第80話 聖域山脈の咆哮
裁判の前日、異変は帝都の地下から始まった。
リーナが書斎で証拠書類の最終確認をしている時だった。左耳のイヤーカフが、突然、激しく振動した。
手が止まった。
羽根ペンが書類の上に落ちる。インクの染みが広がるのを見る余裕もなく、リーナは椅子から立ち上がった。
イヤーカフの振動は止まらなかった。断続的ではない。絶え間なく揺れ続けている。星脈鉄が肌に食い込むほどの振動。今までに経験したことのない強さだった。
リーナは窓に駆け寄った。
帝都イグナシオンの街並みが、冬の午後の光の中に広がっている。石畳の大通り。尖塔の連なる教会群。行き交う人々の日常。何も変わらない風景に見えた。
しかし、リーナの目は違うものを捉えていた。
通りの石畳に、亀裂が走っている。
細い。髪の毛ほどの幅。しかし確かに、昨日まではなかった裂け目が石畳を横断していた。そしてその亀裂から、淡い光の粒子が糸のように立ち上っている。
「星脈の漏出が、帝都の中で?」
リーナは瞳を閉じた。呼吸を整え、意識を集中する。
鑑譜眼を発動した。
瞳が金色に変わった瞬間、旋律が押し寄せてきた。
聖域山脈の方角から。遠く、しかし確実に。低く重い不協和音が帝都の地下を伝わって、足元から這い上がってくる。大地そのものが呻いているような音。封印の軋みが、これまでとは比較にならない速度で加速していた。
「三箇所が、同時に」
リーナは窓枠を掴んだ。金色の瞳が見開かれる。
帝都の地下の封印。グリュンハイムの封印。聖域山脈の封印。三つの封印が同時に軋んでいる。それぞれ異なる音程で劣化していたはずが、今は共鳴し合い、互いの崩壊を引き寄せている。一つが揺れると他の二つも揺れる。連鎖が止まらない。
「想定より、早い」
声が掠れた。リーナは鑑譜眼を切り、こめかみを押さえた。旋律の奔流が頭蓋を圧迫する。鈍い頭痛が眉間に走った。
しかし、痛みに構っている場合ではなかった。
* * *
ルシアンを見つけたのは、シュヴァルツベルク家の帝都別邸だった。
裁判用の証拠書類を整理していたルシアンは、リーナの顔を見た瞬間に手を止めた。碧眼が細くなる。
「顔色が悪い」
「それどころではありませんわ」
リーナは息を整えながら、別邸の応接間に入った。扉を閉め、声を落とす。
「封印の劣化が加速しています。帝都の石畳に亀裂が入り始めましたわ。星脈のエネルギーが地表に漏出しています」
ルシアンの表情が変わった。碧眼の奥に、冷たい緊張が走る。
「帝都まで影響が出ているのか」
「三箇所の封印が共鳴し始めています。鑑譜眼で聴きましたわ。劣化の速度が以前の観測の三倍です。あと数週間で第二の大崩落が起きる可能性がありますの」
ルシアンが書類を置いた。立ち上がり、窓辺に歩いた。窓の外、別邸の前の通りを見下ろす。
「石畳の亀裂、見えるか」
「ええ。まだ細いですわ。一般の方には気づかないでしょう。けれど——」
「時間の問題だな」
「ええ」
沈黙が落ちた。応接間の暖炉で、薪が爆ぜる音だけが響いた。
ルシアンが振り返った。
「裁判を早められるか」
「明日の開廷は動かせません。議会の手続き上」
「分かっている。明日の裁判で片をつける。長引かせない」
リーナは頷いた。ルシアンの声は冷静だったが、碧眼の奥に焦りが滲んでいた。鑑譜眼を使わなくても、その緊張は分かった。
「裁判を終わらせて、すぐに出発する。一日も無駄にはできませんわ」
「遠征隊の出発準備は整えてある。裁判の翌日には動ける」
「ルシアン様。もう一つ」
リーナは一歩、ルシアンに近づいた。声をさらに落とす。
「亀裂から漏出しているエネルギーは、まだ微量ですの。けれど、このまま劣化が進めば、帝都の市民にも影響が出ます。星脈のエネルギーに長時間さらされると、体調を崩す方が出てくる」
「それは」
「百年前の大崩落の前兆と同じですの。古い記録にありましたわ。大崩落の数日前、帝都の住民に原因不明の眩暈や頭痛が広がったと」
