第06話 社交界の風
帝都イグナシオンの夜は、灯火に満ちていた。
ヴァレンシュタイン公爵邸の大広間には、数百の蝋燭が天井のシャンデリアを照らし、磨き上げられた大理石の床に光の波紋を落としている。
楽団が奏でる弦の旋律が空気を震わせ、貴族たちの笑い声と囁きがその上に重なった。
ディートリヒ・ヴァレンシュタインは、広間の中央で酒杯を傾けていた。
金髪が蝋燭の光を受けて輝く。帝国騎士団の礼装に身を包んだ姿は、絵画のように隙がない。周囲の令嬢たちが視線を送っているのに気づいてはいたが、今夜はそれに応える余裕がなかった。
「ディートリヒ様、ご覧くださいませ。こちらの宝石、マルセイド公国の研磨師に特注いたしましたの」
傍らのフローラ・エーデルシュタインが、首元のペンダントを指先で持ち上げた。甲高い声が大広間に響く。
深紅のドレスに琥珀の髪。華やかさだけなら、この夜会の誰にも負けていない。
「ああ。綺麗だな」
ディートリヒの返答は短かった。視線はペンダントに向けたが、すぐに広間の奥へ戻る。
「魔導院での研究も順調ですのよ。先日の学術発表会では、わたくしの論文が最優秀に選ばれましたわ。エーデルシュタインの名に恥じない成果ですの」
フローラの唇が得意げに弧を描いた。ディートリヒは頷いたが、胸の奥で何かが軋んだ。
論文が最優秀。それは結構なことだ。
だが、それが今の問題を解決するわけではない。
三日前の交易商との契約。ディートリヒは自ら目を通し、問題がないと判断した。にもかかわらず、今朝になって数量の齟齬が発覚した。
帳簿上の数字と実際の納品数が合わない。差額は金貨にして二百枚。ヴァレンシュタイン家の規模からすれば些細な額だが、見抜けなかったという事実が喉に刺さった棘のように消えない。
「ディートリヒ様? お聞きになっていらして?」
「聞いている」
フローラの眉が僅かに寄った。しかしすぐに笑みを取り繕い、近くの令嬢たちに向き直った。
「ねえ、わたくしの魔導院の成績をご存じ? 光属性の制御試験で学年首席でしたのよ。教授方にも『エーデルシュタインの名に恥じぬ才覚だ』と褒めていただきましたの」
令嬢たちが感嘆の声を上げる。フローラはそれを浴びるように背筋を伸ばし、ペンダントを弄ぶ指先に力を入れた。
ディートリヒは酒杯の縁を親指で撫でた。爪の先が白くなるほど力が入っていることに、自分では気づかなかった。
フローラの自慢は続いている。魔導院の成績。宮廷でのコネクション。エーデルシュタイン家の威光。どれもこれも耳障りのよい言葉の連続だが、ディートリヒの頭にはまったく入ってこない。
代わりに浮かんでくるのは、三日前の契約書の文面だった。産地表記の微妙な矛盾。輸送費の計算式に潜む二重計上。
あの女がいれば、一目で見抜いていた。
ディートリヒは奥歯を噛み締め、酒を一息に煽った。
「あら、ディートリヒ様。お酒の進みが早いですわね」
フローラが心配そうに眉を下げた。だがその視線は、ディートリヒではなく広間の向こう側を確認するように泳いでいた。誰が見ているかを気にしている。
「——問題ない」
空になった酒杯を給仕に渡し、ディートリヒは広間を横切った。壁際に立つ外務官僚のヘルツォーク男爵を見かけたからだ。先月の条約交渉で世話になった相手だった。
「ヴァレンシュタイン公子。今夜もお美しいお連れ様で」
「ヘルツォーク卿。先月の件で一つ確認したいことがある」
ディートリヒが声を低くした。ヘルツォーク男爵の笑みが、ほんの一拍だけ固まる。
「東部街道の通行許可証の件だ。ベルガーという交易商が、ヴァレンシュタインの名を借りて不正な許可を取得していた疑いがある」
「ベルガーですか。ええ、存じております。あの男は確か——」
「私が問いたいのは、なぜその情報が事前に上がってこなかったかということだ」
