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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第01話 不協和音の夜

 大広間に響く弦楽四重奏の旋律が、一瞬だけ歪んだように聴こえた。


「——お前の目が、気味悪い」


 ディートリヒ・ヴァレンシュタインの声は、まるで不要な食器を下げさせるかのように淡白だった。

 金髪碧眼の美丈夫。帝国騎士団の若き団長にして、ヴァレンシュタイン公爵家の嫡男。つい昨日までリーナ・クレスタフェルデの婚約者だった男。


「婚約は本日をもって破棄する。理由は今述べた通りだ」


 大広間の片隅、人目を避けた柱の陰。だが声は柱を越え、近くにいた数名の貴族の耳に確実に届いていた。扇の陰でひそひそと囁き合う気配が、蝋燭の炎のように揺れる。


「……承知いたしました」


 リーナは背筋を伸ばしたまま、一礼した。

 声は震えなかった。表情も崩れなかった。クレスタフェルデ伯爵家の長女として、幼い頃から叩き込まれた所作が体を支えている。


 ただ、頭の奥で何かが軋んでいた。


 弦が切れる音。


 ヴァイオリンの弦が、限界を超えて引き絞られ、甲高い悲鳴をあげて千切れる。あの音を、リーナは知っている。

 なぜ知っているのか、わからない。この世界にヴァイオリンという楽器は存在しない。なのに、記憶の底から浮かび上がる感覚は鮮烈で、指先に弦の感触すら蘇る。


 前世。


 その言葉が、唐突に脳裏を横切った。

 わたしは前にも、こんな不協和音を——


 瞬間、世界が変わった。


 ディートリヒの声が、まだ耳に残っている。「気味悪い」という言葉の残響。だがその残響に重なるように、もう一つの音が聴こえ始めた。


 低く、濁った、歪んだ和音。


 リーナの瞳が紫から金色に変わった。視界の端で、ディートリヒの胸元——核紋のある位置から、目に見えない五線譜が立ち上がる。そこに刻まれた旋律は、いびつで不安定な音を奏でていた。


 嘘。


 今の「気味悪い」は、本心ではない。ディートリヒはリーナの目を気味悪いとは思っていない。恐れているのだ。自分の嘘が暴かれることを。


 以前からリーナには、人の言葉の歪みを数として拾う癖があった。婚約者の書類に「三箇所ほど」と告げたことも一度や二度ではない。だがそれは、ただの勘の良さだと思っていた。

 今は違う。

 音として、不協和音として、明確に聴き分けられる。何を隠しているのかまで、旋律が教えてくれる。


「ディートリヒ様」


 リーナは静かに顔を上げた。金色に光る瞳で、元婚約者を見据える。


「ひとつだけ、お聞きしてもよろしいかしら」


「……なんだ」


「婚約破棄の本当の理由は、わたくしの目が気味悪いからではありませんわよね」


 ディートリヒの肩が、ほんの一瞬だけ強張った。

 その核紋から、さらに深い不協和音が鳴る。三つ。いや、四つ。嘘の上に嘘を重ねた、歪な旋律。


「……何を言っている。理由は言った通りだ」


「そうですか。では結構ですわ」


 リーナは再び一礼し、背を向けた。

 追及しなかったのは、優しさではない。今のリーナには、彼の嘘を暴くだけの力がまだない。だが覚醒した鑑譜眼は、確実にその嘘の数を数えていた。


 四つの不協和音。婚約破棄の裏には、「気味悪い」よりもずっと深い理由がある。


 いつか、全て暴く。


 大広間を出て、東回廊を歩く。蝋燭の明かりが等間隔に並び、リーナの長い影を石畳に落としている。背筋は伸びたまま。唇を噛み締めている。


 窓の外に、赤みがかった月が浮かんでいた。


 楽団の音がくぐもって聞こえる中、リーナの靴音だけが回廊に響く。前世の記憶が、波のように押し寄せては引いていく。ヴァイオリンの弓を持つ感覚。オーケストラの和音に身を浸す感覚。そして絶対音感。人の声の微細な震えから嘘を聴き分ける、あの奇妙な癖。


 その記憶が、この世界の「鑑譜眼」と重なった。だから精度が跳ね上がったのだ。


 前世のわたしは、音楽家だった。


 曲名も、人の名前も思い出せない。だが音の感覚だけが、水晶のように透明に蘇っている。


* * *


 ふと、足が止まった。


 柱の陰に、誰かが座り込んでいた。


 栗色の長い髪。膝を抱え、顔を伏せている。小柄な少女だった。肩が小刻みに震えている。泣いている。


 反射的に、鑑譜眼が発動した。


 少女の核紋から流れ出す旋律が、リーナの耳に届く。


 息を呑んだ。


 透明だった。どこまでも澄んだ、深い旋律。ディートリヒの不協和音とは正反対の、嘘のかけらもない美しい音。

 光に似ているが、光ではない。もっと根源的な何か。リーナが今まで聴いたどんな核紋とも違う、未知の響き。


 なぜこんなに綺麗な旋律を持つ少女が、一人で泣いているのだろう。


 リーナは一瞬だけ立ち止まり、少女を見下ろした。涙で濡れた金色の瞳が、紫の瞳と交差する。


「——泣いていても、何も変わりませんわよ」


 小さな声で、そう言った。

 少女に向けた言葉だったのか、自分に言い聞かせたのか、リーナ自身にもわからなかった。


 それ以上は何も言わず、靴音を響かせて歩き去る。


 窓の外で、月が雲に隠れた。


* * *


 クレスタフェルデ家の馬車が、帝都の石畳を静かに走っていた。


 リーナは座席に深く体を沈め、車窓の外を見つめていた。帝都イグナシオンの夜景が流れていく。蝋燭の灯った窓、巡回する騎士の松明、酒場から漏れる笑い声。


 どれもが遠い。

 御者が気を遣ってか、馬を緩めている。帰りたくないのだろうと思われたのかもしれない。それは半分正解で、半分は違う。


 婚約破棄された。

 それは事実だ。明日には社交界に知れ渡り、「ヴァレンシュタインの婚約者を捨てられた伯爵令嬢」として好奇と侮蔑の目にさらされるだろう。


 だがリーナの意識は、そこにはなかった。


 ディートリヒの核紋に刻まれていた四つの不協和音。

 あの少女の、透明すぎる旋律。

 そして、前世の記憶として蘇った絶対音感。


 三つの出来事が、一晩のうちに重なった。偶然ではない、とリーナの直感が告げている。


 指先を見つめる。弦を押さえていた指。今はもう楽器はない。だがこの瞳には、人の嘘を音として聴き分ける力がある。


 婚約破棄されたことは、むしろ幸運だったのかもしれない。あの家に縛られたままでは、この力の本当の使い方を知ることはなかった。


 リーナは窓から視線を戻し、小さく微笑んだ。


「あの子の核紋……とても綺麗な旋律でしたわ。あの旋律が、なぜ泣いているの?」


 誰にともなく呟き、瞳を閉じる。

 あの少女の旋律を思い返すと、胸の奥に温かいものが灯る。あの澄んだ音は、今夜聴いたどんな音よりも印象に残っていた。


「……いいえ、今はそれどころではありませんわね」


 リーナは目を開き、唇の端を持ち上げた。


「わたくし自身の不協和音を、まず片づけなくてはいけませんわ。四つの嘘を暴くのは、そう簡単ではないでしょうけれど」


 馬車が伯爵邸の門をくぐる。新しい朝が来れば、全てが動き出す。


 リーナの瞳は、もう以前の紫には戻らなかった。金色の光が、微かに残っている。


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