第74話 フローラの裏切り
噂は、宮廷を半日で駆け抜けた。
「フローラ・エーデルシュタインが婚約を破棄なさったそうよ」
「あら、ディートリヒ様の方からではなくて?」
「違いますのよ。フローラ様の方から。昨夜、ヴァレンシュタイン公爵邸で直接お伝えになったそうですの」
「まあ。騎士団長の職を剥奪された翌日に?」
「翌日どころか、当日の夜ですのよ。冷めないうちに手を引いたということでしょうね」
社交サロンの一角で、貴族令嬢たちが扇の陰で囁き合っている。薔薇の香りが漂うサロンの窓際に、リーナは茶杯を手に座っていた。ルシアンが斜め向かいに座っている。公的な場だった。
リーナの耳に、サロン中の令嬢たちの囁きが届いている。鑑譜眼は使っていない。使わなくとも、この程度の噂は聞こえる。
「フローラの動きは想定通りですの」
リーナの声は穏やかだった。茶杯を唇に運び、一口含む。
「ああ。昨夜のうちに情報が入っている」
ルシアンが茶を一口含んだ。周囲の視線を意識して、口調は公的なままだった。
「破棄の理由は聞いたか」
「ルシアン様の情報網は早いですわね。わたくしはまだサロンの噂でしか」
「政略が崩れた以上意味がない、と。そのまま言ったらしい」
リーナは茶杯を受け皿に戻した。微かな陶器の音が響く。
「そのまま、ですの」
「そのままだ」
「あの方らしいですこと。嘘つきのくせに、見切りだけは正直」
サロンの別の卓で、令嬢たちの囁きが続いている。リーナの鑑譜眼が、無意識にその声の旋律を拾った。興味本位の好奇心と、他人の不幸を楽しむ甘い不協和音。社交界とはそういう場所だった。
* * *
前夜。ヴァレンシュタイン公爵邸。
ディートリヒの執務室は暗かった。蝋燭が一本だけ灯り、壁に掛けられた騎士団長の紋章が影の中に沈んでいる。紋章はまだ外されていなかった。
フローラが扉を開けた。
化粧は完璧だった。髪は丁寧に巻かれ、ドレスは淡い紫。一分の隙もない装い。だがその完璧さが、かえって異様だった。婚約者の窮地に駆けつける女の装いではない。取引先との最後の会合に臨む女の装いだった。
「ディートリヒ様」
「フローラ」
ディートリヒは椅子に座ったまま、フローラを見上げた。金髪が乱れていた。議会から、着替えてもいないらしい。白い手袋の下に、壁を殴った拳の傷が隠れている。
「お話がありますの」
「……ああ」
フローラは向かいの椅子に腰を下ろした。背筋は真っ直ぐ。膝の上で手を組む。蝋燭の光がフローラの横顔を照らし、完璧に整えられた眉と、冷たく澄んだ瞳を浮かび上がらせた。
「わたくし、この婚約を解消させていただきますわ」
ディートリヒの瞳が揺れた。だが声は出なかった。
「驚かれましたの?」
フローラの口調は平坦だった。抑揚がない。怒りも愛惜もない、ただ事実を通告する声。
「フローラ、お前まで——」
「『まで』ではありませんわ。わたくしが最初から、ということですの」
フローラは手を膝の上から動かさなかった。
「あなたとの婚約は政略でしたもの。エーデルシュタイン家とヴァレンシュタイン家の同盟関係を補強するための、家と家の取り決め。あなた個人にわたくしが惹かれていたとお思いでしたの?」
「それは——」
「政略が崩れた以上、意味がありません」
フローラの声には一点の曇りもなかった。計算し尽くされた言葉が、一つずつ正確にディートリヒの急所を突いていく。
「騎士団長の職位を失い、議会から追及を受け、封印隠蔽の責任まで問われようとしている家の嫡男と婚姻を結ぶ利点が、エーデルシュタイン家にはもうありませんの」
ディートリヒの拳が震えた。椅子の肘掛けを握る指の関節が白く浮き上がっている。
「父も了承済みです。正式な書面は明朝お届けいたしますので」
「フローラ。お前は、最初から何も——」
