だけ見る。
二人とも質素な外套を纏っている。貴族の装いでは目立つどころか命に関わる、とルシアンは出発前に言い切った。
「この先だ。裏通りの三番目の角を曲がった突き当たりに、毎月満月の夜だけ市が立つ」
「闇市、ですわね」
「声を落とせ」
リーナは口をつぐんだ。ルシアンの口調は「俺」だった。二人きりだからだろう。しかし今夜はいつもの不器用な温かみはなく、張り詰めた弦のような緊張が声に乗っている。
リーナはフードを深く被り直した。銀色の髪が月明かりに光らないように。
角を曲がると、突き当たりの広場に人だかりが見えた。
露店が並び、布を被せた台の上に商品が雑然と置かれている。魔導具、宝石、薬瓶、剣。まともな店では扱えないものばかりだ。売り手たちの顔は布で覆われ、買い手も素性を隠すように身を縮めている。
空気が重い。酒と汗と、微かに焦げた魔力の匂いが混ざり合っている。
「ルシアン様。あの店の前に立っている男の核紋、聴いてもよろしいですか」
「やれ。だが目を光らせるな。この場で金色の瞳は目立ちすぎる」
リーナは瞳の変化を最小限に抑えるよう意識を集中した。練習の成果が試される。
* * *
最初の露店。魔導具を並べた売り手が、客に向かって口上を述べている。
「この護符は宮廷魔導院の正規品でさぁ。効力は保証済み」
リーナの瞳が微かに金色を帯びた。売り手の核紋から、甲高い不協和音が二つ。正規品ではない。効力も怪しい。
隣の露店に目を移す。宝石を並べた女が、低い声で囁いている。
「南部連合から直輸入。関税を通してないから安いのよ」
不協和音が一つ。関税を通していないのは本当だが、産地が嘘だった。南部連合ではなく、もっと近い場所。帝都の内部から流出したもの。
リーナはルシアンの腕にそっと触れた。
「三軒目の奥の露店。あそこだけ旋律が違いますわ」
ルシアンが顎で示した方向を見る。他の露店より一段暗い位置に、小さな台が置かれていた。その上には、薄い光を放つ魔導素材——結晶化した魔力の欠片が数個並んでいる。
「あの結晶、どこかで見たことがある」
ルシアンの声が硬くなった。
リーナは距離を詰め、視線を結晶に向けた。鑑譜眼がかすかに反応する。結晶そのものに嘘はないが、売り手の核紋に刻まれた不協和音は複雑だった。三つの音が絡み合い、出所を隠している。
その中に、一つだけ聴き覚えのある旋律が混じっていた。
エーデルシュタイン家の魔導院。フローラの家が運営する研究機関。
「ルシアン様」
リーナは声を抑えて囁いた。
「この結晶、エーデルシュタイン家の魔導院から流出した素材ですわ。売り手の旋律にその痕跡が聴こえます」
ルシアンの碧眼が鋭くなった。結晶を一つ手に取り、裏面を確認する。
「刻印が削られている。だが痕跡が残っている。魔導院の管理番号だ」
「つまり、正規のルートではなく」
「横流しだな。魔導院の誰かが素材を持ち出し、闇市に流している」
* * *
そのとき、露店の売り手がこちらを見た。
布の隙間から覗く目が、リーナの瞳の微かな金色を捉えた。
「——おい。あの女、目が光ってるぞ」
声は小さかったが、隣の露店の男にも届いた。二人の視線がリーナに向けられる。
「まずい。行くぞ」
ルシアンがリーナの手を掴んだ。革手袋越しでも、その握力の強さが伝わる。
「走れ。足元に気をつけろ」
裏路地を駆けた。石畳が濡れていて何度も滑りそうになる。背後から足音が複数聴こえた。追手だ。
リーナの靴が水溜まりを蹴った。冷たい飛沫が足首にかかる。ルシアンの手だけが確かな道標だった。
路地が入り組んでいる。壁に挟まれた狭い通路を、ルシアンは迷いなく進んでいく。この裏路地の構造を、彼は頭に入れてある。「影」の仕事で培った知識が、今リーナを守っている。
「こっちだ」
ルシアンが脇道に身を滑り込ませた。リーナの手を引いたまま、壁と壁の隙間に体を押し込む。
追手の足音が近づいてくる。
ルシアンが片手を上げた。その瞬間——彼の足元から、影が這い出した。
夜の闇とは違う、もっと濃密な黒。影が壁を伝い、天井を覆い、路地全体を漆黒で塗りつぶしていく。
追手の男たちが立ち止まった。
「なんだ、何も見えねえ!」
「松明を! 松明を持ってこい!」
叫び声が反響するが、影はさらに深くなる。松明の炎すら呑み込むような闇だった。
追手たちの足音が遠ざかっていく。方向を見失ったのだ。
影が静かに収束していった。路地に再び月明かりが戻る。
ルシアンの呼吸が荒い。額に汗が浮かんでいる。闇属性の行使は、彼にとっても軽い技ではないのだ。
「……行った」
ルシアンはリーナの手を離さなかった。壁と壁の隙間は狭く、二人の肩が触れている。
「今のが、あなたの」
「闇属性だ」
短く答えた。碧眼がリーナを見据える。
「禁忌と呼ばれる力だ。気味が悪いだろう」
リーナは息を整えながら、ルシアンの核紋に耳を傾けた。鑑譜眼を意識的に発動する必要すらなかった。彼の旋律が、すぐそばで鳴っている。
闇属性の低い音。重く、深い。だが不協和音ではなかった。むしろ、澄んでいる。暗い夜空を流れる星の旋律のように、静かで、まっすぐだった。
「いいえ」
リーナは首を横に振った。
「あなたの旋律は、闇の中でこそ美しいですわ」
ルシアンの碧眼が、一瞬だけ揺れた。何か言いかけて、口を閉じる。
壁の隙間から、遠くの月明かりがリーナの銀髪を照らしていた。
リーナの耳が、微かに熱い。
ルシアンがようやくリーナの手を離した。手袋の内側に、彼の体温が残っている。
「……戻るぞ。今夜はここまでだ」
その声は低く、ぶっきらぼうだったが、先ほどまでの張り詰めた弦の音は消えていた。
二人は裏路地を抜け、表通りに戻った。月が中天にかかっている。喧騒は遠く、夜風だけが通りを渡っていた。
「ルシアン様。エーデルシュタイン家の魔導素材が闇市に流れている。これは偶然ではありませんわね」
「ああ。魔導院の管理番号まで削っている。組織的な横流しだ」
「フローラの家が関わっているなら」
リーナは月を見上げた。紫の瞳に銀色の光が映っている。
「明日の社交界復帰は、ちょうどいい舞台ですわね」




