第08話 フローラの仮面
朝の光が、クレスタフェルデ伯爵邸の書斎に差し込んでいた。
リーナは紅茶を一口含み、卓上に広げられた手紙に目を落とした。差出人はルシアンの部下、カティアだった。走り書きの筆跡は急いで認めたことを示していたが、内容は整然としている。さすがは情報収集を生業とする者の報告だった。
「フローラ・エーデルシュタインが、帝都の社交サロンでわたしの悪評を流していると」
手紙の内容を、声に出して確認する。
『あの方は婚約者の前で不気味な目を使っていた』
『伯爵家の恥さらし』
『婚約破棄されて当然の女』
リーナの指先が、紅茶の取っ手の上で止まった。怒りではなかった。何かを計算するように、紫の瞳が細められる。
婚約破棄の直後から、こういった中傷が出てくることは予測していた。むしろ、半月も間が空いた方が意外だった。フローラの性格を考えれば、ディートリヒとの婚約が決まった瞬間から手を打っていてもおかしくない。
「予想通りですわね」
呟いて、手紙を丁寧に折り畳んだ。
窓の外で庭師が薔薇の枝を刈り込んでいる。規則正しい鋏の音が、朝の静寂に刻まれていく。
午後にルシアンが訪れる予定だった。それまでに、聞いておくべきことを整理しておく必要がある。
リーナは白紙の手帳を開き、フローラについて知っていることを書き出し始めた。エーデルシュタイン公爵家の長女。魔導院卒。光属性の研究者を自称。社交界では華やかな振る舞いで知られるが、実質的な成果の裏付けを聞いたことがない。
ペンが止まった。知っていることが、驚くほど少ない。
* * *
「フローラの中傷は、半月ほど前から始まっている」
応接間で、ルシアンは茶菓子には手をつけず、書類の束を卓上に置いた。公的な場ではないが、使用人が控えているため口調は硬い。
「帝都の社交サロン三箇所で確認した。フローラ本人が出席した場で、リーナの話題を持ち出し、複数の令嬢に同調を求めている」
「内容は?」
「鑑譜眼が呪いの目であるという主張。それから、伯爵家の格にふさわしくない行いをしているという中傷。後者はシュヴァルツベルク家の仕事を請けていることを指しているようだ」
リーナは紅茶を口に運んだ。カップの縁に唇が触れる。温かい液体が喉を通り、胸の内側で小さく広がった。
「フローラ様は、わたしの仕事の内容まではご存じないはずですわ。つまり、誰かから情報が漏れているということですわね」
「調査中だ。ヴァレンシュタイン家の情報網が動いている可能性が高い」
ルシアンの碧眼が、リーナをまっすぐに見た。冷淡な表情だが、その奥に微かな怒りの色がある。自分の情報網に穴が開いたことへの苛立ちか、あるいはリーナが中傷されていることへの反応か。
リーナは鑑譜眼を使わなかった。今はまだ、聴かなくていい。
「もう一つ、気になる情報がある」
「ええ」
「フローラが魔導院で発表した研究論文。光属性の制御に関する新手法だが、魔導院内部で盗用の噂が出ている」
リーナの指が止まった。
「盗用?」
「元の研究者はエーデルシュタイン公爵家の資金で研究を続けていた学者だ。論文の内容がフローラの発表と酷似しているが、発表時期はフローラの方が早い。学者は抗議したが、公爵家の圧力で沈黙させられたと」
「……それは」
「裏は取れていない。だが、フローラが社交界で自慢している学術的成果が虚飾であれば、お前の鑑譜眼で確認できるな」
リーナは紅茶のカップを卓上に戻した。磁器が微かに音を立てる。
「直接お会いする機会があれば、ですわ。手紙や伝聞では鑑譜眼は使えませんもの」
「次の宮廷サロンは二週間後だ。フローラは必ず出席する」
「では、その時に」
リーナは穏やかに微笑んだ。けれど紫の瞳の奥には、静かな光が宿っている。
ルシアンは頷き、書類の束を指で叩いた。
