第85話 もう一度婚約を
遠征出発の前夜。
リーナは議事堂の回廊を歩いていた。明朝の出発に向けた最終調整が終わり、宿舎に戻る途中だった。冬の夜風が回廊の柱の間を吹き抜け、銀髪を揺らす。石の柱が月明かりに白く浮かび、影が長い回廊を等間隔に区切っていた。
足音が聴こえた。
リーナの足音ではない。前方から、不規則な足音が近づいてくる。足を引きずるような歩き方。
「リーナ」
足が止まった。
回廊の向こうに、男が立っていた。
金髪は乱れ、碧眼は充血している。かつての帝国騎士団長の軍服はなく、代わりに質素な外套を纏っていた。爵位を剥奪された男にふさわしい、何の紋章もない無地の外套。頬がこけ、目の下に深い隈が刻まれている。
ディートリヒ。
昨日の議会決議で爵位を失った男。騎士団長の地位を失い、婚約者のフローラにも見捨てられた男。かつてリーナに「お前の目が気味悪い」と告げ、婚約を破棄した男。
「リーナ」
もう一度、呼んだ。
リーナの呼吸が一瞬止まった。ディートリヒの口から自分の名前を聞いたのは、初めてだった。婚約者だった頃も、「お前」か「クレスタフェルデ」としか呼ばなかった。名前を呼ぶことは、彼にとって最後の砦を捨てる行為に等しいのだろう。
「ディートリヒ様」
リーナの声は平静だった。
「こんな夜更けに、何の御用ですの」
ディートリヒが一歩前に出た。月明かりが回廊の柱の間から差し込み、彼の顔を照らした。その顔には、かつての騎士団長の傲慢さはなかった。代わりにあるのは、全てを失った男の虚ろさだった。
「頼む」
その声が、震えていた。喉の奥から絞り出すように。
「頼む、リーナ。もう一度。もう一度、婚約を」
回廊に、沈黙が落ちた。
冬の夜風だけが、柱の間を吹き抜けている。遠くで夜警の足音が聞こえ、やがて消えた。
リーナは動かなかった。ディートリヒの言葉を、そのまま受け止めた。
「もう一度やり直せる。お前の鑑譜眼があれば、私はまだ、やり直せるんだ。帝国のために、お前の力が」
言葉が途切れた。ディートリヒは唇を噛んだ。
「私が間違っていた。あの日、お前の目を気味悪いと言ったのは、間違いだった。分かっている。だから」
「ディートリヒ様」
リーナの声は穏やかだった。回廊に響く声に、怒りはなかった。憎しみもなかった。ただ、静かだった。水面に波紋が広がることなく、鏡のように凪いだ声。
「一つだけ、確かめさせてくださいまし」
鑑譜眼を発動した。
瞳が金色に変わる。月明かりと混じり合い、回廊が淡く照らされた。柱の白い石が金色に染まり、ディートリヒの影が揺れた。
ディートリヒの核紋を視る。
聴こえてきた旋律に、リーナは一つも驚かなかった。
打算の旋律。権力を失い、地位を失い、最後に残った藁にすがりつく音。かつてリーナの鑑譜眼を「気味の悪い目」と呼んで切り捨てたその力を、今になって惜しむ音。後悔の旋律は確かに混じっている。しかしそれは、リーナを失ったことへの後悔ではなかった。鑑譜眼という道具を失ったことへの後悔だった。
そしてその奥に、かすかな本心。微かに震える音。リーナという人間に向けた感情の欠片。しかしそれは愛ではなかった。依存だった。自分の足で立てなくなった男が、最も近くにあった支えを思い出しただけの、脆い音。
リーナは鑑譜眼を解除した。瞳が紫に戻る。
「聴かせていただきましたわ」
リーナは一歩、後ろに下がった。月明かりが彼女の銀髪を照らし、外套の裾が冬風に微かに揺れた。
「ディートリヒ様。あなたの旋律は、最初から不協和音でしたわ」
ディートリヒの碧眼が見開かれた。
「婚約者だった頃から、あなたの核紋には嘘が重なっていましたの。わたくしの目が気味悪いと仰った時。婚約を破棄した夜。そして今、もう一度婚約をと仰っている、この瞬間にも」
