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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第03話 冷血公子の取引

応接間の扉が開いた瞬間、リーナの鑑譜眼が反応した。


 黒髪。深い碧眼。長身で引き締まった体躯を、漆黒の外套が包んでいる。表情は凪いだ湖のように平坦で、口元に笑みはない。


 ルシアン・シュヴァルツベルク。


 五大公爵家の次男。社交界では「冷血公子」と囁かれる男が、クレスタフェルデ伯爵邸の応接間に立っていた。


「クレスタフェルデ伯爵家のリーナ様ですね。突然の訪問、ご無礼をお許しください」


 一人称は「私」。声は低く、抑揚が乏しい。礼節は完璧だが、温度がない。社交界の作法を氷で彫り出したような男だった。


 リーナは瞳に金色の光を灯し、ルシアンの核紋を視た。


 息を呑んだ。


 闇属性の旋律が、低く、重く、広がっていく。深海の底を流れるような暗い音色。禁忌とされる闇の属性。リーナが今まで聴いた核紋とは明らかに質が違う。


 だが。


 不協和音がない。


 あの深い闇の旋律の中に、嘘の音が一つも混じっていなかった。ディートリヒの核紋が四重の不協和音に歪んでいたのとは対照的に、この男の旋律は暗いが澄んでいる。闇そのものが歌っているような、不思議な美しさがあった。


「お掛けくださいませ、ルシアン様」


 リーナはソファを勧め、自分も向かいに腰を下ろした。侍女のマリアが茶を運んでくる。マリアの核紋に緊張の高音が走っているのが聴こえたが、意識から外した。今は目の前の男だけに集中する。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


「単刀直入に申し上げます」


 ルシアンの碧眼がリーナを射抜いた。冷たい目だった。だが、核紋の旋律には敵意の音がない。


「あなたの鑑譜眼を貸していただきたい」


 リーナの眉が微かに上がった。


「……わたしの鑑譜眼を?」


「シュヴァルツベルク家は帝国の交易路を管理しています。ここ一年、不正が急増している。帳簿の改竄、産地偽装、横流し。内部調査では限界がある」


 ルシアンは言葉を選ばなかった。飾りもない。必要な情報だけを並べていく。


「通常の調査では嘘を見抜けません。だが、先日の舞踏会であなたが婚約者の嘘を見抜いたという話は、私の耳にも届いています」


 舞踏会の夜。婚約破棄の場面が人目についていたことは、リーナも承知していた。柱の陰とはいえ、複数の貴族が耳にしていた。


「報酬は金銭でもシュヴァルツベルク家の後ろ盾でも、ご希望に応じます。条件は交渉可能です」


 リーナは茶碗を唇に運び、一口含んだ。紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。


 利用目的。それは明白だった。


 ルシアンはリーナの鑑譜眼という道具が欲しいだけだ。婚約破棄されたばかりの伯爵令嬢に手を差し伸べる慈善家ではない。


 だが、それでいい。


 リーナは鑑譜眼を、もう一度ルシアンの核紋に向けた。闇の旋律を注意深く聴く。


 低音の底に、微かな揺らぎがあった。


 焦り。


 表情にも声にも出ていない。だが核紋の旋律には、時間がないと告げるような切迫した振動が混じっている。この男は、急いでいる。不正の調査だけが目的ではない。もっと大きな何かに追われている。


