第10話 社交界復帰
シャンデリアの光が大広間を満たしていた。
百本の蝋燭が水晶に反射し、天井画の天使たちを黄金色に染めている。弦楽四重奏が舞踏曲を奏で、ワインの香りと淡い香水が空気に溶けていた。
帝都イグナシオン、レクシア帝国宮廷。シュヴァルツベルク公爵家主催の夜会。
リーナが大広間の入口に立った瞬間、弦楽の音が一瞬途切れたように感じた。
実際には途切れていない。途切れたのは、周囲の貴族たちの会話だった。
「あれは、クレスタフェルデ伯爵家の……」
「婚約破棄された令嬢が、なぜここに」
「シュヴァルツベルクの招待だそうよ」
扇の陰でひそひそと囁く声。リーナの鑑譜眼が捉えるまでもなく、好奇と侮蔑の旋律が大広間を渡っていた。
リーナは一歩を踏み出した。
薄紫のドレスが裾を引く。銀の髪飾りが光を弾いた。背筋を伸ばし、紫の瞳で正面だけを見据える。
「堂々としたものだわ」
扇の陰から、感心したような声が漏れた。
ルシアンが半歩後ろを歩いている。黒の礼装。碧眼は冷淡に正面を見ている。「冷血公子」の仮面をかぶった公的な顔だ。
「リーナ嬢。ようこそお越しくださいました」
シュヴァルツベルク家の侍従長が恭しく頭を下げる。リーナは微笑みを返し、ルシアンとともに大広間に入った。
* * *
フローラ・エーデルシュタインは、大広間の中央にいた。
深紅のドレスに金の刺繍。豊かな栗色の巻き髪を高く結い上げ、取り巻きの令嬢たちに囲まれて笑っている。甲高い笑い声が弦楽の合間を縫って響いた。
その首元に、大粒の蒼い宝石のネックレスが光っていた。
「素晴らしいネックレスですわ、フローラ様」
取り巻きの一人がため息をつくように言った。
「ええ。これはローゼンクロイツ家伝来の聖石ですの。大聖女アリーシアの時代から受け継がれてきた由緒ある品で、わたくしの家がお預かりしていますのよ」
フローラが首元に手を添え、宝石を見せびらかすように顎を上げた。取り巻きたちから感嘆の声が上がる。
「聖石を身につけていらっしゃるなんて……」
「エーデルシュタイン家のご威光ですわ」
リーナはグラスを手に取り、ゆっくりとフローラのいる方へ歩いた。
十歩。
フローラの声が耳に届く。
「ローゼンクロイツ家の方々も、わたくしたちエーデルシュタイン家に聖石を託すほど信頼してくださって」
五歩。
リーナの瞳が金色に変わった。
フローラの言葉に重なるように、鋭い不協和音が鳴り響く。
三つ。
一つ目。ネックレスそのものの旋律。聖石と呼ぶにはあまりにも安っぽい音色。結晶構造が粗い。三流の鍛冶師が組み上げた模造品の、歪んだ響き。
二つ目。産地の旋律。正規の工房ではない。裏路地の、暗い場所で取引された痕跡。昨夜の闇市で嗅いだ煤と腐った果物の匂いが、旋律の底に沈んでいる。
三つ目。来歴の旋律。ローゼンクロイツ家は関与していない。伝来でも、聖石でもない。すべてが虚飾の上に積み重ねた虚飾だった。
リーナは瞳の金色を抑え、穏やかな微笑みを浮かべた。
「フローラ様」
フローラが振り返った。リーナの顔を認めた瞬間、わずかに口元が強張る。だがすぐに、社交の仮面を被り直した。
「あら。クレスタフェルデ伯爵家のリーナ様。お久しぶりですこと。まだ社交界にいらしたのね」
取り巻きたちが含み笑いを漏らす。
「ええ、おかげさまで。素敵な夜会ですこと」
リーナはフローラの正面に立った。視線をネックレスに落とす。
「まあ、なんて美しいネックレス。ローゼンクロイツ家伝来の聖石と伺いました」
「ええ、そうですのよ。わたくしの家に託された大切な品ですわ」
「あら」
リーナの声は柔らかかった。しかし、その一言で周囲の空気が変わった。
「その宝石、三流鍛冶の模造品ですわよ?」
弦楽の音が、一瞬遠くなった。
「お耳に入れておいた方がよろしいかと思いまして」
