第77話 帝国聖女の打診
翌日、皇帝からの書簡が届いた。
リーナはクレスタフェルデ伯爵邸の書斎で封を切り、蝋印を確認した。帝国の紋章。偽造の余地のない、正式な文書。
「帝国聖女の称号を、わたくしに?」
声が思わず上擦った。書簡を読み直す。偽聖女クラリッサの解任後、帝国は新たな聖女を必要としている。リーナの鑑譜眼を帝国の守護者として正式に位置づけたい——皇帝の意図は明快だった。
リーナは書簡をテーブルに置いた。
書斎の窓から差し込む朝の光が、書簡の蝋印を照らしている。帝国の紋章——翼を広げた双頭の鷲。その下に、皇帝の個人印。
聖女の称号。帝国において、皇帝に次ぐ権威。聖なる守護者。嘘のない存在。
リーナは指先で蝋印に触れた。鑑譜眼が反応する。瞳が微かに金色に揺れた。
書簡の旋律に、嘘はなかった。皇帝は本気でこの提案をしている。
「……ルシアン様に、お伝えしなければ」
リーナは書簡を丁寧に折り畳み、書斎を出た。
* * *
シュヴァルツベルク家の帝都別邸。応接間。
暖炉に火が入り、石壁の応接間を暖めている。テーブルの上に紅茶が二つ。侍従が退室した後、リーナが書簡を差し出した。
ルシアンは書簡を一読し、テーブルに戻した。
「悪い話ではない」
「表面上はそうですわね」
リーナは向かいの椅子に座り、紅茶のカップを手に取った。しかし口をつけない。
「帝国聖女の称号は、宮廷における最高位の庇護を意味しますわ。ヴァレンシュタイン家がいくら手を回しても、聖女に直接手を出すことはできない」
「だが」
「だが、ですわ」
リーナはカップを皿に戻した。磁器が小さく鳴る。
「聖女は宮廷に縛られます。皇帝の指示で動き、帝国の都合に合わせて能力を使う。わたくしの鑑譜眼は、帝国の道具になりますわ」
ルシアンが碧眼を細めた。
「皇帝は嘘をつかなかった。お前自身がそう言った」
「嘘をつかないことと、利用しないことは別ですわ。あの方は正直に利用なさるでしょう。それが最も厄介ですの」
リーナは窓の外を見た。帝都の尖塔が午前の光を受けて白く輝いている。
「嘘を暴く力と、聖女の称号は——少し、相性が悪いように思いますの」
「どういう意味だ」
「聖女は人々の希望の象徴。嘘のない清らかな存在として崇められますわ。でも、わたくしの能力は嘘を暴くことですの。清らかさとは正反対ですもの。聖女リーナが帝国の貴族の嘘を片端から暴き始めたら、どうなりますこと?」
ルシアンが黙った。一拍の間を置いて、口角が微かに上がった。
「帝国が転覆する」
「冗談ではなく、本当にそうなりかねませんわ」
リーナは椅子の背にもたれた。
「皇帝には保留のお返事をいたしますわ。遠征が終わってから、改めて考えます」
ルシアンが頷いた。
リーナは紅茶に口をつけた。冷めている。いつの間にか、随分と長く話し込んでいた。
「それに」
リーナはカップを置いた。
「偽聖女クラリッサのことを考えると、称号の重さが分かりますわ。あの方はエーデルシュタイン家の魔導具で聖光の儀を偽装して聖女の座についた。聖女の称号は、利用する側にとって非常に便利な道具なのですもの」
「お前が利用される側にはならないと」
「わたくしは道具にならないと申し上げていますの。利用する側にもされる側にも」
ルシアンが小さく息を吐いた。笑いに近い音だった。
「面倒な女だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
* * *
応接間を出て、廊下を歩く。
別邸の回廊は石造りで、足音がよく響いた。使用人の姿はない。ルシアンが人を遠ざけたのだと、リーナには分かっていた。
廊下の突き当たりの窓際で、ルシアンが足を止めた。
「リーナ」
口調が変わっていた。「私」ではなく。周囲に人がいないことを確認した上での、もう一つの声。
「何ですの」
「聖女にならなくていい」
短い言葉だった。ルシアンの碧眼がリーナの紫の瞳を見つめている。
「お前は、誰の道具にもなる必要はない。皇帝であっても」
リーナの胸に、温かいものが広がった。鑑譜眼を使うまでもなく、彼の声に嘘がないことは分かっていた。
「わたくしは誰かの道具になるつもりはありませんわ」
リーナは静かに言った。
「婚約破棄された夜に、それは決めましたの。ディートリヒの道具でも、皇帝の道具でも、ましてや聖女という称号の道具でもなく。わたくしは、わたくしの意志で動く」
ルシアンが何も言わずにリーナの頭に手を置いた。一瞬だけ。銀髪に触れた指がすぐに離れる。
「分かった」
それだけだった。
リーナの耳が熱くなった。視線を逸らし、窓の外に目をやる。
「……ルシアン様」
「なんだ」
「今のは、公的な場では控えてくださいまし。シュヴァルツベルク家の名に傷がつきますわ」
「二人きりだ」
「だから申し上げていますの」
リーナの声は平静を装っていたが、耳の赤さは隠せなかった。
ルシアンが窓枠に肩を預け、外を見た。碧眼に午前の光が映っている。
「遠征の件、護衛の最終編成を今日中に仕上げる。シュヴァルツベルク家の精鋭を八名。それと物資の手配は——」
「もう済ませてありますわ。星脈鉄の予備素材と、封印劣化の観測器具。食料と天幕は伯爵家から。ルシアン様には護衛の手配だけお願いいたしますの」
ルシアンの碧眼が微かに見開かれた。
「手が早いな」
「わたくしの父は伯爵家の当主ですわよ。物資の手配くらい、お手のものですの」
リーナは背筋を伸ばし、微笑んだ。
「聖女にはなりませんけれど、帝国を救うつもりはありますわ。称号などなくても、やるべきことは変わりません」
ルシアンが窓から視線をリーナに戻した。碧眼の中に、何かを堪えるような光が一瞬だけ見えた。
「お前は変わったな」
「どういう意味ですの」
「婚約破棄の直後に会った時は、もう少し——脆かった」
リーナは足を止めた。ルシアンの言葉に、鑑譜眼なしでも聴こえる真実が含まれていた。
「脆かったですわよ。泣いていましたもの。あの夜、大広間を追い出されて、回廊を一人で歩いて」
「今は」
「今は泣きませんわ。少なくとも、回廊では」
リーナは微笑んだ。軽い口調で、しかし目は笑っていなかった。
「泣く暇があれば、封印の旋律を一つでも多く聴いた方が生産的ですもの」
窓の向こうに、聖域山脈の稜線が薄く見えていた。
リーナの左耳のイヤーカフが、微かに振動した。遠い封印の旋律が、昨日よりもまた一音、低くなっていた。
時間がないことを、鑑譜眼が告げている。
リーナは回廊を歩き出した。ルシアンの足音が隣に並ぶ。聖女にはならない。けれど、この大陸に鳴り響く不協和音を止める。それが、リーナ・クレスタフェルデの選んだ道だった。




