第05話 最初の仕事
帝都イグナシオンの交易区は、朝から喧騒に満ちていた。
荷馬車が石畳を軋ませ、商人たちの怒鳴り声が飛び交う。香辛料と皮革と潮の匂いが入り混じり、宮廷とはまるで別の世界だった。
リーナは馬車の窓から通りを眺めた。伯爵邸の外に出るのは、婚約破棄の夜以来だった。
「あの建物だ」
カティアが窓の外を示した。中央通りに面した二階建ての商館。石造りの重厚な外壁に、金文字の看板が掲げられている。
馬車が止まった。先に降りたカティアが周囲を確認し、リーナに手を差し伸べる。
「シュヴァルツベルク様は、中で待っておられる」
商館の扉を開けると、帳簿とインクの匂いが鼻を突いた。数人が怪訝そうな視線を向けた。
奥の応接室へ通される。
ルシアンは窓際の椅子に腰かけていた。黒髪に深い碧眼。相変わらず温度を感じさせない顔だった。
カティアが扉の脇に立ち、壁に背を預けた。護衛の定位置だ。
「遅いな」
「約束の時刻ちょうどですわ。ルシアン様が早すぎるのでは?」
ルシアンの眉がかすかに動いた。反論はしない。
間もなく、扉の向こうから足音が近づいてきた。重い足取り。息が上がっている。
「お待たせいたしました、シュヴァルツベルク様」
ヘルマンは太った中年の商人だった。丸い頬に汗が浮き、口元には慇懃な笑みが貼りついている。小さな目がリーナを値踏みするように見つめた。
「こちらのお嬢様は?」
「私の鑑定士だ」
ルシアンの返答は短かった。ヘルマンの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
「これはこれは……では、契約書をお持ちしましょう」
ヘルマンが書記官に指示を出し、羊皮紙の束が卓上に広げられた。
リーナは椅子に座り、手袋を外した。指先が冷えている。
「では、拝見しますわね」
* * *
羊皮紙に指を這わせた。
瞳が紫から金色に変わる。インクの下から、微かな音が立ち上った。
第一条。問題ない。澄んだ音色が流れている。
第二条。これも清浄。
第三条に指が触れた瞬間、鋭い不協和音が鳴った。
リーナは表情を変えず、指を動かし続けた。第四条、第五条——清浄。第六条で二つ目の不協和音。甲高く、金属的な響き。意図的な隠蔽の音だった。
第七条。三つ目。
ここまでは、ルシアンの事前調査と一致する。産地偽装、数量詐称、二重帳簿。
だが、リーナの指はまだ止まらなかった。
第九条の末尾、小さな文字で追記された但し書き。ここに四つ目の不協和音が潜んでいた。音量は小さいが、音質は鋭い。巧妙に隠された条項——契約更新時に手数料が自動加算される仕組みだった。
そして、最後の一頁。
署名欄の直上。リーナの指先が震えた。
五つ目の不協和音が、低く、重く響いた。他の四つとは異なる音色。帳簿の裏に、もう一つの帳簿が存在することを示す痕跡だった。
リーナは指を離し、瞳を伏せた。
「……五つ」
小さく呟いた。
ヘルマンの顔が強張った。
* * *
「ヘルマン様」
リーナは契約書から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「第三条の産地表記。マルセイド産と記されていますが、実際には東部の安価な産地からの仕入れですわね」
「な——何をおっしゃいます。マルセイド産に間違いございません」
ヘルマンの核紋から、金属的な不協和音が鳴り響いた。リーナには、はっきり聴こえている。
「第六条の数量。帳簿上は百箱ですが、実際の納品は八十箱。差額の二十箱分はどちらへ?」
「そ、それは輸送中の破損が——」
「第七条。二重帳簿の存在。そして第九条但し書きの隠し手数料。最後に、署名欄直上の条項——裏帳簿への参照ですわ」
リーナは指を一本ずつ折りながら、淡々と述べた。
「5箇所の不正。ルシアン様が疑っていらしたのは3箇所でしたけれど、もう2箇所、聴こえてしまいましたの」
ヘルマンの顔から笑みが消えた。額の汗が顎を伝い、卓上に落ちた。
「……お嬢様、これは何かの誤解です。長年シュヴァルツベルク家とはお取引させていただいて——」
「あら」
リーナの瞳が、再び金色に光った。ヘルマンの弁明に重なる不協和音を、一つ一つ数える。
「弁明にも嘘が三つほど。全部言いましょうか?」
ヘルマンの口が開いたまま止まった。
唇が震えている。言葉を探しているが、見つからない。リーナの金色の瞳が、まっすぐにヘルマンを見据えていた。
沈黙が、応接室を満たした。
やがて、ヘルマンは椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……申し開きの言葉も、ございません」
リーナは瞳の色を元に戻し、手袋をはめ直した。指先が微かに痺れている。鑑譜眼の長時間使用による負荷だった。だが、顔には出さない。
ルシアンが立ち上がった。その顔には、驚きとも感心ともつかない表情が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
「ヘルマン。不正分の返還と、契約条件の全面改定だ。三日以内に修正案を出せ。できなければ、取引を打ち切る」
「は、はい……」
ヘルマンが深く頭を下げた。先ほどまでの慇懃な笑みは跡形もなく消えている。
リーナはその核紋を視た。今度は嘘の音がしなかった。観念した人間の旋律は、静かで、少しだけ濁っている。
ルシアンが書記官を呼び、不正箇所の確認作業を指示した。
* * *
帰りの馬車は、来た時よりずっと静かだった。
カティアは御者台に座っている。馬車の中にはリーナとルシアンの二人だけだった。
ルシアンの口調が変わった。
「五つか」
短い言葉だった。窓の外を見たまま、リーナの方を向かない。
「俺が見抜けたのは三つだった」
「ルシアン様の調査が3箇所を特定していたからこそ、残りの2箇所に集中できましたの。下準備がなければ、わたしにも聴き取れなかったかもしれませんわ」
「……世辞か」
「いいえ。嘘のない旋律ですわ」
ルシアンがようやくリーナの方を向いた。碧眼がリーナの瞳を捉える。
「……面倒な女だ」
リーナの耳が、ほんの僅かに熱くなった。
その声の旋律に、棘がなかった。「面倒」という言葉の下に、別の音色が微かに響いている。鑑譜眼を使わなくても聴こえるほどの、率直な響き。
馬車が石畳の上を走る。車輪の音だけが、二人の間を埋めていた。
リーナは窓の外に目を向け、唇の端をそっと持ち上げた。
懐の中で、ヘルマンから受け取った報酬の革袋が重い。金貨十枚。自分の力で得た、最初の報酬だった。




