第76話 封印劣化の加速
帝都イグナシオンの地下は、悲鳴を上げていた。
リーナがそう感じたのは、地下回廊の第七層に足を踏み入れた瞬間だった。星脈鉄のイヤーカフが微かに振動し、鑑譜眼が自動的に反応する。瞳が紫から金色に変わった。
封印の旋律が、歪んでいる。
「ルシアン様。三日前に来た時より、劣化が加速していますわ」
隣を歩くルシアンが足を止めた。碧眼が地下回廊の壁面を見つめている。石壁に走る亀裂から、淡い光の粒子が漏れ出していた。星脈のエネルギーだ。本来なら地中深くに封じられているそれが、目に見える形で地上に浮き上がっている。
松明の炎が揺れた。護衛の騎士が一歩退がる。光の粒子は冷たい。触れた者の肌を刺すような、生の魔力の感触。リーナはそれを指先で受け止め、粒子の流れる方向を観察した。
「どのくらい速い」
「三日前と比較して、不協和音の振幅が倍。このまま進行すれば、二ヶ月以内に地下第三層まで亀裂が到達しますわ」
第三層には帝都の水脈がある。リーナの言葉の意味を即座に理解したルシアンの目が細まった。
「帝都の水源が汚染される」
「汚染では済みませんの。星脈のエネルギーが水脈に流入すれば、帝都の井戸という井戸が魔力を帯びる。飲んだ者の核紋に異常が生じかねません」
リーナは壁面に手を当てた。指先から、封印の奥の旋律が流れ込んでくる。
百年前の大聖女アリーシアが施した封印。その旋律はかつて壮大な交響曲のように響いていたはずだった。今は所々で音が途切れ、弦が切れかけた楽器のように悲鳴を上げている。
「ヴァレンシュタイン家が封印研究で掘削した箇所が、最も劣化が激しいですわ。人為的に弱められた封印は、自然治癒しない」
ルシアンが顎を引いた。
「皇帝への報告は」
「まとめてあります。ただ——」
リーナは壁から手を離し、指先の光の粒子を見つめた。
「数値だけでは、伝わりませんわ。陛下に直接、この旋律を聴いていただく必要があります」
「皇帝への謁見は、簡単には取れない」
「もう取れていますわ」
ルシアンが片眉を上げた。リーナは微かに口角を持ち上げた。
「議会査問会の後、議長クロイツフェルト伯爵から内々に連絡がありましたの。皇帝陛下が、わたくしに会いたいと」
ルシアンが腕を組んだ。地下回廊の空気は冷たく、二人の吐く息が白い。
「皇帝が伯爵令嬢に直接謁見を許可する。異例だ」
「議会査問会で百年の嘘を暴いた伯爵令嬢ですわよ。皇帝が会いたがるのは自然ではありませんこと」
「自然かどうかではなく、政治的な意味の話だ」
「分かっていますわ」
リーナは地下回廊の奥を見つめた。暗闇の中に、光の粒子が蛍のように浮いている。封印の悲鳴は、止まない。
「でも、数値の報告だけでは遠征の許可は下りませんわ。皇帝に直接、劣化の深刻さを伝えなければ。そのために——会いに行きますの」
* * *
帝城の最奥。謁見の間。
天井は星空を模した魔導装飾で覆われ、七色の星脈紋様が壁面を走っている。中央の玉座に、レオハルト三世が座していた。
五十代半ば。鉄灰色の髪を短く刈り上げ、深い皺が刻まれた顔は岩のように動かない。冷たい灰色の瞳が、入室するリーナを捉えた。
リーナは儀礼通りに一礼した。ルシアンが半歩後ろに控えている。
玉座の周囲には近衛騎士が四名。そして宮廷魔導官が二名。それ以外に人の姿はない。極めて限られた人数での謁見だった。
謁見の間の空気は重かった。天井の魔導装飾が投げかける光の中に、微かな星脈の粒子が漂っている。この場所にまで、地下の漏出が影響しているのだ。リーナのイヤーカフが、足元から伝わる封印の旋律を拾っている。
「クレスタフェルデの娘か」
皇帝の声は低く、短かった。装飾のない、事実を確認する声。
「リーナ・クレスタフェルデにございます、陛下」
「議会での報告は読んだ。封印劣化。ヴァレンシュタインの隠蔽。大崩落の真因。——いずれも、お前の鑑譜眼がなければ暴けなかった」