 面白い。


「ルシアン様、条件を伺ってもよろしいかしら」


「何なりと」


「まず、調査対象の情報を事前に全て開示していただくこと。わたしの鑑譜眼は対象を視界に収めなければ発動しません。現場に行く必要がありますわ」


「承知しました」


「次に、わたしの安全の保障を。伯爵家の長女とはいえ、婚約破棄されたばかりの身です。交易商の不正を暴けば、恨みを買うこともあるでしょう」


「護衛はシュヴァルツベルク家が手配します。私の直属の部下を」


「そして最後に」


 リーナは茶碗を置き、紫と金が混じった瞳でルシアンを真っ直ぐに見た。


「わたしが発見した情報は、わたしにも共有してくださること。一方的に利用されるだけでは面白くありませんもの」


 ルシアンの碧眼が、ほんの一瞬だけ細まった。値踏みするような視線。


「……情報の共有は、範囲次第です。シュヴァルツベルク家の機密に関わる部分は除外させていただく」


「結構ですわ。それで十分です」


 リーナの声には、余裕があった。このとき既に、彼女の鑑譜眼は一つの事実を捉えていた。


 ルシアンの核紋に、嘘の旋律がない。


 今の交渉中も、報酬の提示も、護衛の約束も、情報共有の制限についても。全てが真実の和音で構成されている。この男は、少なくとも今日この場では、一度も嘘をついていない。


 ディートリヒとは違う。


「お受けいたしますわ、ルシアン様」


 リーナが手を差し出すと、ルシアンは一瞬だけ間を置いてから、その手を取った。掌は冷たかったが、握る力は確かだった。長い指が、リーナの手を丁寧に包む。


 その瞬間、鑑譜眼を通さなくても、掌から伝わる温度だけで何かが伝わった気がした。リーナの耳の先が、ほんの少しだけ熱くなった。


「契約は成立ですね」


「ええ。詳細は追って書面で」


 ルシアンが立ち上がった。外套の裾が翻り、闇属性の残香のように冷たい空気が揺れた。応接間の扉に向かうその背中を、リーナは鑑譜眼で最後にもう一度視た。


 闇の旋律の奥底に、あの焦りの音がまだ鳴っている。小さく、だが確かに。


「ルシアン様」


 背中に声をかけると、男は振り返った。


「何か」


「ひとつだけ。あなたの旋律はとても興味深いですわね」


 ルシアンの表情は変わらなかった。だが核紋の旋律に、微かな動揺の音が一粒だけ混じった。すぐに消えた。


「……失礼します」


 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。


* * *


 応接間に一人残されたリーナは、ソファの背にもたれ、天井を見上げた。


 薔薇の透かし彫りが施された漆喰の天井。幼い頃から見慣れた模様が、今日は少しだけ違って見える。


 ルシアン・シュヴァルツベルクの核紋を思い返す。


 あの旋律。


 闇属性の低く重い音色は、社交界で「冷血」と呼ばれるのも無理はない。周囲の人間は、あの暗い旋律に本能的な畏れを感じるのだろう。


 だがリーナの鑑譜眼には、別のものが聴こえていた。


 嘘のない旋律。そして、その奥に潜む焦りの音。冷血どころか、あの男は何かに駆り立てられている。内側に火を抱えたまま、表面だけを凍らせている。


 交渉の間、リーナはルシアンの核紋を三度聴いた。鑑譜眼の一日の限度に近い回数だ。頭の奥にうっすらと痛みが残っている。


 だが、収穫は大きかった。


 ふと、掌の感触を思い出した。冷たい手。けれど、離すときに僅かに力が籠もった。あれは何だったのだろう。

 リーナは自分の右手を見下ろし、すぐに膝の上に戻した。


「冷血だなんて嘘ですわ」


 リーナは窓の外に目を向けた。西日が庭園の緑を琥珀色に染めている。


「あの方、何かを隠している。けれど、嘘はついていない」


 矛盾しているようだが、鑑譜眼はそう告げている。隠し事と嘘は違う。語らないことは嘘ではない。ルシアンは情報を選んで出しているだけで、出した情報に偽りはなかった。


 リーナは唇の端を持ち上げた。


「利用するつもりなら、こちらも利用させていただきますわ」


 ルシアンの背後にはシュヴァルツベルク公爵家の情報網がある。それはディートリヒの嘘を暴くための、最短の道になりうる。


 窓の外で、庭園の鳥が一羽、夕暮れの空に飛び立った。


 リーナの瞳の金色が、静かに明滅していた。

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