第02話 伯爵家の長女
朝の光が、寝室の天蓋を白く染めていた。
「お嬢様、お目覚めの時間でございます」
侍女のマリアが、控えめにカーテンを開ける。柔らかな陽光が差し込んだ瞬間、リーナの耳に小さな音が滑り込んだ。
不協和音。
昨夜まではただの声だったものが、今朝は旋律として聴こえる。マリアの声の奥に、微かな歪みが混じっていた。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「わたしの顔色が良いと思っている?」
マリアの目が泳いだ。ほんの一瞬だけ。
「も、もちろんでございます。昨夜はよくお休みになられたのかと」
その言葉に、再び不協和音が重なった。甘い響き。金属的な耳障りではなく、絹を一枚隔てたような柔らかな歪み。
善意の嘘。マリアはリーナの顔色が悪いことを知っていて、それでも気遣って嘘をついた。
「ありがとう。大丈夫よ」
リーナは薄く微笑み、ベッドから身を起こした。鏡台に映る自分の顔は、確かに青白い。昨夜は眠れなかった。目の下に薄い影が落ちている。
けれど、瞳だけが違っていた。紫の虹彩の中に、金色の光の粒が散っている。昨夜の舞踏会で覚醒した鑑譜眼の残滓が、まだ消えていない。
髪を梳かしながら、リーナは耳を澄ませた。廊下の向こうから、使用人たちの声が聴こえる。
「婚約破棄されたんですって」
「ヴァレンシュタイン様に? まあ、お気の毒に」
「でもお嬢様、昨夜のお帰りはとても落ち着いていらしたわ」
「落ち着いてなんかいませんわよ。お顔が真っ白でしたもの」
ひそひそ話。聞こえるはずのない距離の囁きが、鑑譜眼を通じて旋律として届く。そしてその中に、嘘はなかった。使用人たちは本心で心配し、本心で噂をしている。
リーナはそっと耳を塞いだ。
聴こえすぎる。
昨夜覚醒した鑑譜眼が、まるで開きっぱなしの窓のように、あらゆる音を拾い上げてしまう。制御が利かない。紫の瞳に混じる金色の光が、瞬くたびに揺れている。
「……困りましたわね」
指先が冷たい。前世の記憶が蘇る。ヴァイオリンの弦を押さえていた指が、微かに震えていた。
* * *
朝食の席で、父エーリヒ・クレスタフェルデが新聞を畳んでリーナを見た。
「食べなさい、リーナ。パンだけでもいい」
温かいスープの湯気が立ち上る向こうに、父の穏やかな顔がある。白髪交じりの金髪、整えられた口髭。中堅貴族の当主として長年宮廷に仕えてきた男の目には、動揺の色はなかった。
「……父様、昨夜のことは」
「知っている。馬車の御者から聞いた」
リーナは反射的に鑑譜眼を向けた。父の核紋から流れる旋律を聴く。
穏やかで力強い和音。怒りの低音が底を流れているが、それは娘に向けたものではない。ヴァレンシュタインという名に対する静かな憤り。そして、嘘は一つもない。
「ヴァレンシュタインの小僧が何を言おうと、お前はクレスタフェルデの長女だ。それは変わらん」
「父様」
「それと、お前の目のことだが」
エーリヒはスープ皿に視線を落とし、一拍置いてから口を開いた。
「鑑譜眼は、クレスタフェルデの血筋に稀に現れる力だ。わたしの祖母にもあった」
リーナの手が止まった。
「曾祖母様にも?」
「ああ。ただ、祖母の力はお前ほど鮮明ではなかったと聞いている。旋律ではなく、色で見えていたそうだ」
エーリヒはリーナの紫と金が混じった瞳を真っ直ぐに見て、迷いのない声で言った。
「お前の目は天からの贈り物だ。恥じる必要はない」
その言葉の旋律が、リーナの胸に響いた。完全な和音。一片の不協和音もない、真実だけで編まれた音。
唇が震えそうになるのを、リーナは微笑みで押さえた。
「……ありがとうございます、父様」
「礼はいらん。食べろ」
パンを千切る手が、少しだけ温かくなっていた。
* * *
午後。リーナは伯爵邸の中庭に出て、鑑譜眼の制御を試み始めた。
庭師が薔薇の手入れをしている。洗濯女が井戸端で話し込んでいる。門番が欠伸を噛み殺している。
鑑譜眼を「開く」のは、もうできる。問題は「閉じる」方だった。
リーナは深く息を吐き、意識を集中させた。前世の記憶が断片的に蘇る。オーケストラのリハーサル。指揮者の合図で、全ての楽器が一斉に止まる。あの瞬間の、音が消える感覚。
それを再現する。瞳から金色の光を引き戻すように、聴覚の焦点をぼかしていく。
旋律が遠ざかった。庭師の声がただの声に戻り、洗濯女の話し声が意味のある言葉として聞こえなくなる。
「……閉じられましたわ」
リーナは額の汗を拭い、再び鑑譜眼を開いた。今度は庭師だけに焦点を絞る。
庭師の核紋から、穏やかな地属性の旋律が流れ出した。緑と茶が混じった温かい音色。嘘はない。ただし、ひとつだけ小さな不協和音が混じっていた。
「あの枝、先週切ったんですが、もう伸びてきちまって」
嘘。先週ではなく、三日前。些細な怠慢を隠す小さな嘘。悪意はない。ただの自己弁護。
リーナは口元を手で隠し、微かに笑った。なぜか安心した。世界中が嘘だらけなのではなく、ほとんどの人は些細な嘘しかつかない。ディートリヒの核紋に刻まれていた四重の不協和音が、いかに異常だったかがわかる。
あの夜の記憶が蘇った。
ディートリヒの言葉を、今の精度で「聴き直す」。記憶の中の旋律を、鑑譜眼で再構成する。
「お前の目が気味悪い」——嘘。本心では、喉の奥が引き攣るような怯えが鳴っていた。
「婚約は本日をもって破棄する」——半分だけ本当。破棄は事実だが、本日決まったのではない。以前から計画されていた。
「理由は今述べた通りだ」——嘘。四つの不協和音のうち、「気味悪い」は表層にすぎない。その下に三つ、もっと深い嘘が隠れている。
何を隠しているのか。四つ目の不協和音は特に低く、重い。あの音の正体を暴くには、今の鑑譜眼ではまだ届かない。
「でも、いつか必ず暴いてみせますわ」
リーナは中庭の空を見上げた。春の陽光が銀髪を白く輝かせる。紫の瞳に、金色の光が静かに灯っている。
そのとき、門の方から足音が聴こえた。侍女のマリアが小走りに駆けてくる。頬が紅潮し、息を切らしている。
「お嬢様——」
マリアの核紋から、驚きと興奮の旋律が零れていた。嘘ではない。純粋な動揺。
「お嬢様、シュヴァルツベルク公爵家の方がお見えです」
リーナの眉が微かに動いた。五大公爵家の一つ。財務を握り、交易路を支配する名門。
「——次男のルシアン様が、お嬢様に直接会いたいと」
冷血公子。
その異名が、リーナの記憶の隅で低く響いた。社交界で何度か耳にした名前。シュヴァルツベルク公爵家の次男。闇属性を持つという噂。人を寄せつけない冷たい目つき。
リーナの瞳の中で、金色の光が一段強くなった。
「お通ししてちょうだい」
その声は、朝よりもずっと落ち着いていた。