ヘルツォーク男爵は酒杯で唇を濡らし、慎重に言葉を選んだ。
「ヴァレンシュタイン公子。ベルガーの取引は長年にわたり貴家の帳簿に組み込まれておりました。不正を疑う根拠が——」
「根拠がないから見逃した、と?」
「……そう申し上げているのではなく」
ディートリヒの瞳が鋭く光った。ヘルツォーク男爵は一歩後ずさり、視線を逸らした。
「調査を進めます。来週までには報告を」
「三日以内にしろ」
男爵が去った後、ディートリヒは壁にもたれかかった。こめかみが脈打っている。
根拠がないから見逃した。その言葉が胃の底に溜まっていく。以前なら、根拠は彼女の目が提供してくれた。あの金色の瞳が契約書を一目見れば、「三箇所ほど不協和音がございますわ」と涼しい顔で教えてくれた。
それを「気味が悪い」と切り捨てたのは、自分だ。
「ディートリヒ様、お探ししましたわ」
フローラが寄ってきた。令嬢たちを引き連れている。
「そろそろ踊りのお時間ですわ。わたくしと最初の一曲を——」
「……ああ」
フローラの手を取る。その指は柔らかかったが、握り返す力が入らなかった。
* * *
夜会が終わり、客人たちが去った大広間に、足音が一つだけ残った。
ディートリヒの執務室。壁一面の書棚に法典と条約書が並び、机の上には未処理の書類が積まれている。
彼は椅子に腰を下ろし、今朝の報告書を開いた。
交易商ベルガーの契約書。三箇所に不備があった。
一つ目は産地の虚偽表記。二つ目は輸送費の二重計上。三つ目は支払い期日の曖昧な記述。いずれも、注意深く読めば気づけるはずのものだった。
「なぜ見抜けなかった」
部下のグスタフが報告に来たとき、ディートリヒは机を拳で叩いた。
「申し訳ございません。ベルガーの契約は以前から問題がなく」
「問題がないと判断したのは誰だ。私か、お前か」
「……それは」
「下がれ」
グスタフが退室した後、ディートリヒは椅子の背にもたれた。天井を見上げる。蝋燭の炎が揺れている。
以前は、こんなことは起きなかった。
契約書が届くたびに、隣の部屋であの伯爵令嬢が目を通していた。紫の瞳が金色に変わり、「ディートリヒ様、三箇所ほど不協和音がございますわ」と涼しい顔で言う。
そのたびに苛立った。自分より先に不正を見つけるあの目が、自分の無能を突きつけているようで。
だから婚約を破棄した。あの気味の悪い目から解放されるために。
解放されたはずだ。
ディートリヒの拳が、机の上で握り締められた。指の関節が白い。
社交界では噂が広がっている。「ヴァレンシュタインの婚約者を捨てた伯爵令嬢」。好奇と侮蔑の視線。だがそれは計算通りだった。あの女が社交界で居場所を失えば、鑑譜眼の脅威も消える。
そのはずだった。
なのに今朝、ある噂を耳にした。シュヴァルツベルク家の次男が、婚約破棄された伯爵令嬢を雇い入れたと。「冷血公子」が、あの女の目を手に入れた。
ディートリヒの奥歯が鳴った。
シュヴァルツベルクは財務の要。帝国の交易路を掌握する一族だ。その次男があの能力を使いこなすなら、ヴァレンシュタイン家は取引のたびに裏を取られることになる。
切り捨てた駒が、敵の手に渡った。
ディートリヒは机の引き出しを開け、中から一枚の書類を取り出した。先月の交易記録の写しだった。余白に、丸みを帯びた筆跡で「第五条に不整合あり」と書き込みがある。
あの伯爵令嬢の字だった。婚約時代に、彼女が確認した契約書の一枚が紛れ込んでいた。
ディートリヒは書類を引き出しに戻し、引き出しを閉めた。音が、静かな執務室に響いた。
「あの女の目があれば」
言いかけて、唇を噛んだ。
「いや、あんな気味の悪い目はもう要らない」
声が執務室の壁に反響した。蝋燭の炎が揺れ、影が歪む。
「……要らないはずだ」
机の上の報告書が、ディートリヒの拳の下で皺くちゃになっていた。




