第07話 二つ目の依頼
帝都の北区。石造りの邸宅が並ぶ高級住宅街を、馬車が静かに進んでいた。
リーナは窓から外を眺めた。通りに面した邸宅はどれも手入れが行き届き、庭の薔薇が晩秋の冷気の中で最後の花弁を広げている。交易区の喧騒とは別の世界だった。
「今回の依頼人はオルテガ子爵。美術品の収集で知られる人物だ」
向かいの席で、ルシアンが書類に目を落としたまま言った。公的な口調。馬車にはカティアも同乗している。
「先月、子爵がオークションで落札した絵画がある。フィオーレ王国の巨匠ラファエロ・ヴェルディの真作とされているが、出品者の素性が不透明だ。真贋を確かめてほしいと依頼が来た」
「絵画の鑑定ですの? わたし、美術の知識はございませんわ」
「知識は要らない。お前の耳があればいい」
ルシアンの碧眼が、一瞬だけリーナを見た。冷淡な表情の下に、信頼とも確信ともつかない何かが覗いている。
リーナは小さく頷いた。
* * *
オルテガ子爵邸の応接間は、壁一面が絵画で埋め尽くされていた。
風景画、肖像画、宗教画。額縁はどれも金箔が施され、部屋全体が小さな美術館のようだった。
オルテガ子爵は五十代の痩せた男で、指先が常に落ち着きなく動いている。
「シュヴァルツベルク様、ようこそお越しくださいました。こちらの方が、噂の——」
「鑑定士のリーナだ」
ルシアンの紹介は素っ気なかった。オルテガ子爵の視線がリーナの紫の瞳に留まり、好奇心とも警戒ともつかない色が浮かんだ。
「では、早速ですが、こちらがその絵画でございます」
子爵が奥の部屋に案内した。壁にかけられた一枚の油彩画。夕焼けの港町を描いた風景画で、帆船の影が金色の水面に長く伸びている。
確かに美しい絵だった。だがリーナには、この絵が真作かどうかを判断する術がない。
「リーナ。見方はお前に任せる」
ルシアンの声が低く響いた。リーナは絵画の前に立ち、少し考えた。
——絵画そのものを視ても、嘘か本当かはわからない。物には核紋がない。
だが、人には核紋がある。
「オルテガ様」
リーナは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「この絵画を落札された経緯を、お聞かせ願えますか? 出品者との出会いから、競り落とすまでの全てを」
「もちろんです。あれは先月のことで——」
オルテガ子爵が語り始めた。
リーナの瞳が、紫から金色に変わった。
子爵の核紋を視る。語られる言葉の一つ一つに、旋律が重なっていく。
——この方は嘘をついていない。絵画を真作だと信じて買っている。
問題はそこではなかった。
「出品者はマルセイド公国の画商で、ヴェルディの遺族から直接譲り受けたと仰っておりました」
その一言に、リーナの耳が反応した。
子爵自身の旋律は清浄だった。だが、子爵が出品者の言葉を引用した瞬間——「遺族から直接」という部分に、微かな不協和音が重なった。子爵が記憶している出品者の声。その声に刻まれた嘘の痕跡が、子爵の核紋を経由してリーナの耳に届いていた。
——伝聞の中の嘘を聴き取れる。これは新しい。
リーナは表情を変えず、さらに問いかけた。
「その画商の方は、他にどのような来歴を?」
「ええ、マルセイド公国のヴェルディ美術協会の認定鑑定書もお持ちでした。わたくしも確認いたしましたが、印章も署名も正規のものでしたよ」
二つ目の不協和音。今度はより鋭い。金属的で、意図的な隠蔽を示す音色だった。
認定鑑定書。印章と署名は本物でも、鑑定の過程が偽装されている。リーナにはそれが聴こえた。
「リーナ」
ルシアンの声に、微かな問いかけの色がある。リーナは小さく頷いた。
「オルテガ様」
リーナは瞳の金色を消し、穏やかな声で言った。
「絵画の真贋については、わたしの専門外ですので断言はいたしかねます。ですが——出品者の方がおっしゃった入手経路に、二つほど気になる点がございましたの」
子爵の顔が強張った。
「『遺族から直接譲り受けた』という一つ目。そして『認定鑑定書は正規の手続きで発行された』という二つ目。どちらも、出品者の方が事実と異なることを承知の上でおっしゃっていた可能性がございますわ」
「な——それはつまり」
「入手経路が偽られている以上、絵画そのものの出所も疑わしいということですわ。盗品の転売を隠すために、来歴を偽装するのは珍しいことではありませんの」
子爵は椅子に崩れるように座り込んだ。額に手を当て、長い沈黙の後に絞り出すように言った。
「……金貨三千枚。あの絵に、金貨三千枚を……」
「マルセイド公国のヴェルディ美術協会に照会なされば、真偽が確認できるかと存じます。お早めに動かれた方がよろしいですわ」
リーナの声は淡々としていたが、視線には同情が滲んでいた。子爵は被害者だ。怒りの矛先を向けるべきは、出品者の画商の方だった。
* * *
帰り道は、行きよりも日が傾いていた。
馬車の中で、カティアが御者台に移ったのを確認すると、ルシアンの口調が変わった。
「伝聞の中の嘘を聴き取った。あれは新しい芸当だな」
「わたしも驚きましたの。出品者の嘘が子爵の記憶を経由して聴こえるとは思いませんでしたわ」
「つまり、お前の前で誰かの言葉を引用すれば、元の発言者が嘘をついていたかどうかもわかると」
「……おそらくは。ただ、子爵の記憶が正確であることが前提ですわ。曖昧な記憶では旋律も曖昧になりますもの」
ルシアンは腕を組み、窓の外を見た。馬車が角を曲がったところで、冷たい風が隙間から吹き込んできた。
リーナの肩が小さく震えた。
次の瞬間、重い布が肩にかけられた。ルシアンの外套だった。温もりとかすかな木の香りが包み込む。
「風が出てきた。体が弱いくせに無茶をする」
「無茶などしておりませんわ。少し寒かっただけですの」
「それを無茶と言う」
リーナは反論しかけて、やめた。ルシアンの声には棘がなかった。五話の帰りの馬車のときと同じ、ぶっきらぼうだが温かい音色。
外套の重みが、思いのほか心地よかった。リーナは襟元を軽く引き寄せた。
馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、しばらく続いた。
「……ルシアン様」
「なんだ」
「ルシアン様の旋律が、少しだけ変わった気がしますの」
ルシアンの碧眼が、リーナの方を向いた。
「以前は静かな短調ばかりでしたのに、今は——ほんの微かに、長調の音が混じって」
リーナの耳が赤い。けれど瞳はまっすぐにルシアンを見ていた。
ルシアンは一瞬だけ目を逸らし、窓の外に視線を戻した。
「……気のせいだ」
その声に不協和音はなかった。リーナの耳には、はっきりと聴こえている。
嘘だ。
だが、それを指摘するのは野暮というものだった。リーナは外套の中で小さく唇を持ち上げ、赤い耳を隠すように襟を立てた。