リーナは鑑譜眼を発動した。瞳が金色に光る。
皇帝の核紋から流れる旋律を聴く。
重厚な低音。帝国を支える柱のように太く、冷たく、しかし一本の筋が通っている。嘘の不協和音は——ない。冷徹だが、嘘をつかない。
「お前の眼は、帝国を救えるか」
直截な問い。飾りのない、短い一文。
リーナは一瞬、目を閉じた。封印の旋律が脳裏に蘇る。弦が切れかけた悲鳴。劣化の加速。残された時間。
「わたくしの眼だけでは不十分です」
目を開いた。金色の瞳が、皇帝の灰色の瞳と交差する。
「しかし、道はあります」
皇帝の表情は動かなかった。灰色の瞳がリーナを見据えたまま、数秒の沈黙が流れた。
「聞こう」
「封印は三箇所で同時に劣化しています。帝都の地下、辺境のグリュンハイム、そして聖域山脈。三箇所を同時に安定化させなければ、劣化は止まりません。わたくしの鑑譜眼は封印の旋律を読み取り、修復の手順を指示できます。しかし、わたくし一人では三箇所を同時には扱えませんわ」
「必要な者がいると」
「二人。辺境の聖女と、迷宮都市の冒険者。それぞれが特異な核紋を持っています」
皇帝が椅子の肘掛けに指を置いた。その動作だけで、近衛騎士と魔導官が姿勢を正した。
「ヴァレンシュタインの調査と並行して、封印の安定化を進める。帝国の資源を必要とするなら、申請しろ」
「ありがたきお言葉にございます」
リーナは深く頭を下げた。
皇帝の灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ細まった。それが承認の意なのか、品定めなのか、リーナには分からなかった。鑑譜眼が捉えたのは、感情の揺れではなく、判断の確定だった。皇帝は既に決めている。この娘を使うと。
しかし、その旋律にも嘘はなかった。帝国のために使うのだと、嘘偽りなく。
皇帝が立ち上がった。近衛騎士が即座に左右に展開する。
「クレスタフェルデの娘」
リーナが顔を上げると、皇帝の灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「帝国は嘘の上に建っていた。それを暴いたのはお前だ。——壊すだけなら愚者にもできる。直せるか」
「直しますわ」
リーナの声は静かだったが、揺らがなかった。
皇帝は何も言わずに背を向け、奥の扉へ歩き去った。足音が大理石の床に響き、扉が閉じた。
* * *
謁見の間を出ると、ルシアンが壁に背を預けて待っていた。
「どうだった」
「嘘のない方でしたわ」
リーナは深く息を吐いた。緊張が解けたのか、指先が微かに震えている。
「冷たい旋律でしたけれど、帝国を守るという意志は本物でした。あの方の核紋には、嘘が一つもなかった」
「珍しいな。この帝都で」
「ええ。とても珍しいですわ」
ルシアンが壁から背を離し、リーナの隣に立った。廊下の窓から差し込む午後の光が、二人の影を長く伸ばしている。
「あの方は『直せるか』と仰いましたの」
リーナは自分の手を見つめた。白い指。傷一つない、伯爵令嬢の手。剣も握れず、魔法も撃てない。持っているのは、嘘を聴く瞳だけ。
「直せるのかと聞かれて、直すと答えた。大きく出たな」
「大きく出なければ、遠征の許可はいただけませんでしたわ」
「嘘ではなかっただろうな」
「わたくしが嘘を? 鑑譜眼の持ち主が嘘をつくなんて、笑い話にもなりませんもの」
リーナは肩の力を抜いた。ルシアンの碧眼が、穏やかな光を湛えている。
「封印劣化は待ってくれない。遠征の準備を急ぐ必要がある」
「分かっていますわ」
リーナは窓の外を見た。帝都の街並みの向こうに、聖域山脈の稜線が霞んでいる。
百年前、大聖女アリーシアがあの山脈で命を捧げた。封印は彼女の命そのもの。それが今、悲鳴を上げている。
リーナの左耳で、星脈鉄のイヤーカフが微かに振動した。遠い旋律が、聖域山脈の方角から聴こえている。低く、深く、途切れがちな音。
封印が、助けを求めていた。




