第11話 反撃の策謀
翌朝の帝都は、嘘の残響で満ちていた。
クレスタフェルデ伯爵邸の窓から差し込む朝日は穏やかだったが、リーナの耳にはすでに不穏な旋律が届いていた。
昨夜の夜会以来、帝都の社交界は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
「お嬢様、今朝の社交新聞でございます」
侍女のマルタが銀のトレイに新聞を載せて運んできた。リーナは紅茶のカップを置き、紙面に目を落とした。
『婚約破棄された令嬢の逆襲——エーデルシュタイン家の長女、模造品の聖石を身につけていたことが判明』
見出しは大きかった。記者の筆致には面白がるような軽薄さがあったが、事実そのものに嘘はない。
「随分と大きく取り上げられましたわね」
「はい。伯爵様も、朝から来客が絶えません」
マルタの声にわずかな緊張が混じっている。リーナの鑑譜眼が反射的に旋律を拾った。心配の音。侍女の忠誠には嘘がなく、だからこそ不安が純粋に響いている。
「心配してくれているのね、マルタ」
「お嬢様がお気づきにならないわけはないと存じておりますが……」
「ええ。反撃が来るでしょうね」
リーナは紅茶を一口含んだ。昨夜、テラスでルシアンが言った言葉が耳に残っている。
——やりすぎると狙われる。
狙われない程度では面白くないと返したのは本心だった。だが、狙われる覚悟と備えは別の話だ。
* * *
反撃は、予想より早く来た。
三日後。帝都の社交サロンに、奇妙な噂が流れ始めた。
「クレスタフェルデ家のリーナ嬢の目は、呪いだそうよ」
「呪い?」
「ええ。見つめられた者は心を操られるんですって。だから婚約破棄されたのよ。ディートリヒ様が危険を感じて」
噂は水のように広がった。茶会の席で、夜会の片隅で、馬車の中で。「鑑譜眼」という言葉が「呪いの目」にすり替えられ、おどろおどろしい旋律をまとって帝都を駆け巡っている。
リーナがそれを知ったのは、旧知のオルテンシア令嬢からの手紙だった。
『リーナ様、お気をつけください。あなたの目が「呪い」だという噂を流している者がいます。出所はヴァレンシュタイン家に近い筋のようです』
リーナは手紙を畳み、窓の外を見た。伯爵邸の庭園では、薔薇がちょうど盛りを迎えている。穏やかな景色だった。
「呪いの目、ですか」
声に出してみると、むしろ可笑しかった。鑑譜眼は嘘を聴くだけの目だ。操るなどという芸当ができるなら、婚約破棄などされていない。
だが、噂の怖さは中身の正しさとは無関係だ。信じる者が増えれば、それは力になる。
* * *
その夜。ルシアンが伯爵邸を訪れた。
「出所は特定した」
応接間の扉が閉まると同時に、ルシアンの口調が切り替わった。碧眼が冷たく光っている。
「ヴァレンシュタインの手の者だ。フローラ単独ではなく、家ぐるみで動いている。こそこそとした手を使う」
「想定の範囲内ですわ」
リーナは向かいの椅子に腰を下ろした。
「問題は噂そのものではなく、誰がどのように広めているかです」
「どういう意味だ」
「嘘を広める人間には二種類いますの。信じて広める人と、嘘と知りながら広める人。前者は放っておけば飽きますわ。厄介なのは後者です」
ルシアンが顎を引いた。理解が早い男だ。
「共犯者の特定か」
「ええ。鑑譜眼で旋律を聴けば、区別できます」
「やるのか」
「もちろん」
リーナは微笑んだ。穏やかだが、瞳の奥に紫金の光が揺れている。
* * *
翌日の社交サロン。
リーナは淡い藤色のドレスに身を包み、何食わぬ顔でサロンに出席した。
入口をくぐった瞬間、空気が変わった。会話が途切れ、扇が顔の前に上がり、視線が一斉にリーナに集まる。先日まで親しげに話しかけてきた令嬢が、今日は目を逸らして通り過ぎた。
噂は確実に効いている。
だが、リーナは足を止めなかった。給仕からグラスを受け取り、サロンの中央へ歩みを進める。背筋を伸ばしたまま、微笑みを崩さない。噂を聞いて距離を置く者がいる。扇の陰で囁き合う者がいる。それらの視線と声を、リーナは静かに受け止めた。
瞳が金色に変わる。
サロンの一角で「呪いの目」について話している貴婦人たちの核紋を、一人ずつ聴いていく。
一人目。ベルンハイム男爵夫人。噂を信じ切っている。旋律に嘘がない。純粋に怯えている音色。これは愚か者の側だ。
二人目。フォン・リヒター伯爵夫人。旋律が違う。言葉と核紋の間に意図的なずれがある。この人は嘘だと知っている。知っていて広めている。
三人目。カーレンベルク子爵夫人。同じだ。意図的なずれ。指示を受けて動いている旋律。
四人目——。
リーナはグラスを傾けながら、一人ずつ旋律を確認していった。サロンの隅でルシアンが壁に背を預け、腕を組んでいる。公的な顔。冷淡な碧眼。だがリーナには、その瞳の奥に彼女を見守る旋律が聴こえていた。
サロンを辞去したのは、日が傾き始めた頃だった。
馬車の中。ルシアンと二人きりになった瞬間に、彼の背筋がわずかに崩れた。
「で、何人だ」
「信じて広めている方が七名。知っていて広めている方が四名」
「四名の名前は」
「フォン・リヒター伯爵夫人、カーレンベルク子爵夫人、ドルンブルク男爵、そしてヴェーバー侯爵の秘書官ですわ」
ルシアンが低く口笛を鳴らした。
「ヴェーバー侯爵の秘書官まで使っているのか。手が広い」
「でも、雑ですわ。共犯者の旋律は隠し切れていません。嘘を広める人間は、自分自身の核紋にも嘘を刻んでいることに気づいていないのでしょうね」
馬車が石畳の上を揺れた。窓の外を、帝都の夕暮れが流れていく。
「リーナ」
「はい?」
「無理をするな。……体に出る」
ぶっきらぼうな声。リーナは軽く目を瞬いた。サロンで長時間鑑譜眼を使い続けたことを、気づかれている。
「ご心配には及びませんわ」
「心配じゃない。投資先が壊れると困るだけだ」
嘘だった。その声の旋律に、言葉とは裏腹の温かさが滲んでいることを、リーナは鑑譜眼なしでも知っていた。
窓の外を見た。こめかみがまだわずかに痛むが、それは鑑譜眼の酷使のせいだ。ルシアンに気づかれたのは、きっと目の下の隈か、それとも紅茶を持つ手の微かな震えか。どちらにせよ、この男は見ていないようで見ている。
耳が、少しだけ熱い。
「嘘を広める人間には二種類いますわ」
リーナは呟いた。
「信じて広める愚か者と、知って広める共犯者。共犯者の旋律は、今夜だけで四つ聴こえましたわ」
ルシアンが何か言いかけて、口を閉じた。馬車の車輪が石畳を踏む音だけが、しばらく続いた。
「……厄介な耳だな」
「お褒めに与りますわ」
馬車がクレスタフェルデ伯爵邸の門前に着いた。ルシアンが先に降り、リーナに手を差し出す。公的な所作。だが手の力が、ほんの少しだけ長く残った。
帝都の空に、最初の星が瞬いていた。
リーナは邸の扉をくぐり、振り返らなかった。振り返れば、きっと耳の赤さを見られてしまう。




