第75話 依頼書
夜が更けたシュヴァルツベルク公爵邸の書斎で、リーナは羊皮紙に向かっていた。
机の上に広げた大陸全図の隅に、インク壺と鵞ペンが置かれている。書斎の静寂の中で、ペン先が羊皮紙を走る音だけが響いていた。
ミーリア宛。こちらの手紙は迷わなかった。
リーナはペンを走らせた。
「グリュンハイムのミーリア様。帝都よりリーナ・クレスタフェルデが書簡をお送り申し上げます。先日辺境にてお目にかかりました折のこと、今もあの澄んだ旋律を覚えておりますわ」
ルシアンが向かいの椅子で報告書に目を通していた。時折、チラリとリーナの手元を見ている。
「丁寧だな」
「ミーリアさんには丁寧にするのが筋ですの。あの方は真っ直ぐな旋律をお持ちですもの。礼を尽くすのが当然です」
リーナはペンを止めず、封印修復への協力と聖域山脈での合流を依頼する文面を綴った。
ルシアンが報告書から目を上げた。
「断られる可能性は」
「低いですの。ミーリアさんは辺境の聖樹を半年も守り続けている方ですもの。封印の修復が必要だと知れば、必ず来てくださいます」
「根拠は」
「鑑譜眼ですの。あの方の核紋が一番強く鳴ったのは、『守りたいものがある』と仰った時でした。あの旋律に嘘はありませんでした」
リーナはミーリア宛の手紙を書き終え、砂を振って乾かした。丁寧な筆跡が、蝋燭の光に照らされて淡い金色に浮かび上がった。
次の羊皮紙を取り出す。
こちらは少し考えた。ペンをインク壺に浸したまま、一拍置いた。
あの少年の核紋を思い出す。荒々しくて、空のようで空じゃない、何層にも重なった旋律。初めて会った時は警戒と敵意に満ちていた。だがカスカーラの酒場で対等に渡り合った時、旋律が変わった。
鵞ペンを動かした。
「迷宮都市カスカーラの冒険者殿。核の専門家が必要です。報酬は大陸の未来。興味があれば来なさい」
署名を入れた。リーナ・クレスタフェルデ。
ルシアンが眉を上げた。
「上から目線だな」
「ですわ」
「相手の名前も書いていないぞ」
「あの少年の本名は、わたくしたちの間では使わない方がよろしいですわ。ヴァイスリッター家の件がありますもの。『核の専門家』で通じますわ。あの方以外に該当する人間はいないのですから」
「そうじゃない。文面が挑発的すぎないかと言っている」
リーナは鵞ペンを置いた。インク壺の中でペン先が小さく揺れた。
「あの方にはこのくらいが丁度よいのです」
「なぜだ」
「丁寧すぎると警戒しますわ。あの方の核紋が、わたくしの前で一番素直に鳴ったのはいつでしたか」
ルシアンが一瞬考え、答えた。
「カスカーラの酒場で、お前が対等以上の態度で接した時か」
「ええ。『あなたの核紋、以前より随分と賑やかになりましたわね』と言った瞬間、あの方の旋律から警戒音が消えましたの。逆に、わたくしが丁重に頭を下げたら、あの方は引くでしょうね。胡散臭いと感じて」
「鑑譜眼で人の扱い方まで分析するのか」
「嘘と本心の見分けがつけば、どう接するのが最善かも自ずと見えてきますわ。あの少年は、対等に扱われることに飢えている。冒険者ギルドでも、街でも、あの力のせいで腫れ物扱いされてきた方ですもの」
リーナは手紙を持ち上げ、蝋燭の光に翳した。短い文面が浮かび上がる。
「だから命令口調でもなく、懇願でもなく、この文面ですの。『興味があれば来なさい』。来るか来ないかは、あなたが決めなさいと。選択権を渡すのが、あの方への最大の敬意ですわ」
「……面倒な女だ」
「嘘ですわね。ルシアン様、その口調の時は大抵、感心していらっしゃいますもの」
ルシアンは答えなかった。だが口元が緩んでいるのを、リーナは見逃さなかった。
* * *
二通の手紙が乾いた。
リーナは封蝋を溶かし、クレスタフェルデ家の紋章を押した。赤い蝋が冷えて固まる音が、書斎に小さく響いた。二つの封筒が、机の上に並ぶ。一通は厚みがあり、もう一通は薄い。
「届け方ですが」
「俺のネットワークを使う。闇属性の連絡網なら、ヴァレンシュタインの目に触れずに届けられる」
「お願いいたしますわ」
ルシアンが二通の手紙を受け取った。長い指が封筒を丁寧に扱っている。
「グリュンハイムまでは5日。カスカーラまでは7日。返事が届くまでの時間も含めると、最短でも半月はかかる」
「封印劣化の速度を考えると、余裕はありませんわね」
「ああ。地震の頻度が上がっている。先週は二度だったが、今週は既に三度。間隔が縮まっている」
「数ヶ月以内に、第二の大崩落が起きる。百年前と同じ規模の」
二人の間に静寂が落ちた。蝋燭の炎が揺れ、書斎の壁に二つの影を映している。
「ルシアン様」
「ん」
「わたくし、婚約破棄された日のことを覚えていますわ」
ルシアンが手を止めた。
「あの夜、宮廷の回廊で泣いている少女とすれ違いましたの。あの少女がミーリアさんだったと分かったのは、ずっと後のことでしたけれど」
「ああ」
「あの日のわたくしは、自分の不協和音を片づけることで精一杯でしたわ。けれど今は、あの日すれ違った少女にも、迷宮都市で出会った少年にも、手紙を書いている」
リーナは机の上の封筒に目を落とした。蝋燭の光が、赤い封蝋の紋章を照らしている。
「不思議なものですわね。婚約破棄がなければ、この手紙は存在しなかった。鑑譜眼の進化も、ルシアン様との出会いも、全てあの夜から始まったのに」
「感謝でもするのか。ディートリヒに」
「まさか」
リーナは小さく笑った。
「あの方に感謝するくらいなら、大崩落に感謝しますわ。——冗談ですのよ」
ルシアンが立ち上がり、二通の手紙を内懐に収めた。外套の裏に、封筒が消える。
「今夜中に出す。辺境行きとカスカーラ行き、別の経路で」
「お願いいたしますわ」
ルシアンが扉に向かった。その背中に、リーナが声をかけた。
「ルシアン様」
「何だ」
「あの二人が来てくれると、信じていますわ」
ルシアンは振り返らなかった。だが扉の前で、一瞬だけ足を止めた。
「俺もだ」
扉が閉まった。
リーナは一人、書斎に残った。
手紙は放たれた。あとは、二人が応えてくれるかどうか。
リーナはイヤーカフに触れた。指先に、微かな振動が伝わってくる。大地の奥底で、封印がまた一つ軋んだ音だった。