フローラの顔から血の気が引いた。唇が震えている。
「な……何をおっしゃって」
「結晶構造が粗く、聖石の旋律には程遠い音色ですの。加えて、産地も正規の工房ではございません。そしてローゼンクロイツ家伝来という来歴も……申し上げにくいのですけれど」
リーナは小首を傾げた。
「三箇所ほど、旋律が乱れていますの」
取り巻きの令嬢たちが息を呑んだ。扇で口元を隠す者。隣の令嬢に耳打ちする者。大広間の空気が、さざ波のように揺れ始めた。
「嘘よ! これはれっきとした聖石ですわ! エーデルシュタイン家の名にかけて」
フローラの声が甲高くなった。だがその核紋から、リーナの耳にはさらに激しい不協和音が鳴り響いている。虚勢の音。崩れかけた旋律を必死に支えようとして、かえって歪みが広がっていく。
「フローラ様。声を荒げても旋律は変わりませんの」
リーナは穏やかに微笑んだまま、一歩引いた。
「わたしは事実をお伝えしただけですの。お信じにならないのでしたら、どうぞ専門の鑑定士にお見せくださいませ」
フローラの手がネックレスに触れた。蒼い宝石が、シャンデリアの光を受けて冷たく光っている。しかしその光が、今はフローラの蒼白な顔を照らしていた。
周囲のひそひそ声が、潮のように大広間に広がっていく。
「模造品だなんて……」
「でもあのリーナ嬢の鑑譜眼は、交易商の不正を五つも暴いたという話よ」
「エーデルシュタイン家の長女が、闇市の品を身につけて?」
フローラは何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。取り巻きの令嬢たちが、一人、また一人と距離を取っていく。
大広間の隅で、金髪の男が歯を食いしばっていた。ディートリヒ・ヴァレンシュタイン。碧眼が怒りに燃えているが、この場で口を挟めば事態を悪化させるとわかっているのだろう。拳を握ったまま、動かない。
フローラが踵を返した。深紅のドレスの裾が石畳を擦る音だけが残った。取り巻きの誰も、後を追わなかった。
* * *
テラスに出ると、夜風が頬を撫でた。
大広間の喧騒が硝子の向こう側に遠ざかり、庭園の噴水の音だけが聴こえている。
「見事だったな」
背後から、ルシアンの声。テラスには二人だけだった。口調が切り替わっている。
「必要なことをしただけですわ」
「あれだけの衆人の前で、指一本触れずに相手を崩す。お前の鑑譜眼は、剣より鋭い」
リーナは欄干に手を置き、庭園を見下ろした。月明かりが噴水の水面を銀色に染めている。
「ルシアン様。昨夜の闇市で見た魔導素材と、今夜のネックレス。繋がっていますわ。エーデルシュタイン家の魔導院から流出した素材が、模造品に使われている」
「ああ。フローラ自身が知っていたかどうかは別として、あの家の管理に穴がある。意図的に穴を開けている可能性もある」
ルシアンがリーナの隣に立った。碧眼が月を見ている。
「だが、やりすぎると狙われる」
「狙われない程度では、面白くありませんわ」
ルシアンが顔をこちらに向けた。リーナの紫の瞳が、月明かりの中でかすかに金色を帯びていた。
「……面倒な女だ」
「それは褒め言葉として受け取っておきますの」
テラスの向こう、大広間の硝子窓越しに、蒼白なフローラの姿が見えた。侍従に支えられるようにして、控え室へと消えていく。
リーナは欄干から手を離し、大広間へ戻ろうとした。
「リーナ」
名前だけを呼ばれて、足が止まった。ルシアンが名前で呼ぶのは珍しい。
「今夜は、よくやった」
短い言葉だった。それだけだった。
だがリーナの耳には、その声の奥に嘘のない旋律が聴こえていた。低く、静かで、温かい音。
リーナは背を向けたまま、小さく頷いた。
耳が、熱い。
夜風が銀色の髪を揺らした。大広間の弦楽が新しい曲を奏で始めている。嘘と虚飾に満ちた社交の夜は、まだ終わらない。