「何もとは?」
フローラが首を僅かに傾げた。その仕草は社交界で何百回と見せてきた優雅な所作そのものだった。
「わたくしは最初から、自分の役割を果たしていました。政略の婚約者として、ふさわしい振る舞いを。あなたが望んだ通りに」
フローラが立ち上がった。ドレスの裾が床を擦る音が、静かな執務室に響いた。
「お元気で、ディートリヒ様」
扉が閉まった。足音が遠ざかっていく。
ディートリヒは椅子の中で動けなかった。蝋燭の炎が一つ揺れ、壁の紋章の影が震えた。
* * *
翌日の午後。シュヴァルツベルク公爵邸の庭園。
リーナとルシアンが並んで歩いていた。花壇の薔薇が最後の秋花を咲かせている。護衛の姿は庭の外周にあるが、会話が届く距離にはいない。
「嘘で結ばれた関係は、嘘で終わる」
リーナが薔薇の花弁に指を触れた。赤い花弁が一枚、指先から零れ落ちる。
「当然の旋律ですわ」
「哀れに思わないのか」
ルシアンの口調が切り替わっていた。
「フローラに? いいえ。あの方は最初から最後まで、自分の選択で動いていましたわ。政略であることを知りながら、政略の駒であり続けることを選んだ。そして政略が崩れたら、迷わず去った。一貫していますわ」
「ディートリヒの方はどうだ」
リーナの足が止まった。
「あの方にも、一貫性はありましたわ。自分に都合の悪い真実から目を逸らし続けたという、一貫性が」
風が庭園を渡り、銀髪を揺らした。
「わたくしの鑑譜眼を畏れて婚約を破棄し、フローラの虚飾に気づかないふりをし、軍事予算の流用から目を背けた。全て、同じ旋律ですわ。不都合な音を聴きたくないから、耳を塞ぐ」
薔薇の花弁がもう一枚、風に吹かれて落ちた。
「嘘つき同士の末路。不協和音の行き着く先は、いつも静寂ですの。和音ではなく、音が消えるだけの」
ルシアンがリーナの横に立った。
「俺は嘘が下手だ」
「存じていますわ」
「だから、お前に切り捨てられる心配だけはしなくていいな」
リーナの耳が赤くなった。秋風に当たっているのに、耳だけが熱い。
「……そういう台詞は、もう少し格好つけて仰ってくださいませ」
「格好をつけると嘘になる」
「……ですわね」
二人は再び歩き出した。庭園の向こうに、赤みを帯びた帝都の空が広がっている。石畳の上に、長い影が二つ並んでいた。
庭園の端に差し掛かった時、ルシアンが足を止めた。
「一つ聞いていいか」
「何ですの」
「お前がディートリヒに婚約を破棄された時。フローラと同じように、すぐに切り替えられたのか」
リーナは立ち止まった。銀髪が風に揺れ、横顔に影が落ちた。
「いいえ」
静かな声だった。
「あの夜は、回廊で一人で歩いていましたの。足がどこへ向かっているのか分からないまま。鑑譜眼が聴こえる全ての旋律が、不協和音に聞こえて——自分の核紋の音すら、信じられなくなっていました」
「今は」
「今は違いますわ。わたくしの旋律は、わたくしのもの。そしてこの鑑譜眼は、わたくしだけのもの。誰かに必要とされるために存在するのではなく、わたくしが使うと決めたから、使う」
リーナはルシアンの方を向いた。紫の瞳に、決意の光が宿っている。
「フローラとの違いはそこですわ。あの方は、自分が何のために存在するかを、常に他人に委ねていた。政略の駒として。だからこそ、政略が崩れた瞬間に次の駒の位置を探す以外の選択肢がない」
ルシアンが黙って頷いた。
「お前は強くなったな」
「褒めても何も出ませんことよ」
「褒めてない。事実を言っている」
リーナの耳が赤くなった。だが今度は隠さず、そのまま歩き出した。
フローラが去ったディートリヒの核紋から、崩壊の不協和音が止まらなかった。その旋律は、帝都の赤い空に溶けていくように、リーナの耳の奥でくすぶり続けていた。




