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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第04話 音を聴く練習

「お嬢様、お召し替えはいかがなさいますか」


 メイドのエルザが朝の光とともに寝室の扉を開けた。銀の盆に湯気の立つ紅茶を載せ、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべている。


 リーナはベッドの端に腰かけ、エルザの顔を見つめた。

 正確には、その胸元——核紋のある位置を。


 瞳が紫から金色に変わる。

 エルザの核紋から、柔らかな旋律が立ち上った。水属性の淡い青が波紋のように広がり、その上に言葉の音色が重なっていく。


「今日もお美しいですわ、お嬢様」


 甘い不協和音。

 砂糖菓子のような、ほんのり歪んだ響き。毒はない。棘もない。ただ、真実でもない。


 お世辞、とリーナは心の中で分類した。

 悪意の嘘とは音が違う。これは善意から生まれた嘘——相手を傷つけないための、日常の潤滑油のような音色だった。


「ありがとう、エルザ。今日は薄い紫の方を」


 リーナは瞳の色を元に戻し、紅茶を受け取った。

 昨夜からずっと考えていた。ルシアン・シュヴァルツベルクとの契約。明日には帝都の交易区へ出向き、交易商ヘルマンの契約書を鑑定する。


 だが、その前にやるべきことがある。


 鑑譜眼を、もっと精密に使いこなさなければ。


* * *


 午前中、リーナは伯爵邸の使用人たちに声をかけて回った。


 表向きは「お屋敷の様子を聞かせてほしい」という体裁。しかし本当の目的は、さまざまな嘘の音色を聴き分ける訓練だった。


「お嬢様、お庭の薔薇が見頃でございます」


 庭師の老人の言葉に、濁りはなかった。澄んだ和音。真実だ。


「今朝の食材は全て新鮮なものを仕入れてございます」


 料理人ハンスの言葉に、リーナの瞳が金色に光った。


 耳障りな金属音。

 鉄と鉄が擦れ合うような、鋭く不快な不協和音。先ほどのエルザの甘い響きとはまるで違う。これは悪意とまでは言わないが、明確な隠蔽の意図を持った嘘の音だった。


「ハンス」


「は、はい、お嬢様」


「今朝の鶏肉は、いつ仕入れたものかしら」


 ハンスの額に汗が浮いた。核紋からさらに鋭い不協和音が鳴る。


「け、今朝でございます。間違いなく——」


「あら。その旋律では、とても信じられませんわ」


 リーナは穏やかに微笑んだまま、紅茶のカップを置いた。


「三日前の仕入れを今朝のものと偽るのは、節約ではなく不正ですわよね。お父様にお伝えした方がよろしいかしら」


 ハンスは床に膝をついた。

 仕入れ先の商人と結託し、古い食材を新鮮なものとして帳簿に計上していたことが、ハンス自身の口から語られた。差額は二人で分けていたという。


「お父様にはわたしから申し上げます。ただし、今後は正直な旋律を奏でてくださいな」


 ハンスが青ざめた顔のまま退室していく。扉が閉まると、応接間に沈黙が戻った。

 リーナは窓辺に立ち、指先を見つめた。

 使用人の不正を暴くつもりはなかった。だが鑑譜眼が嘘を聴いてしまった以上、見過ごすわけにもいかない。

 クレスタフェルデ家の台所事情は、婚約破棄の前から楽ではなかった。食材費の横領は、小さくとも放置してよい問題ではない。


 三種類。


 善意の嘘は甘い不協和音。悪意の嘘は金属的な不協和音。そしてもう一つ——午前中の巡回で、馬丁の少年に「馬は好きか」と尋ねた時に聴こえた音があった。


 霞のような、薄い歪み。

 少年は「はい、大好きです」と答えた。嘘ではない。だが、完全な真実でもなかった。馬は好きだが、本当は別の仕事がしたい——そういう、自覚すらしていない小さな偽り。


