第79話 出発の朝
遠征の準備は整った。しかし、まだ帝都を離れるわけにはいかない。
リーナは書斎の机に積み上げた書類の束を見下ろした。ヴァレンシュタイン公爵家に対する告発状の最終草案。百年の嘘を暴くための証拠目録。鑑譜眼の残響を証拠として提出するための法的書式。
膨大な量だった。しかし、先に裁判で決着をつけなければ、遠征そのものが無意味になる。
「お嬢様。朝食の支度が整っております」
「後にしてくださいまし」
侍女が引き下がる気配がした。リーナは告発状の第四節を読み返した。封印研究の記録に関する鑑譜眼の残響分析。核紋に刻まれた記憶は嘘をつけない。百年前の当主が何を知り、何を隠したか。旋律は全てを記録している。
書類を閉じた。窓の外で、帝都の朝が動き始めていた。
* * *
朝食の席に着いた時、父エーリヒが既に食卓についていた。
灰色の瞳に銀髪。冬の朝の淡い光を受けて、伯爵の横顔は穏やかに見えた。しかしリーナの目には、父の眉間に刻まれた皺が見えていた。昨夜は眠れなかったのだろう。
「お父様。お早うございます」
「座りなさい」
リーナが椅子に腰を下ろすと、エーリヒがスープの皿に手をつけた。短い沈黙。使用人たちが食卓の給仕を済ませ、下がっていく。二人きりになった。
「裁判の準備は進んでいるか」
「ええ。告発状の最終草案を昨夜のうちに仕上げましたわ。証拠目録も。鑑譜眼の残響分析は、議会の法務官にも事前に提出済みですの」
エーリヒが頷いた。スープを一口含み、皿を置いた。
「ヴァレンシュタイン家は黙っていないだろう」
「当然ですわ。百年の嘘を暴かれるのですもの。抵抗は激しいでしょう」
「脅しが来る可能性もある。クレスタフェルデの名に傷をつけると——」
「もう傷だらけですわ」
リーナは微笑んだ。乾いた笑みだった。
「婚約を破棄され、呪いの目と噂され、社交界で孤立しかけた伯爵令嬢ですもの。今さら何を恐れるのかしら」
エーリヒの手が止まった。灰色の瞳が、娘の顔を見つめた。
「リーナ」
父の声が、低くなった。
「お前は正しいことをしている。遠征に志願したことも、裁判で真実を暴こうとしていることも。全て——お前の判断だ。父として、誇りに思う」
リーナの呼吸が詰まった。
あの日から今日まで、一度も味方でなかった日はない。鑑譜眼で視るまでもなく、その言葉に嘘がないことは分かっていた。
「お父様——ありがとうございますわ」
声が掠れた。視界が滲みかけたが、手の甲で拭う前に堪えた。泣かない。裁判の前に涙を見せるわけにはいかない。
「花粉ですの」
「冬だぞ」
エーリヒが小さく笑った。口元だけの、穏やかな笑み。
その時、食堂の扉が叩かれた。
* * *
「失礼する」
ルシアンの声だった。
食堂の扉を開けたルシアンは、黒い外套を纏ったままだった。朝の冷気を引き連れて入ってきた碧眼が、食卓のリーナを一瞥し、すぐに伯爵に向き直った。
「伯爵閣下。裁判に関して、シュヴァルツベルク家からの支援内容をお伝えしに参りました」
「シュヴァルツベルクの若。朝食はまだか」
「済ませてきました」
「そうか。座りなさい」
ルシアンが食卓の向かい側に腰を下ろした。リーナとの間に、朝の光が差し込むテーブルが一つ。
「裁判の場では、シュヴァルツベルク家が独自に集めた証拠も提出する。ヴァレンシュタイン家の裏取引、密輸ルート、エーデルシュタイン家との共謀。全てが揃っている」
「それは心強い。わたくしの鑑譜眼の残響と、ルシアン様の調査記録。二方向から攻められますわね」
「攻める、か。物騒だな」
「法廷で嘘を暴くのですもの。戦いですわ」
ルシアンの唇が微かに持ち上がった。碧眼がリーナの顔を見た。
「目が赤い」
「は——花粉ですの」
「伯爵閣下。お嬢様は冬に花粉症を発症されるのですか」
エーリヒが咳払いで笑いを誤魔化した。リーナの耳が赤くなった。
「ルシアン様。盗み聞きならまだしも、盗み見は感心しませんわ」
「お前が隠すのが下手なだけだ」
リーナは唇を引き結んだ。言い返す言葉を探したが、見つからなかった。ルシアンの核紋から流れる旋律に、嘘がないからだ。
エーリヒが静かに立ち上がった。
「二人で最終確認をするといい。わたしは議会の根回しに行ってくる。ツェラー議長にも話を通しておかなければならない」
「お父様。お気をつけて」
「ああ」
エーリヒが食堂を出ていった。その背中が扉の向こうに消えるのを見送り、リーナは視線をルシアンに戻した。
「裁判は三日後ですの。その前に確認しておきたいことがあります」
「何だ」
「裁判の後、すぐに遠征に出発する段取りですわ。裁判でヴァレンシュタイン家の封印管理権を剥奪できれば、遠征の法的障害はなくなる。けれど——」
リーナは声を落とした。
「裁判で負ければ、遠征そのものが白紙になりかねません」
「負けない」
ルシアンが言った。短く。迷いのない声。
「証拠は十分だ。負ける要素がない」
「法廷は、証拠だけでは動きませんわ。政治が絡みますの」
「だからシュヴァルツベルク家が動く」
リーナはルシアンの碧眼を見つめた。鑑譜眼は使わなかった。使わなくても、その声の奥にある旋律は聴こえていた。硬く、揺るぎない——けれど、その奥に微かな温度がある。
「ルシアン様」
「何だ」
「……ありがとうございますわ」
ルシアンは何も言わなかった。ただ、碧眼がリーナの顔から離れなかった。朝の光が二人の間のテーブルに差し込み、銀の食器を照らしていた。
「裁判で全てを暴いて、それから聖域山脈に向かいますわ。嘘を暴いてから、壊れたものを直す。その順番を間違えてはなりませんの」
「ああ」
ルシアンが立ち上がった。
「証拠書類の最終確認をする。書斎に来い」
「まだ朝食を食べていませんの」
「冷めるぞ」
「冷めても構いませんわ。わたくし、先にスープを——」
「書類が先だ」
リーナは小さく息をついた。椅子から立ち上がり、食堂を出るルシアンの背中を追った。
廊下を並んで歩く。朝の光が窓から差し込み、二人の影が石の床に伸びた。
「ルシアン様」
「何だ」
「裁判が終わったら——遠征が終わったら。全てが片づいたら」
リーナは言葉を途中で止めた。
「……いいえ。今は裁判に集中いたしますわ」
ルシアンの歩みが一瞬止まった。しかし、何も言わずに歩き出した。
書斎の扉を開けると、机の上に積み上げた書類の束が待っていた。百年の嘘を暴くための武器が。
リーナはイヤーカフに触れた。星脈鉄が冷たく指先に伝わる。
まず裁判。それから遠征。順番を間違えてはならない。
全てを片づける。嘘も、封印も、この胸の中の答えも——全て。