「一つ忠告しておく。フローラを追い詰めるなら、相応の覚悟がいる。エーデルシュタイン公爵家は魔導院を支配している。学術的な嘘を暴くということは、公爵家の権威そのものに挑むということだ」
「承知しておりますわ」
リーナの声は柔らかかったが、揺らぎはなかった。
* * *
——同日、帝都イグナシオン。ヴァレンシュタイン公爵邸。
フローラは居間の長椅子に腰かけ、ディートリヒに向かって話し続けていた。
「先日のサロンでも申しましたけれど、わたくし、リーナ様のような粗野な方とは違いますの。エーデルシュタイン家の教育を受けた者として、学問にも社交にも恥ずかしくない成果を出しておりますわ」
ディートリヒは執務机の書類に目を落としたまま、生返事を返した。
「ああ」
「それにリーナ様の鑑譜眼とやら、あのような不気味な能力、まともな貴族なら恥じて隠すものですわ。それをシュヴァルツベルク家に売り込むなど、品位の欠片もございません」
フローラの声は甲高く、大げさな抑揚がついていた。唇は笑みの形を作っているが、目は笑っていない。指先がドレスの裾を弄んでいる。落ち着きのない仕草だった。
ディートリヒはペンを置いた。
「フローラ」
「はい?」
「……いや、何でもない」
言いかけて、飲み込んだ。胸の奥で何かが引っかかっている。フローラの言葉は華やかだが、中身がない。学問の話をしても具体性がなく、社交の話をしても誰かの悪口に帰着する。
あの伯爵令嬢は違った。言葉は少なかったが、一つ一つに根拠があった。「三箇所の不協和音」と言えば、本当に三箇所あった。
ディートリヒの指が、無意識にペンを握り直していた。
「ディートリヒ様、お聞きになっていらして?」
「聞いている」
フローラが満足げに頷き、再びサロンでの話に戻った。ディートリヒの視線は書類の文字を追っていたが、一文字も読めていなかった。
* * *
夜。
リーナは書斎の机に向かい、手帳に筆を走らせていた。
フローラ・エーデルシュタインに関する情報を時系列で整理する。
一、社交サロン三箇所での中傷活動。半月前から継続中。
二、魔導院の研究論文に盗用の疑い。元の研究者はエーデルシュタイン公爵家の圧力で沈黙。
三、先日の夜会でディートリヒに自慢していた学術成績。ルシアンの情報と照合すると、少なくとも一つは誇張が含まれている可能性がある。
リーナはペンを置き、椅子の背にもたれた。窓の向こうで、風が木々の枝を揺らしている。
フローラは中傷の矛先をリーナに向けている。だが、リーナが本当に気にしているのはそこではなかった。
婚約破棄の夜、大広間でフローラの姿を見かけた。鑑譜眼はまだ覚醒したばかりで、細かく聴き取る余裕はなかった。だが一つだけ覚えている。表面はきらびやかな音色なのに、その下に空洞のような静寂が広がっていたこと。
あれは何だったのか。
旋律の表面が華やかで中身が空洞。それは虚飾の音色だ。嘘で塗り固めた外壁の内側に、何もない。あるいは、何かを隠している。
オルテガ子爵の絵画鑑定で掴んだ感覚が、ここでも使えるかもしれない。伝聞の中の嘘を聴き取る技術。フローラの学術的な主張を、第三者の口から引用させれば、元の嘘が見えてくる可能性がある。
だが、最も確実なのは直接対面することだ。
リーナは冷めた紅茶を飲み干し、手帳の最後のページを開いた。帝都の夜空に星が瞬いている。
「フローラ・エーデルシュタイン」
声に出して、名前を呼んだ。
「あの方の旋律、表面はきらびやかですのに、中身がまるで空洞ですわ」
紫の瞳が、星の光を映して揺れた。
「次の社交会で、少しだけ中を覗かせていただきましょうか」
手帳に一行だけ書き足した。
二週間後。宮廷サロン。
ペンを置いた指先に、力が籠もっていた。




