第88話 封印の旋律
祠の地下通路は、暗かった。
松明の灯りが石壁を照らす。百年前に掘られた通路は幅が狭く、大人三人が横に並べばいっぱいになる。天井から水滴が落ち、足元の石畳は苔で滑りやすい。壁面のあちこちに亀裂が走り、隙間から星脈の青白い光が漏れている。
リーナは先頭を歩いていた。鑑譜眼で封印の旋律を追いながら、道を選ぶ。
「分岐ですわ」
三つの通路が口を開けていた。左は狭いが光が強い。中央は広いが暗い。右は緩やかに下っている。いずれも古い地図には記載されていない。
「左ですわ。封印の旋律が最も濃い」
「根拠は」
カイトが後ろから訊いた。松明の灯りに照らされた灰色の瞳が、通路の闇を睨んでいる。
「旋律が濃い方。封印の中心が近いほど、不協和音が強くなりますの。この耳が道標ですわ」
「不協和音に向かって進むのか。正気を疑うな」
「わたくしの耳を疑うのですか?」
「疑ってねぇよ。方針を疑ってるんだ」
ミーリアが二人の間に入った。大地に片手を当て、目を閉じている。
「あの、わたしも同じ方向を感じます。星脈の流れが、左に引っ張られてる。大地の奥で、何かが呼んでいるみたいに」
「二対一ですわね」
カイトが舌打ちした。しかし足は左に向かっていた。
通路が狭くなった。リーナは外套の裾を引きずらないように持ち上げ、身を低くして進む。前方の壁面に大きな亀裂が走り、そこから吹き出す星脈のエネルギーが通路の温度を上げていた。冬の山中とは思えない生温かい空気が顔に当たる。
「封印の劣化がここまで進んでいますのね」
リーナは亀裂に手を近づけた。触れてはいない。鑑譜眼で、亀裂の奥の旋律を聴く。
深い不協和音。百年間蓄積された歪みが、一本の亀裂から噴き出している。この通路自体が、封印の一部だった。アリーシアが編み上げた旋律の末端が、ここにも走っている。
「進もう」
後方のルシアンが言った。短い判断。声は冷静だが、リーナの肩に置かれた手の力加減が、わずかに強い。
* * *
通路を抜けた先に、空洞があった。
巨大だった。天井が見えないほど高く、壁面は星脈の光で青白く輝いている。光の粒子が雪のように降り注ぎ、空間全体が淡い発光に包まれていた。壁面に刻まれた紋様が星脈の光を受けて浮かび上がっている。百年前の封印術式の名残だった。
そして、大地が裂けていた。
空洞の床を三本の亀裂が走っていた。南東、北西、中央。亀裂から噴き出す星脈のエネルギーが柱のように立ち上り、天井に届いている。暴走したエネルギーが空洞の壁を削り、岩の破片が絶えず落下していた。地面に散った石の破片が、光の粒子を浴びて発光している。
空洞の中心に、球体があった。
直径十尺ほどの光の球体。表面が脈動するように明滅を繰り返している。封印の核だった。百年前にアリーシアが命と引き換えに編み上げた封印の中枢。その表面に無数のひび割れが走り、ひびの隙間から赤い光が漏れている。
リーナは鑑譜眼を全開にした。瞳が深い金色に輝く。イヤーカフが激しく振動する。
封印の旋律が、全身を貫いた。
百の楽器が同時に崩壊するような音。かつて美しい交響曲だったものが、弦を失い、管を折られ、調律を狂わされた状態で鳴り続けている。不協和音が幾重にも重なり、リーナの頭蓋の内側で反響した。視界が白く飛びかける。歯を食いしばり、堪えた。
しかし、その中に。
アリーシアの旋律が、まだ生きていた。
消えかけの、細い一本の糸のような音。百年間、たった一人で不協和音の中を鳴り続けた旋律。それが封印の最後の芯として、崩壊を辛うじて食い止めていた。
「見えますわ」
リーナの声が空洞に響いた。
「封印の旋律が聴こえます。暴走パターンは三つ。南東の裂け目は大地そのものが壊れかけている。北西は星脈の逆流。中央は核の不安定化。三つが同時に進行していますわ」
振り返った。ミーリアの淡い金色の瞳が大きく見開かれている。空洞の光景に圧倒されている。カイトは拳を握り、核紋が全身で脈動していた。灰色の瞳が封印の核を見据えている。
「ミーリアさん、大地の癒しを。カイトさん、核を安定させて。わたくしが旋律を整えます」
「はい!」
ミーリアが即座に応じた。迷いのない声だった。
「命令するな。——でも、やってやる」
カイトが外套を脱ぎ捨てた。
「ミーリアさん、南東の裂け目から始めてください。最も劣化が進んでいます。大地の構造が崩壊しかけていますの」
「わかりました!」
ミーリアが駆け出した。南東の亀裂の前で膝をつき、両手を大地に当てる。彼女の体から淡い光が溢れ始めた。大地の奥深くへ沁み込んでいく、透明な力。裂け目の縁が、わずかに脈動した。
「カイトさん。核の暴走は中央から来ています。あなたが全属性を注ぎ込むタイミングは——わたくしの合図で」
「合図って何だ」
「わたくしが『今』と言った瞬間ですわ。旋律が一致する瞬間は一度しか来ません」
カイトが封印の核を見上げた。脈動する光の球体が、彼の灰色の瞳に映り込んでいた。ひび割れから漏れる赤い光が、彼の顔を照らしている。
「一度かよ。失敗したら?」
「失敗しません。わたくしの耳を——信じてくださいますか?」
沈黙が一拍。カイトの灰色の瞳がリーナの金色の瞳を見つめた。
「……ちっ。信じてやる」
カイトが封印の核に向かって歩き出した。全身の核紋が激しく脈打ち、六つの属性の光が体を取り巻いている。炎の赤と水の青が交互に瞬き、その上を地の茶と風の緑が覆い、光の金と闇の紫が最外層で渦を巻いていた。
リーナは空洞の中央に立った。鑑譜眼を限界まで開く。封印の旋律の全てを聴き取る。三つの暴走パターン。ミーリアの癒しの波紋。カイトの属性の流れ。全てが同時に鑑譜眼に流れ込んでくる。
ミーリアの力が大地に沁みていく。南東の亀裂が——わずかに閉じ始めた。旋律の歪みが一つ減った。
「ミーリアさん、そのまま。少しだけ西寄りに。裂け目の根元に歪みの核がありますわ」
「はい!」
カイトが封印の核に手を当てた。全身が光に包まれる。核紋に蓄えた属性が、逆流するように核に流れ込み始めた。
旋律が変わった。暴走していた不協和音の中に、安定した和音が混じり始める。カイトの六属性が封印の核に注がれるたびに、旋律が整っていく。
リーナは鑑譜眼で、その全てを読み取っていた。
「カイトさん、少し抑えて。ミーリアさんの癒しが追いつかないと裂け目が再び開きますわ」
「わかった」
「ミーリアさん、北西にも力を回してください。南東は安定してきましたわ」
「は、はい!」
三つの力が噛み合っていく。鑑譜眼が捉える旋律が、不協和音から和音へと変わり始めている。
リーナの額に汗が浮いた。鑑譜眼の負荷が頭蓋の内側で鈍く脈打つ。こめかみが痛い。視界の端が霞む。イヤーカフが負荷を分散してくれているが、それでも限界が近い。
それでも、耳は聴いていた。旋律の変化を一音たりとも聴き逃さない。
「旋律が整い始めましたわ。あと少し——もっと深く!」
リーナの声が、空洞の天井に反響した。




