第86話 帰ってきたら
遠征出発の前夜だった。
帝都イグナシオンの夜空に、星が冷たく瞬いている。シュヴァルツベルク家の別邸は慌ただしく動いていた。封印劣化の最新報告が午後に届き、出発が明朝に前倒しされたのだ。
リーナは自室で荷を詰めていた。替えの外套、鑑譜眼の負荷を抑える薬草、携行食。必要最低限のものだけを革の旅行鞄に収める。薬草が三日分しかない。足りるだろうか。
旅行鞄の蓋を閉じかけて、手が止まった。
机の上に、銀白色のイヤーカフが置いてある。ルシアンがリーナのために特注した星脈鉄製の増幅器。鑑譜眼の精度を底上げし、同時に負荷を分散する。これがなければ、封印の旋律を長時間聴くことは不可能だった。
指先でイヤーカフに触れた。金属の冷たさが、指の腹に馴染む。
扉を叩く音がした。
「リーナ」
ルシアンの声だった。公的な場では「私」を使う彼が、名前だけを呼ぶ。つまり二人きりだと判断している。
「どうぞ」
扉が開いた。ルシアンが入ってくる。黒い外套を羽織り、碧眼が蝋燭の灯りに揺れていた。いつもは几帳面に整えた黒髪が、わずかに乱れている。別邸の各所を回って指示を出していたのだろう。
「荷は済んだか」
「ほぼ。あとは明朝、イヤーカフの最終調整を済ませれば」
リーナは鞄の留め具を締めながら答えた。ルシアンは窓辺に寄り、夜空を見上げた。沈黙が落ちる。
妙に静かだった。いつもの彼なら、出発の段取りか情報の確認か、何かしら用件を持って来る。用件のない沈黙は珍しい。
「遠征隊の編成は終わりましたの?」
「ああ。騎士12名、魔導師4名、補給隊8名。聖域山脈の外縁まで10日の行程になる」
「10日。報告によれば封印の劣化は日ごとに加速していますわ。間に合うかしら」
「間に合わせる。道中の封印漏出が酷い箇所は迂回せず突破する」
実務的な会話だった。しかしルシアンの視線は窓の外に向いたまま、リーナを見ない。彼が目を逸らすのは、滅多にないことだった。
「ルシアン様?」
「外に出ろ」
唐突だった。リーナが目を瞬かせると、ルシアンは窓から視線を外さずに続けた。
「庭に降りる。五分だけだ」
* * *
別邸の裏庭は、冬の夜気に包まれていた。
石畳の小径を抜けると、噴水のある広場に出る。水は凍りかけて動きが鈍く、月の光が氷の表面で砕けていた。リーナの吐く息が白く染まる。庭の植え込みは冬枯れし、裸の枝が月光を受けて銀色に光っていた。
足を止めた。裏庭には、二人以外の人影はない。護衛の騎士たちは別邸の正門側に配置されている。ルシアンが意図的に人を遠ざけたのだろう。
「寒いですわ」
「すぐ終わる」
ルシアンの声が変わっていた。「俺」の口調。周囲に人の気配がないことを確認したのだろう。外套の襟を立てた横顔に、いつもの冷淡さはなかった。
「聖域山脈に着いたら、俺は前線に出る。お前は封印の解読に入る。別行動になるかもしれない」
「ええ。承知していますわ」
「危険な任務だ。封印の中心まで入り込めば、帰れなくなる可能性もある」
「それも承知しております」
「だから今言う」
ルシアンが振り向いた。碧眼がまっすぐにリーナを捉えた。
月の光が黒髪を青白く照らしている。端正な顔に緊張はない。けれど彼の手が微かに握られていることに、リーナは気づいていた。握りしめた拳の関節が、白く浮いている。
「帰ってきたら、返事を聞かせてくれ」
一瞬、意味がわからなかった。
返事。何の返事か。リーナの頭が高速で回転した。ルシアンが以前、告白めいた言葉を口にしたことはあった。「お前を手放す気はもうない」。しかしあれは日常の延長線上の言葉で、こうして改めて場所を用意して、二人きりで、正面から——
次の瞬間、鑑譜眼が勝手に発動した。
瞳が金色に変わる。意思とは無関係に、リーナの能力がルシアンの核紋を聴き取った。
流れ込んできた旋律に、呼吸が止まった。
今まで聴いた中で、最も澄んだ和音だった。
嘘がない。一つもない。打算も、計算も、駆け引きも。ただ純粋な、一つの想いだけが旋律になって鳴っている。低く深い闇属性の底に、温かい光が混じっている。それはルシアンという人間の全てを映した音だった。
リーナは鑑譜眼を切った。金色の光が消え、紫の瞳に戻る。
耳が熱かった。頬も、首筋も。冬の夜気が肌を刺しているのに、体の中心から火が灯ったように温かい。心臓が跳ねて、こめかみに血が上っているのがわかる。
「……ずるいですわ」
声が掠れた。リーナは自分の声の震えに気づいて、唇を引き結んだ。
「わたくしの鑑譜眼に、嘘のない旋律を聴かせるなんて。どう取り繕えばいいのか、わからなくなるではありませんか」
「取り繕わなくていい」
ルシアンが一歩近づいた。リーナの銀髪が、彼の外套の影に入る距離。蝋燭の灯りの代わりに、月の光だけが二人を照らしている。
「俺はお前の旋律が好きだ。嘘を暴く、あの容赦のない音が。初めて会った時から変わらない。だから——帰ってきたら」
「帰ってきますわ」
リーナは顔を上げた。耳が赤いのは自覚していた。隠す気もなかった。紫の瞳がルシアンの碧眼を映している。
「必ず。帰ってきますわ」
返事は、言わなかった。帰ってから言いたかったのだ。全てが終わった後に、言葉にしたかった。
ルシアンは何も言わなかった。ただ頷いて、リーナの手に触れた。冷えた指先に、彼の体温が重なる。大きな手が、リーナの小さな手を包み込んだ。
「五分だと言ったな」
「ええ」
「もう少しだけ、ここにいろ」
リーナの唇が、微かに持ち上がった。
「……命令形はお嫌いだと申し上げたはずですわ」
「知っている」
月が二人の影を石畳に落としていた。冬の夜気の中で、指先だけが温かかった。
五分は、とうに過ぎていた。どちらも動かなかった。
* * *
明朝。遠征隊が帝都を出発した。
冬の朝陽が東の空を淡く染めている。馬車が三台、護衛の騎士に囲まれて街道を南に向かった。
リーナは馬車の窓から帝都の城壁を見送った。ルシアンは別の馬車で指揮を執っている。出発時、彼は公的な口調に戻っていた。「出発する」。短い一言。碧眼はリーナを見なかった。
指先に、まだルシアンの体温が残っている気がした。
イヤーカフに触れる。銀白色の金属が冬の空気に冷え切っている。鑑譜眼を発動した。自分自身の核紋を内側から聴く。
いつもの旋律に、新しい音が混じっていた。小さな、けれどはっきりとした長調の和音。温かくて、少しだけくすぐったい音。それが何を意味するのか、リーナにはわかっていた。
返事はまだ言わなかった。帰ってきた時に、言葉にする。それが約束だった。