リーナの声は、揺るがなかった。
「あなたが求めているのは、わたくしではありませんの。わたくしの鑑譜眼ですわ。かつてわたくしを『気味の悪い目』と呼んで捨てたその力を、今になって惜しんでいるだけですの」
「違う」
「違いませんわ」
リーナは微笑んだ。穏やかで、どこか透き通った微笑み。憎しみのない、怒りのない、ただ事実を認めた人間の顔だった。
「わたくしの耳には、あなたの旋律を、もう一度聴く価値がありませんの」
ディートリヒの膝が、折れた。
石畳の上に崩れるように膝をつき、両手で顔を覆った。声にならない声が、喉の奥から漏れていた。肩が震えている。月明かりに照らされた金髪が、乱れたまま垂れ下がっていた。
リーナは見下ろさなかった。ディートリヒに背を向けた。
一歩を踏み出した。
「待ってくれ」
掠れた声が背中に届いた。
リーナは足を止めなかった。
回廊を歩いた。一歩、また一歩。冬の夜風が銀髪を揺らし、外套の裾が翻る。月明かりが柱の間から差し込み、リーナの影を長く伸ばしていた。
足音が遠ざかる。ディートリヒの声は、もう聞こえなかった。
* * *
宿舎の廊下で、ルシアンが待っていた。
壁に背を預け、腕を組んでいる。黒い外套が壁の影と溶け合っている。リーナが近づくと、碧眼がこちらに向いた。周囲に人がいないことを確認する一瞬の間。そして、口調が変わった。
「遅い」
「少し寄り道をしましたの」
「ディートリヒか」
リーナは足を止めた。
「聞いていましたの?」
「聞いていない。だがあいつが議事堂をうろついているのは知っていた。護衛をつけようかと思ったが、お前なら自分で片づけると思った」
リーナは小さく笑った。張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
「片づけましたわ」
「そうか」
ルシアンの碧眼が、リーナの表情を探るように見た。
「泣いていないな」
「泣く理由がありませんわ」
「そうか」
短い沈黙が流れた。宿舎の廊下は静かだった。遠くで夜警の足音が微かに響いている。
ルシアンが壁から背を離し、リーナの前に立った。碧眼が真っ直ぐにリーナを見ている。
「よくやった」
三つの言葉だった。それだけだった。
しかしその声の旋律に、リーナの耳は、嘘のない純粋な響きを聴いた。鑑譜眼は発動していない。それでも分かった。百の嘘を聴き分ける耳は、一つの真実も聴き逃さない。
「……ありがとうございますわ」
リーナの耳が、赤くなった。
「明日、出発ですわ」
「ああ」
「聖域山脈に着いたら、封印の修復に全力を注ぎますの。鑑譜眼の負荷は、裁判で相当蓄積していますけれど」
「休める時に休め。山脈までの道中で回復させる」
「はい」
リーナは頷いた。
宿舎の窓から、聖域山脈の稜線が見えた。山頂の赤い光が、夜空を背景に明滅している。封印が軋むたびに光が強まり、弱まり、呼吸するように繰り返していた。イヤーカフが微かに振動する。封印の悲鳴が、帝都にまで届いている。
「あの山が、わたくしを待っていますわ」
リーナは窓に手をついた。ガラス越しに、冬の冷気が伝わってくる。
「百年前、アリーシアは一人であの山に入りましたの。命を捧げて封印を編み上げて、帰ってこなかった」
「お前は帰ってくる」
「ええ」
リーナは振り返った。ルシアンの碧眼を見た。
「帰ってきますわ。必ず」
窓の外で、聖域山脈の頂がまた赤く光った。封印の悲鳴が、イヤーカフを通じてリーナの耳に届いている。
審判は終わった。嘘を暴く戦いは、一つの決着を見た。
しかし、壊れたものを修復する戦いが、これから始まる。
リーナは赤く光る山頂を見つめた。銀髪が窓からの隙間風に微かに揺れ、紫の瞳に赤い光が映り込んでいた。




