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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第87話 三つの旋律一つの場所

 朝霧が山脈の麓を覆っていた。


 遠征隊が聖域山脈の外縁に到達してから三日。古い地図に記された祠を目指した。百年前にアリーシアが最後に祈りを捧げたと伝わる場所だった。


 馬車を捨て、騎士たちが荷を担いで山道を登る。足元の岩肌に亀裂が走り、星脈の光が漏れ出している。


「ルシアン様、あの尾根を越えた先ですわ」


「何が見える」


「旋律が集中している地点が一つ。そして——人の気配が二つ」


 ルシアンの碧眼が鋭くなった。外套の下で、闇属性の力が待機状態に入るのがわかった。


「敵か」


「いいえ。知っている旋律ですわ」


 リーナは馬を降り、霧の中を歩いた。


 祠が見えた。


 苔むした石の小屋。屋根は半ば崩れ、壁面に刻まれた星神教の紋章が風化して読めない。入口の石段が傾き、雑草が隙間から伸びている。かつては巡礼者が絶えなかったはずの場所が、百年の歳月で忘れ去られていた。


 その前に、人影が二つ。


 リーナは鑑譜眼を発動した。瞳が金色に変わる。


 二つの旋律が、同時に聴こえた。


 一つは、透明な旋律。水のように澄み、大地の奥深くまで沁み込んでいくような音。以前グリュンハイムで聴いた時より遥かに深化していた。根を張った大樹のように力強く、それでいて優しい。


 もう一つは、荒々しい旋律。六つの属性が一つの核紋の中でぶつかり合い、せめぎ合い、それでも崩壊せずに均衡を保っている危うい音。容量の限界が近い。あの核紋は、いつ壊れてもおかしくない。


 霧の中から姿が浮かび上がった。


 小柄な少女が、祠の前で手を合わせていた。栗色の髪を肩まで伸ばし、白い法衣を纏っている。傍らに山守りの装束を着た長身の男が立ち、少女を見守るように腕を組んでいる。


 祠の壁に寄りかかっていたのは、黒髪の少年だった。腕を組み、退屈そうに空を見上げている。背は高くないが、鍛えられた体に安物の革鎧を纏い、腰に短剣を二本差している。核紋が全身から脈打つように力を放射していた。傍らに金髪の少女と、茶髪の青年がいる。


 栗色の髪の少女が振り返った。淡い金色の瞳が、霧を透かしてリーナを見つけた。


「リーナさま!」


 ミーリアの声が霧の中に響いた。祈りを中断して駆け寄ってくる。山守りの男がその後を追った。


「お久しぶりですわ、ミーリアさん。あの夜の約束……覚えていてくださったかしら」


「はい、覚えています。あの、泣いていても何も変わらないって」


 リーナは微笑んだ。あの夜。宮廷舞踏会で婚約を破棄され、東回廊を歩いていた時。柱の陰で泣いていた少女に、リーナは短い言葉をかけた。あれから半年。目の前のミーリアの旋律には、もう涙の音はなかった。芯に、強い光が宿っている。


「ええ。あなたはもう泣いていないのですわね」


 ミーリアが頷いた。その頬に、かすかに朱が差した。山守りの男——フェリクスが、ミーリアの隣で小さく頷いた。


 壁に寄りかかっていた少年が身を起こした。灰色の瞳がリーナを見据える。


「核紋、ますます賑やかですわね」


 リーナはカイトに向かって言った。鑑譜眼で聴こえる彼の旋律は、六属性の交響曲だった。一歩間違えば自壊する、危うい美しさ。以前カスカーラで感じた不安定さが、さらに増している。しかし同時に、統制も増していた。自壊寸前の均衡を、意志の力で保っている。


「お前もな。あの不気味な目は相変わらずだ」


 カイトの傍らにいた金髪の少女が彼の脇を小突いた。


「カイト、失礼でしょ」


「事実だろ。目が光ってるんだから」


 リーナは気にしなかった。カイトの核紋には嘘がない。口が悪いだけで、敵意はなかった。むしろ、彼の率直さが心地よくすらある。


 カイトがミーリアに視線を移した。首を傾げ、品定めするように上から下まで見る。


「お前が聖女? 思ったより普通だな」


「え、えっと……」


「カイト。二人目にも失礼」


 金髪の少女——ソフィアが溜息をついた。ミーリアが両手を胸の前で握り、小さく首を傾げて、カイトをじっと見つめた。


「あの……あなたの核紋、すごく温かい光がある……でも、身が竦むような何かも混じっています」


 カイトの灰色の瞳が見開かれた。体が微かに強張る。


「……お前、俺の核紋が見えるのか」


「見えるというか……感じるんです。星脈を通じて。大地の下を流れる星脈が、あなたの核紋と繋がっていて——その声が、聴こえるみたいに」


 カイトが無言でミーリアを見つめた。それから視線をリーナに移した。


「鑑譜眼とは違うのか」


「違いますわ。わたくしは核紋の旋律を聴く。ミーリアさんは星脈そのものを感じる。根本が異なりますの」


「面白い連中だ」


 カイトが鼻を鳴らした。その灰色の瞳の奥に、わずかに柔らかいものが浮かんだのを、リーナの鑑譜眼は見逃さなかった。


 三つの旋律が、初めて同じ場所で鳴っている。


 ミーリアの透明な旋律。カイトの荒々しい旋律。そしてリーナ自身の——嘘を暴く旋律。三つが互いに触れ、微かに共鳴した。反発ではない。補完だった。三つの音がそれぞれの欠けた部分を埋め合っている。


 リーナは鑑譜眼を切った。


「ミーリアさん、カイトさん。封印の中心まで、ここからどのくらいですの?」


 フェリクスが答えた。


「祠の地下に通路がある。半日で到達できる。だが、封印の劣化で通路の壁面が崩壊し始めている。いつ落盤するかわからない」


「承知しましたわ。ルシアン様」


 背後で控えていたルシアンが前に出た。公的な口調のまま、手短に指示を出す。


「遠征隊は祠の周辺に拠点を設営する。地下通路への突入は明朝——」


「今すぐですわ」


 リーナが遮った。ルシアンの碧眼が一瞬だけ揺れた。


「封印の劣化は一刻を争います。明朝まで待てば、通路が使えなくなる可能性がありますの。今、この三人で降りるべきですわ」


 沈黙が落ちた。護衛の騎士たちが緊張した面持ちで二人を見つめている。


 ルシアンが顎を引いた。


「……護衛を四名つける。俺も行く」


「ありがとうございます」


 リーナが言った瞬間、地面が震えた。


 小さな揺れ。祠の壁から石の欠片が落ち、足元の石畳に新しい亀裂が走った。亀裂から星脈の青白い光が漏れ出す。


 三人が同時に振り返った。聖域山脈の方角から、低い唸りが聞こえた。封印の咆哮。大地の底から突き上げてくる、うめきのような振動。


「待ってくれと言ってるのか、急げと言ってるのか」


 カイトが呟いた。


「急げ、ですの」


 リーナはイヤーカフに触れた。銀白色の星脈鉄が、地面から漏れる光を映して微かに震えていた。


「三つの旋律が揃った。山が——応えていますの」


 朝霧の向こうで、聖域山脈の頂が赤く光っていた。


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