ルシアンの碧眼がリーナの顔を見た。
「お前の頭痛も、それか」
リーナは答えなかった。
「鑑譜眼の負荷と、星脈の漏出と、両方ですの。大丈夫です」
「嘘だな」
「あら。わたくしの嘘は、鑑譜眼がなくても見抜かれてしまいますのね」
ルシアンは何も言わなかった。ただ、外套のポケットから小さな布包みを取り出し、リーナの手に置いた。
「薬草茶だ。頭痛に効く。影部隊が任務中に使うものだ」
リーナは布包みを見下ろした。それから、ルシアンの顔を見た。
「……ありがとうございますわ」
「礼はいい。明日の裁判に万全の状態で出ろ」
* * *
日が暮れた。
リーナは伯爵邸の自室の窓から、帝都の夜景を見下ろしていた。蝋燭と魔導灯の明かりが街を照らし、冬の夜空に星が瞬いている。
しかしリーナの目は、星ではなく地面を見ていた。
昼間に見つけた石畳の亀裂が、微かに広がっている。そしてその亀裂から漏れ出す星脈の光が、薄い青白い靄のように地表を這っていた。一般の人間には見えないだろう。しかし鑑譜眼の持ち主には、はっきりと見えた。
大地が、出血している。
リーナはイヤーカフに指を当てた。振動は昼間より弱まっているが、止まってはいない。断続的に、一定のリズムで脈を打つように揺れている。
「まるで心臓の鼓動ですわね」
呟いた。
封印が生きている証拠だった。大聖女アリーシアが百年前に命を捧げて編み上げた封印は、今も脈を打っている。しかしその鼓動は乱れ、一拍ごとに弱くなっていた。
リーナは鑑譜眼を軽く発動した。金色の光が瞳に浮かぶ。
聖域山脈の方角に意識を向けた。
旋律が聴こえた。
遠い。帝都から聖域山脈までは十日の距離。しかし鑑譜眼が捉える旋律は、距離に関係なく響いてくる。星脈の脈動そのものが大地を伝わり、リーナの耳に届く。
その旋律の中に、アリーシアの声の残響が微かに混じっていた。
「まだ生きていますのね。あなたの旋律は、百年経っても」
リーナは窓の外に目を据えた。
その時。
大地が、揺れた。
微かな振動だった。グラスの水面が波立つ程度。しかしリーナの鑑譜眼はそれが地震ではないことを即座に聴き分けた。封印の核が軋んだのだ。三箇所の封印の核が同時に、ほんの一瞬だけ共振した。
そして。
窓の外に目をやったリーナの呼吸が止まった。
帝都の屋根の連なりの向こう。遠い山脈の稜線が、冬の夜空に黒く浮かんでいる。その稜線の一番高い場所、聖域山脈の最高峰の頂が。
赤く光っていた。
夕焼けではない。月明かりでもない。山の内側から、赤い光が溢れ出している。封印の劣化が極限に達した場所で、星脈のエネルギーが制御を失い、光として放射されていた。帝都から数百里離れた山頂の光が、肉眼で見えるほどの強さで。
「古い記録にありましたわ」
声が震えた。
「百年前の大崩落の直前——聖域山脈の頂が赤く光ったと」
リーナの金色の瞳に、赤い光が映り込んでいた。
封印は叫んでいた。悲鳴ではなく、警告を。百年間耐え続けた大聖女の命が、最後の力で崩壊に抗いながら、後に続く者に告げている。もう時間がないと。
イヤーカフが一際強く振動した。リーナは左耳に手を当てた。
「聴こえていますわ、アリーシア」
呟いた。
「明日、裁判を終わらせます。嘘を暴いて、枷を外して、それからあなたの元に参ります。必ず」
赤い光は消えなかった。冬の夜空に浮かぶ山脈の頂が、脈打つように明滅を繰り返している。
リーナは窓から離れ、書斎の机に戻った。裁判の証拠書類が広げられたまま置いてある。明日の陳述の原稿。証拠の提出順序。反論への対応策。
全てを確認し直す。一つの嘘も残さない。一つの綻びも許さない。
裁判を終わらせる。封印管理権を剥奪する。そして即座に遠征に出発する。
あの赤い光が、大崩落の前兆そのものが、帝都から見えるほどにまで迫っている。猶予は、もうない。
リーナは羽根ペンを取り、陳述の最終行に一文を書き加えた。
蝋燭の灯りの下、銀髪が揺れた。イヤーカフの振動が、脈拍と重なって響いていた。