 自覚のない嘘には、輪郭がない。霧のように漂い、すぐに消える。


 三つの音色を聴き分けられるようになったことで、鑑譜眼の使い方が格段に広がった気がした。


* * *


 午後、リーナは書斎で契約書の写しを読んでいた。


 羊皮紙に指を這わせる。インクの匂いが微かに鼻をくすぐる。

 文字を追いながら、もう一つの感覚を研ぎ澄ます。


 ふいに、指先が震えた。


 弦を押さえる感覚が蘇る。左手の指先が、ヴァイオリンのネックを握っている。右手には弓。

 オーケストラの和音が頭の中を満たした。指揮者の腕が振り下ろされ、百人の奏者が一斉に音を出す瞬間——その中から一本だけ調律の狂った弦を、瞬時に聴き分ける感覚。


 前世の記憶。

 名前は思い出せない。顔も、劇場の名前も。だが音の記憶だけが、水晶のように透明に蘇る。

 絶対音感。それは生まれ持った才能ではなく、幼少期からの訓練で研ぎ澄まされた感覚だった。


 記憶が引き波のように退いていく。


 リーナは深く息を吐いた。指先の震えが治まるまで、しばらく目を閉じていた。


 この記憶が鑑譜眼と重なっている。だから歴史上の保持者より精密に聴き分けられる。前世の音楽家としての耳が、この世界の嘘を音階に変換しているのだ。


「お嬢様、ルシアン様の使いの方がお見えです」


 エルザの声に、リーナは顔を上げた。


* * *


 応接間に立っていたのは、長身の女だった。


 短く切りそろえた赤銅色の髪。鋭い目つき。腰に細剣を帯び、革の胴衣を身につけている。貴族ではない。傭兵か、あるいは——


「シュヴァルツベルク家近衛、カティア・ヴェーバーだ。明日からクレスタフェルデ嬢の護衛を務める」


 簡潔な自己紹介だった。余計な言葉がない。

 リーナは瞳を金色に切り替え、カティアの核紋を視た。


 風属性の旋律が、まっすぐに吹き抜ける。

 嘘がない。一片も。見事なほど澄んだ和音だった。


「よろしくお願いしますわ、カティア。ひとつ確認してよろしいかしら——ルシアン様からは、わたしの能力について聞いていらして?」


「鑑譜眼。嘘を音で聴き分ける力だと聞いている。正直、信じてはいなかった」


「今は?」


「今、あなたの瞳が金色に光っている。それだけで十分だ」


 カティアの口元が、わずかに緩んだ。

 リーナも小さく笑った。この護衛とは、うまくやれそうだった。


「明日の段取りを確認しましょう。交易区の商館、ヘルマンという商人の契約書の鑑定ですわね」


「ああ。ルシアン様も同行される。商館は交易区の中央通りに面した二階建てだ。警備は手薄だが、ヘルマンの私兵が数名いる」


「私兵」


「念のためだ。ヘルマンは狡猾だが、暴力に訴える男ではないと聞いている」


 リーナは頷いた。ルシアンの手配は迅速だった。契約を結んだ翌日には護衛を寄越してくる。やはり、あの男は本気でリーナの力を必要としている。


「カティア、ひとつお願いがありますの」


「なんだ」


「明日、ヘルマンの前でわたしが何かを言ったら、表情を変えないでいただきたいの。何が聴こえても、何を暴いても」


 カティアはリーナの顔をじっと見つめた。


「……了解した。面白い主だ」


 窓の外に目をやった。夕暮れの空が茜色に染まっている。

 明日、初めての仕事。伯爵邸の外で、鑑譜眼を使う。

 婚約破棄されてからまだ数日。社交界ではまだ「捨てられた伯爵令嬢」として噂されている頃だろう。


 だが、リーナの瞳にはもう、過去を嘆く色はなかった。


「明日、帝都の交易区へ参りますわ」


 リーナは静かに呟いた。


「交易商ヘルマンの契約書——ルシアン様は三箇所の不正を疑っていますけれど、わたしの耳には、もっと多く聴こえる予感がしますの」

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