第12話 伯爵家の護り
取引先からの書状が、三通続けて届いた。
いずれも丁重な文面だった。丁重すぎるほどに。
『誠に遺憾ながら、今期の契約更新は見送らせていただきたく——』
『諸般の事情により、今後のお取引を一時保留とさせていただきます——』
『ご家門のご事情を鑑み——』
父エーリヒの書斎の机に、三通の書状が並んでいた。リーナはその前に立ち、唇を引き結んでいた。
「気にするな、リーナ」
エーリヒが椅子の背にもたれ、落ち着いた声で言った。白髪交じりの髪、穏やかな碧眼。温厚な人柄で知られるクレスタフェルデ伯爵だが、その背筋には一本の芯が通っている。
「気にしないわけにはまいりません。これはわたしのせいですわ」
「お前のせいではない。嘘を暴いたのは正しいことだ」
「正しいことが、お父様のご商売に傷をつけています」
エーリヒは書状を手に取り、ゆっくりと畳んだ。
「クレスタフェルデ家は二百年続いてきた。取引先が三つ減ったくらいで揺らぐような家ではない」
その声の旋律を、リーナは聴いていた。鑑譜眼を使うまでもなく、父の言葉に嘘はないとわかる。だが同時に、わずかな疲労の音色が混じっていることにも気づいていた。
「それに、お前がフローラの模造品を暴いたおかげで、新しい鑑定依頼が三件入っている。差し引きでは悪くない」
エーリヒが口元に笑みを浮かべた。リーナは思わず目を伏せた。
「お父様……」
「娘が正しいことをして、なぜ父が恥じなければならない。胸を張れ、リーナ。お前の目は天からの贈り物だと、前にも言ったろう」
リーナは頷いた。喉の奥が熱くなったが、涙は飲み込んだ。泣くのは、まだ早い。嘘を暴き終えるまでは。
「それから、リーナ」
エーリヒが机の引き出しから封筒を取り出した。
「オルテンシア嬢のお母上から、お前宛の鑑定依頼だ。織物の取引で不正が疑われているらしい。お前の力を頼りにしている人間は、確実に増えている」
リーナは封筒を受け取り、胸に抱いた。父の言葉は、いつも静かに正しい。
* * *
その夜も、取引先からの辞退の書状がもう一通届いた。
伯爵邸の使用人たちの間にも不安が広がっている。リーナが廊下を歩くたびに、視線が追いかけてくる。同情と、わずかな非難が混じった視線。
「お嬢様が社交界で騒ぎを起こしたから……」
使用人の一人がそう囁いたのを、リーナの耳は拾っていた。鑑譜眼で聴くまでもなく、その言葉には嘘がなかった。本心だった。だからこそ、胸に刺さった。
自室に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろす。夜の庭園は月明かりに沈んでいた。噴水の水音だけが聴こえる。
正しいことをした。嘘を暴いた。それは間違っていない。
だが、正しさの代償を家族に払わせている事実が、喉の奥に小骨のように引っかかっていた。
* * *
門番が来客を告げたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
「シュヴァルツベルク公爵家のルシアン様が、お嬢様にお目にかかりたいと」
リーナは眉を上げた。この時刻に、事前の連絡もなく。夜会でもない日に公爵家の次男が伯爵邸を訪れるのは、社交界の作法から外れている。何か急ぎの用があるということだ。
急いで身なりを整え、応接間に降りた。
ルシアンが暖炉の前に立っていた。黒の外套を羽織り、夜の外気をまとっている。碧眼がリーナを捉えた。
「夜分に失礼する」
公的な口調。だが応接間には二人きりだった。侍従が扉を閉めた瞬間、ルシアンの肩の力がわずかに抜けた。
「……取引先が離れていると聞いた」
「耳が早いですのね」
「商売の情報は、シュヴァルツベルクの本業だ」
ルシアンが暖炉の炎を見つめたまま言った。
「提案がある。シュヴァルツベルク家として、クレスタフェルデ伯爵家の商取引を支援する。離れた取引先の穴は、うちの交易網で埋められる」
リーナは目を瞬いた。
「それは……大きなご提案ですわ」
「勘違いするな。これは取引だ。お前の鑑譜眼への投資にすぎない。鑑譜眼が使えなくなれば、俺の仕事に支障が出る。その基盤である伯爵家が揺らぐのは、合理的に困る」
理路整然とした説明。一分の隙もない論理。
だがリーナの瞳が、反射的に金色を帯びた。
ルシアンの核紋から聴こえてくる旋律は、彼の言葉とは別の音を奏でていた。冷徹な計算の旋律の下に、もう一つの旋律が流れている。穏やかで、静かで、嘘のない音色。
投資でも取引でもない。
この人は、ただ助けに来たのだ。
「……ルシアン様」
「何だ」
「旋律が、お優しい音色ですわね」
ルシアンの碧眼がわずかに揺れた。それから、舌打ちに似た小さな息を吐いた。
「面倒な目だ」
「お褒めに与りますわ」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いている。
ルシアンが暖炉から視線を外し、リーナを正面から見た。碧眼の中の光が変わった。公的な冷たさが消え、別の色が浮かんでいる。
「心配するな」
口調が変わった。「私」から「俺」へ。声の温度が一段上がった。
「俺が守る」
短い言葉だった。飾りがない。計算がない。旋律にも、嘘がない。
リーナの耳が、一瞬で赤くなった。
「……ルシアン様、その口調」
「何だ」
「いえ……。お気持ちは、ありがたく頂戴いたしますわ」
声が小さくなった。自分でも驚くほどに。視線を逸らし、暖炉の炎を見つめる。耳の熱が引かない。
ルシアンが一歩近づいた。リーナの横顔を見下ろしている。
「耳が赤い」
「暖炉のせいですわ」
「嘘をつくな。鑑譜眼の持ち主が」
リーナは唇を噛んだ。嘘を暴く側の人間が、こんなわかりやすい嘘をつくなんて。返す言葉がなかった。
ルシアンが低く笑った。初めて聴く、柔らかい笑い声だった。
「……明日、正式に伯爵に話を通す。条件はうちの法務官が整える。お前は、自分の仕事に集中しろ」
「はい。……ありがとうございます」
「礼を言うな。取引だと言っただろう」
ルシアンが外套を翻し、応接間を出ていった。扉が閉まり、足音が遠ざかる。
リーナは暖炉の前に一人残された。
炎の揺れる音の中に、ルシアンの旋律の残響がまだ聴こえている気がした。澄んだ音。温かい音。口調が変わった瞬間の、あの声。
「ルシアン様の口調が変わった」
独り言が、暖炉の炎に溶けた。
「あの方は二つの顔を持っている。冷血公子と、不器用な男。どちらが本当か?」
リーナは赤い耳に手を当て、小さく笑った。
「どちらも、ですわね」
暖炉の炎が橙色に揺れた。夜の伯爵邸は静かだった。窓の外では風が薔薇の花弁を散らしている。明日になれば、また嘘と中傷の旋律が帝都に満ちるのだろう。
だが今夜は、一つの嘘のない旋律が、リーナの胸の中で静かに響いていた。




