第13話 学歴の嘘
帝都の宮廷魔導院は、白い尖塔が空を突く壮麗な建造物だった。
正門の両脇に立つ石像は、かつての大魔導師たちの姿を象っている。午前の陽光が白壁に反射し、リーナは目を細めた。
「魔導院の記録閲覧を申請したのは、シュヴァルツベルク家の名義ですわね?」
「ああ。交易に関わる魔導具の品質調査という名目だ。記録閲覧室の利用許可は昨日下りている」
ルシアンが歩調を合わせながら言った。公的な口調、冷淡な碧眼。魔導院の職員たちがすれ違うたびに頭を下げていく。五大公爵家の名は、ここでも絶対的な力を持っている。
記録閲覧室は魔導院の三階にあった。天井まで届く書架が壁一面を埋め、古い羊皮紙と新しいインクの匂いが混在している。
「フローラ・エーデルシュタインの卒業記録を」
ルシアンが閲覧管理官に申請書を差し出した。管理官は眼鏡の奥の目をわずかに見開いたが、シュヴァルツベルク家の印章を見て黙って受理した。
数分後、革装の記録簿が二冊、リーナの前に置かれた。
「卒業成績原本と、宮廷への提出用の写しでございます」
管理官が退出し、閲覧室にはリーナとルシアンだけが残った。
「さて」
リーナは手袋を外し、最初の記録簿を開いた。フローラ・エーデルシュタインの名前が、整った筆跡で記されている。
魔力制御学——優。
魔導具基礎理論——優。
応用錬成学——秀。
実技総合——秀。
華々しい成績だった。エーデルシュタイン公爵家の長女にふさわしい結果が並んでいる。
「問題なさそうに見えるが」
「ルシアン様。わたしの目を、お忘れですか?」
リーナは微笑んだ。瞳が紫から金色に変わる。
原本の文字に鑑譜眼を向けた瞬間、旋律が聴こえてきた。
和音。安定した和音。嘘のない旋律。この記録は本物だ。
次に、宮廷への提出用の写しを開いた。
魔力制御学——秀。
魔導具基礎理論——秀。
応用錬成学——秀。
実技総合——秀。
「あら」
リーナの声が低くなった。
「原本では『優』が二つあった科目が、提出用ではすべて『秀』に書き換えられていますわね」
鑑譜眼が、提出用の写しに不協和音を聴いた。二箇所。インクの旋律が原本と異なっている。書き手の筆圧、インクの濃さ、紙に残る核紋の痕跡。すべてが別人の手によるものだと告げている。
「改竄だ。原本と写しの差異は、通常の転記ミスでは起こらない」
ルシアンが冷静に確認する。
「ええ。しかも、改竄した人間の核紋の痕跡がインクに残っていますの。フローラ本人ではありません。誰かが代わりにやっている」
「エーデルシュタイン家の手の者か」
「おそらくは。魔導院の中に、家の息がかかった人間がいるのでしょう」
リーナは記録簿を閉じた。瞳の金色が消え、紫に戻る。
「証拠としては十分ですわ」
* * *
三日後の社交サロン。
リーナはこの場を選んだ。大広間の夜会ではなく、少人数の社交サロン。フローラが必ず出席する場所。そして、帝都の名うての令嬢たちが集う場所。
フローラは奥のソファに座っていた。模造品の一件以来、取り巻きの数は減っていたが、まだ何人かは彼女の周囲にいる。深紅の唇が微笑みを形作っていたが、その目には警戒の色があった。
リーナが近づくと、サロンの空気が張り詰めた。
「フローラ様。お元気そうで何よりですわ」
「あら、リーナ様。まだ社交界を楽しんでいらっしゃるの? 呪いの目だなんて物騒な噂もございますのに」
フローラの声に棘がある。だが声の震えを、甲高い笑いで隠そうとしている。
「噂はあくまで噂ですわ。わたしの鑑譜眼は、嘘を聴くだけの穏やかな目ですの」
「それで、今日はどなたの嘘を聴きにいらしたのかしら?」
「嘘を聴きに来たのではありませんわ。事実を確認しに参りましたの」
リーナはソファの向かいに腰を下ろした。給仕が紅茶を運んでくる。カップを受け取り、一口含んだ。周囲の令嬢たちが、息を詰めている。
「フローラ様は以前、魔導院の卒業成績がすべて『秀』だと仰っていましたわね」
フローラの指が、カップの縁でわずかに震えた。
「ええ。事実ですわ」
「そうですか。では、宮廷に提出された成績表と、魔導院に保管されている原本が一致していることも、ご存知でいらっしゃいますわよね?」
フローラの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「な、何をおっしゃって……」
「原本では、魔力制御学と魔導具基礎理論の評価は『優』ですの。秀ではなく、優。提出用の写しだけが書き換えられていますわ」
サロンがざわめいた。扇の陰で令嬢たちが顔を見合わせている。
「嘘ですわ! わたくしの成績は正真正銘——」
「フローラ様」
リーナは穏やかに遮った。紅茶のカップをソーサーに置く。磁器が触れ合う小さな音が、沈黙の中に響いた。
「エーデルシュタイン家の長女ともあろう方が、成績表の旋律を書き換えるなんて。ご実家の魔導院が泣いていますわよ」
フローラが立ち上がった。椅子が後ろに倒れる音が響いた。顔が蒼白で、唇が紫色に変わっている。何か言おうとして口を開いたが、言葉の代わりに出てきたのは甲高い息だった。
「あなた……!」
フローラの目がリーナを射抜いている。憎悪と、それ以上の恐れが入り混じった視線。
「あの女の目……あの目さえなければ……!」
声が震えていた。虚勢すら保てなくなっている。取り巻きの令嬢たちが、静かにソファから立ち上がり、フローラから距離を取った。先日と同じ光景だった。
フローラは裾を掴み、サロンを飛び出した。扉が大きな音を立てて閉まった。
* * *
サロンの一角で、金髪の男がグラスを握りしめていた。
ディートリヒ・ヴァレンシュタイン。騎士団長の礼装が窮屈そうに肩を締めている。碧眼が、リーナの背中を見つめていた。
模造品の嘘。学歴の嘘。二つ続けて暴かれた。
フローラを庇う言葉が、出てこなかった。あの女が嘘をついていたことは、ディートリヒ自身も薄々感じていた。だが認めたくなかった。認めれば、リーナを切った自分の判断が間違いだったことになる。
グラスの中の赤ワインが、揺れている。
リーナの瞳が、サロンの光の中で一瞬だけ金色に光った。あの目が、今も自分の嘘を見透かしているのではないかという考えが、喉の奥に張りついて取れない。
——あの目が気味悪い。
かつて自分が吐いた言葉が、今は自分に返ってきている。
ディートリヒは赤ワインを一気に飲み干した。空になったグラスを給仕に押しつけ、サロンを後にした。
振り返らなかった。振り返れば、リーナの紫の瞳と目が合ってしまう。あの瞳に嘘を聴かれるのが、何より堪えた。




